身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる
1
――輝く白金の髪は魔力を持つ証。神の加護を受けた印。
御伽話のように語り継がれている与太話を強く信じているのが、大陸の端に位置するキシュ王国だ。魔法を異様とも言えるほどに信仰しているこの国では、髪色が白金に近ければ近いほど良いとされている。逆に、黒髪は神の加護を受けられなかった象徴とされ、忌避されていた。
そんなキシュ王国の国王夫妻には娘がいる。高い魔力を有し、自由自在に魔法を操る彼女の髪は、美しい白金。如何なるときでも眩い輝きを放ち、神に愛された証だと両親はいつだって褒めそやす。
国王夫妻からの愛を一身に受け、すくすくと育った彼女の名前はエリシア。今年で十八歳になる彼女に双子の妹がいることを、国民は誰も知らない。
*
王城のほど近くに聳え立つ高い塔。罪人を閉じ込めるために建てられたその塔で、ネリアは息を潜めるようにしてひっそりと暮らしている。国王夫妻の元に生を受けたネリアは、一応キシュ王国の王女に当たるのだけれど。彼女の髪は、双子の姉であるエリシアとは対照的な漆黒。魔法を信仰する国の王家に生まれた、魔力を持たない赤子。神の加護を受けなかった証を見たときの、国王夫妻の落胆ぶりたるや。赤子に「ネリア」という名前だけ与えると、塔に閉じ込め、存在を公表することはしなかった。
出生の記録さえ残されなかったネリアの存在を知るのは、彼女たち双子をとりあげた産婆と、ほんの一握りの上層部のみ。ほとんどの国民は、王女が双子だということさえ知らない。生まれてから十八年、ネリアは塔を出ることを許されていない。友達と呼べる存在は一人もおらず、彼女の元へ訪れるのは双子の姉であるエリシアと乳母のマリーだけ。自由はなく、変わり映えのしない退屈な毎日。両親にさえ見捨てられた彼女だけれど、自らの境遇を恨むことはなかった。
ネリアを不憫に思った乳母が何かと世話を焼き、読み書きなどの最低限の教養を与えてくれたからだろうか。それとも、定期的に訪れるエリシアが、外の世界のことを教えてくれたからだろうか。どちらも正しいけれど、そうではない。ネリアが自らの境遇を決して恨まないのは、それが王女としての役目だからだ。エリシアとネリア、二人でキシュ王国の王女。「エリシアは魔法で、ネリアは塔にいることで王国を守っている」というのはエリシアが言っていた言葉だ。例え両親が会いに来てくれなくても、エリシアとマリー以外の誰もネリアのことを知らなくても気にならない。気にしてはいけない。ネリアが王女であることに変わりはないからだ。
――大丈夫かしら……。
そんな彼女は今、窓から王国を見下ろし胸を痛めている。申し訳程度に取り付けられた小さな窓。そこから見える国の様子や、道ゆく国民の姿は、彼女を王女たらしめてくれるものの一つだ。「ネリアが閉じ込められているからこそ王国は平和に保たれている」とも、エリシアは言っていた。外に出たくても、閉じ込められることが嫌になっても、国民の姿を見ればグッと堪えられる。王国が平和で穏やかであればあるほど、自らの存在理由を実感できる。
ネリアは、建国祭や舞踏会のシーズンが特に好きだった。王城全体が浮かれた気分に包まれ、煌びやかに輝いているのを見るだけで心が弾む。パーティーの後には、綺麗に着飾ったエリシアが美味しそうな料理やデザートを抱えて現れた。寝台の上で料理をつまみつつ、何が起きたかを微に入り細に入り話して聞かせてくれるエリシア。人伝に聞く王国の話をただ聞くだけで、ネリアは満足だった。
けれど今日に限っては、人伝に聞くのを待てそうにない。塔の小さな窓越しに見えるのは、明らかに王国のものではない甲冑を着た兵士、あちこちから上がる火の手、うっすらと聞こえる喧騒。ネリアの愛する王国が、国民が、危機に晒されようとしている。矢も盾もたまらず飛び出そうとするネリアを、必死に制したのはマリーだった。ネリアが塔から出れば、それこそ王国の破滅が訪れるとネリアを止めるマリーの様子は尋常ではない。まるで、ネリアを塔から決して出してはならないと、誰かに脅されているかのようだ。
けれど、そこで引き下がれるネリアではない。国民の誰にも知られていないとしても、ネリアはキシュ王国の王女。王国の危機に、一人だけ安全な場所で手をこまねいているわけにはいかないのだ。そう主張して押し問答を繰り返したけれど、結局マリーは折れない。代わりに自分が事情を聞きに行くからと言って出て行き、それから何の音沙汰もなく数十分。外から聞こえる喧騒は相変わらずで、マリーが帰ってくる気配はない。
――マリーもエリシアも、無事だといいけれど……。
ヤキモキしながら待っていることしかできない。やっぱり自分も外に出た方がいいのでは、そんなことを考えているときだった。何の前触れもなく、ポンっと何かが弾けるような音がする。聞き覚えのある音に振り向くと、予想通り姉のエリシアがそこにいた。
「エリシア……! 無事だったのね? 何が起きたの? マリーが下に降りて行ったんだけど、知ってる?」
「来てちょうだい」
「あ、え」
矢継ぎ早に繰り出した質問には答えてもらえず、エリシアはネリアの手首を掴んだ。彼女が指をパチンと鳴らすと、瞬きの間に景色が変わる。キシュ王国始まって以来の天才だと名高い彼女は、魔法を使う際に詠唱も媒介も必要としない。指を鳴らすだけで好きな場所へ移動できるのだ。目を開けると視界に映るのは、見たことのない寝台ルーム。アイボリーを基調とした可愛らしい雰囲気の部屋は、尋ねるまでもなくエリシアの部屋だと分かった。あんなに鬼気迫る様子でマリーに止められたのに、あっさり塔から出てしまったことに、一人で拍子抜けする。
ネリアの手首から手を離すと、エリシアはワードローブへと姿を消した。ガサゴソと乱暴に服を掻き分け放り投げるような音を聞きながら、ネリアは辺りを見回す。天蓋付きの寝台も、座り心地の良さそうなソファも、煌びやかなドレッサーも。どれも、ネリアが暮らす塔にはないものだ。殺風景な自分の部屋と比べると、天と地ほどの差がある。双子といえど、魔力の有無でこうも違うらしい。
軽く衝撃を受けていると、数分経ってようやくエリシアが戻ってきた。装いは町娘のように地味なものに変わっていて、手には真っ白い衣装を持っている。首を傾げて立ち尽くすネリアにそれを差し出すと、「これを着てちょうだい、今すぐ」と告げた。
「どうして?」
「どうしても」
「わかったわ」
理由らしい理由もなかったけれど、素直に頷いて服を脱ぐ。せっせと着替えている間に、「帝国が攻めてきたの」とエリシアはソファに腰掛けて状況を説明し始めた。
「帝国が……?」
聞き返すネリアに、エリシアは頷く。帝国とは、キシュ王国の隣に位置するコーア帝国のことだ。魔法を使える人もいるけれど、キシュ王国に比べれば魔法に対する信仰心が足りていないと本で読んだことがある。
「どうして?」
「わからないわ」
肩を竦めるエリシア。帝国は王国の魔法を恐れているので攻め入ってくることはないだろう、と聞いていたのだけれど。エリシアにもどういうことかわからないらしい。面倒なことになったとでも言いたげに眉根を寄せている。
「お父様とお母様は自害したの。帝国に囚われることは、プライドが許さなかったのでしょうね」
「そ、うなの……」
淡々と重大な事実を告げるエリシアにどう答えていいかわからず、ネリアは言葉を詰まらせる。話したことはおろか、顔を見たことすらない両親。それでも自分の肉親だからなのだろうか、少なからず心臓がざわついた。エリシアを見ると、くるくると白金の髪を指に巻きつけている。姉が何を考えているのかは、よくわからなかった。
「けれど、私はここで死ぬわけにはいかない。やらなければならないことがあるの」
マリーの安否を尋ねる前に、エリシアが口を開く。自分よりよっぽど両親と顔を合わせる機会は多かったはずなのに、エリシアは彼らの死について何も思わないのだろうか。ネリアと同じ翡翠の瞳は力強く輝きを放っている。奇妙なほどに落ち着き放った態度に圧倒され、それ以上何を尋ねることもできない。手渡された服に着替えて向き直ると、エリシアは立ち上がった。
「ネリア、お願い」
仕上げとばかりにネリアにヴェールを被せ、哀れっぽく懇願する。絵本で見た花嫁が身につけるようなレースのヴェールは、エリシアの髪色にならよく映えただろう。ネリアの黒髪にはあまり似合っていない気がする。妹がうっすら落ち込んでいることにも気づかず、エリシアはネリアの両手を握った。
「私の代わりをして、時間を稼いでちょうだい」
「え?」
聞き間違いだろうか、と思ったけれどエリシアの顔は真剣だ。ほっそりとした艶々の手が、ろくに手入れもされていないネリアの手を力強く握る。エリシアの代わりを務めたら、ネリアはどうなるのだろう。帝国の目的もわからないのに。捕まったら、惨たらしく殺されたり傷つけられたりしないのだろうか。そもそも身代わりをするにしても、髪の色でバレてしまうのではないか。そういえば、マリーは一体どうなったのだろう。塔から出ようとするネリアの代わりに、外の様子を見に行ってくれた彼女は無事なのだろうか。
「お願い、ネリア。王国のためなの」
「! 王国の……」
聞きたいことはいろいろあったけれど、その言葉が駄目押しだった。自らの境遇を恨むことはなくとも、他人の境遇を羨むことはある。どれだけ外に出たくても、マリーやエリシア以外の人と関わってみたくても、それでも我慢できたのはネリアが王女だからだ。王国のため、国民のため。そう思っていたからこそ、ネリアは狭い塔での暮らしに今まで耐えて来られたのだ。
「うん、わかった」
どうしてエリシアの身代わりをしなければならないのか、エリシアが何をしたいのかはわからない。けれど、それが王国のためになるというのなら、ネリアには頷かないという選択肢などあるはずもなかった。
*
王城の敷地内にある聖堂。エリシアから話を聞くことしかなかった場所に、こんな形で足を踏み入れることになるとは。
「綺麗……」
転移魔法でネリアをここまで連れてくると、エリシアはどこかへ行ってしまった。残されたネリアは、正面のステンドグラスをぼんやりと見上げる。国王夫妻を失ってなお、王国軍は帝国軍に抵抗しているのだろう。扉を隔てた向こうから喧騒が聞こえる。結局マリーの安否はわからないけれど、無事なのだろうか。
――もうすぐ、死ぬのかしら。
死が目前に迫っているからだろうか、これまでの十八年が頭をよぎる。王女として塔に閉じ込められることで、国民を守っていた。そのはずだけれど、こんな形で出てしまって大丈夫だったのだろうかと今更なことが思い浮かぶ。もっと他にやれることはなかったのだろうか。エリシアのように魔法は使えなくとも、何か自分にできることは。
考えても仕方のないことを考えていると、背後で扉が蹴破られる音が聞こえる。ついに最期を迎えるときが来たらしい。ツカツカと鳴り響く軍靴の音は、迷いなくネリアの元へ。動きを封じられたわけでもないのに、振り向くことができない。バクバクと大きく脈打つ心臓と共に、その瞬間を待った。
「おい」
「っ!」
肩に手をかけられ、振り向かされる。視界に映るのは、太陽のように輝く金色の髪と、絵本で見た海のように真っ青な瞳を持つ男。キラキラと輝く金髪に、羨ましさを覚えた。女性的な優美な顔立ちを汚す赤は返り血だろうか。ネリアを見て彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を消す。男はネリアの肩から手を離すと、血の滴る剣を何の躊躇いもなく首元に突きつけた。ひゅっ、と息を呑んでしまう。
「名前は?」
「……エリシア」
双子の姉の名前を名乗る。ネリアの命は目の前の男に握られているのも同然。生かされるのか、それとも切り捨てられるのかはわからない。
どちらにせよ、エリシアの身代わりとしての人生は、この瞬間に始まりを告げた。
御伽話のように語り継がれている与太話を強く信じているのが、大陸の端に位置するキシュ王国だ。魔法を異様とも言えるほどに信仰しているこの国では、髪色が白金に近ければ近いほど良いとされている。逆に、黒髪は神の加護を受けられなかった象徴とされ、忌避されていた。
そんなキシュ王国の国王夫妻には娘がいる。高い魔力を有し、自由自在に魔法を操る彼女の髪は、美しい白金。如何なるときでも眩い輝きを放ち、神に愛された証だと両親はいつだって褒めそやす。
国王夫妻からの愛を一身に受け、すくすくと育った彼女の名前はエリシア。今年で十八歳になる彼女に双子の妹がいることを、国民は誰も知らない。
*
王城のほど近くに聳え立つ高い塔。罪人を閉じ込めるために建てられたその塔で、ネリアは息を潜めるようにしてひっそりと暮らしている。国王夫妻の元に生を受けたネリアは、一応キシュ王国の王女に当たるのだけれど。彼女の髪は、双子の姉であるエリシアとは対照的な漆黒。魔法を信仰する国の王家に生まれた、魔力を持たない赤子。神の加護を受けなかった証を見たときの、国王夫妻の落胆ぶりたるや。赤子に「ネリア」という名前だけ与えると、塔に閉じ込め、存在を公表することはしなかった。
出生の記録さえ残されなかったネリアの存在を知るのは、彼女たち双子をとりあげた産婆と、ほんの一握りの上層部のみ。ほとんどの国民は、王女が双子だということさえ知らない。生まれてから十八年、ネリアは塔を出ることを許されていない。友達と呼べる存在は一人もおらず、彼女の元へ訪れるのは双子の姉であるエリシアと乳母のマリーだけ。自由はなく、変わり映えのしない退屈な毎日。両親にさえ見捨てられた彼女だけれど、自らの境遇を恨むことはなかった。
ネリアを不憫に思った乳母が何かと世話を焼き、読み書きなどの最低限の教養を与えてくれたからだろうか。それとも、定期的に訪れるエリシアが、外の世界のことを教えてくれたからだろうか。どちらも正しいけれど、そうではない。ネリアが自らの境遇を決して恨まないのは、それが王女としての役目だからだ。エリシアとネリア、二人でキシュ王国の王女。「エリシアは魔法で、ネリアは塔にいることで王国を守っている」というのはエリシアが言っていた言葉だ。例え両親が会いに来てくれなくても、エリシアとマリー以外の誰もネリアのことを知らなくても気にならない。気にしてはいけない。ネリアが王女であることに変わりはないからだ。
――大丈夫かしら……。
そんな彼女は今、窓から王国を見下ろし胸を痛めている。申し訳程度に取り付けられた小さな窓。そこから見える国の様子や、道ゆく国民の姿は、彼女を王女たらしめてくれるものの一つだ。「ネリアが閉じ込められているからこそ王国は平和に保たれている」とも、エリシアは言っていた。外に出たくても、閉じ込められることが嫌になっても、国民の姿を見ればグッと堪えられる。王国が平和で穏やかであればあるほど、自らの存在理由を実感できる。
ネリアは、建国祭や舞踏会のシーズンが特に好きだった。王城全体が浮かれた気分に包まれ、煌びやかに輝いているのを見るだけで心が弾む。パーティーの後には、綺麗に着飾ったエリシアが美味しそうな料理やデザートを抱えて現れた。寝台の上で料理をつまみつつ、何が起きたかを微に入り細に入り話して聞かせてくれるエリシア。人伝に聞く王国の話をただ聞くだけで、ネリアは満足だった。
けれど今日に限っては、人伝に聞くのを待てそうにない。塔の小さな窓越しに見えるのは、明らかに王国のものではない甲冑を着た兵士、あちこちから上がる火の手、うっすらと聞こえる喧騒。ネリアの愛する王国が、国民が、危機に晒されようとしている。矢も盾もたまらず飛び出そうとするネリアを、必死に制したのはマリーだった。ネリアが塔から出れば、それこそ王国の破滅が訪れるとネリアを止めるマリーの様子は尋常ではない。まるで、ネリアを塔から決して出してはならないと、誰かに脅されているかのようだ。
けれど、そこで引き下がれるネリアではない。国民の誰にも知られていないとしても、ネリアはキシュ王国の王女。王国の危機に、一人だけ安全な場所で手をこまねいているわけにはいかないのだ。そう主張して押し問答を繰り返したけれど、結局マリーは折れない。代わりに自分が事情を聞きに行くからと言って出て行き、それから何の音沙汰もなく数十分。外から聞こえる喧騒は相変わらずで、マリーが帰ってくる気配はない。
――マリーもエリシアも、無事だといいけれど……。
ヤキモキしながら待っていることしかできない。やっぱり自分も外に出た方がいいのでは、そんなことを考えているときだった。何の前触れもなく、ポンっと何かが弾けるような音がする。聞き覚えのある音に振り向くと、予想通り姉のエリシアがそこにいた。
「エリシア……! 無事だったのね? 何が起きたの? マリーが下に降りて行ったんだけど、知ってる?」
「来てちょうだい」
「あ、え」
矢継ぎ早に繰り出した質問には答えてもらえず、エリシアはネリアの手首を掴んだ。彼女が指をパチンと鳴らすと、瞬きの間に景色が変わる。キシュ王国始まって以来の天才だと名高い彼女は、魔法を使う際に詠唱も媒介も必要としない。指を鳴らすだけで好きな場所へ移動できるのだ。目を開けると視界に映るのは、見たことのない寝台ルーム。アイボリーを基調とした可愛らしい雰囲気の部屋は、尋ねるまでもなくエリシアの部屋だと分かった。あんなに鬼気迫る様子でマリーに止められたのに、あっさり塔から出てしまったことに、一人で拍子抜けする。
ネリアの手首から手を離すと、エリシアはワードローブへと姿を消した。ガサゴソと乱暴に服を掻き分け放り投げるような音を聞きながら、ネリアは辺りを見回す。天蓋付きの寝台も、座り心地の良さそうなソファも、煌びやかなドレッサーも。どれも、ネリアが暮らす塔にはないものだ。殺風景な自分の部屋と比べると、天と地ほどの差がある。双子といえど、魔力の有無でこうも違うらしい。
軽く衝撃を受けていると、数分経ってようやくエリシアが戻ってきた。装いは町娘のように地味なものに変わっていて、手には真っ白い衣装を持っている。首を傾げて立ち尽くすネリアにそれを差し出すと、「これを着てちょうだい、今すぐ」と告げた。
「どうして?」
「どうしても」
「わかったわ」
理由らしい理由もなかったけれど、素直に頷いて服を脱ぐ。せっせと着替えている間に、「帝国が攻めてきたの」とエリシアはソファに腰掛けて状況を説明し始めた。
「帝国が……?」
聞き返すネリアに、エリシアは頷く。帝国とは、キシュ王国の隣に位置するコーア帝国のことだ。魔法を使える人もいるけれど、キシュ王国に比べれば魔法に対する信仰心が足りていないと本で読んだことがある。
「どうして?」
「わからないわ」
肩を竦めるエリシア。帝国は王国の魔法を恐れているので攻め入ってくることはないだろう、と聞いていたのだけれど。エリシアにもどういうことかわからないらしい。面倒なことになったとでも言いたげに眉根を寄せている。
「お父様とお母様は自害したの。帝国に囚われることは、プライドが許さなかったのでしょうね」
「そ、うなの……」
淡々と重大な事実を告げるエリシアにどう答えていいかわからず、ネリアは言葉を詰まらせる。話したことはおろか、顔を見たことすらない両親。それでも自分の肉親だからなのだろうか、少なからず心臓がざわついた。エリシアを見ると、くるくると白金の髪を指に巻きつけている。姉が何を考えているのかは、よくわからなかった。
「けれど、私はここで死ぬわけにはいかない。やらなければならないことがあるの」
マリーの安否を尋ねる前に、エリシアが口を開く。自分よりよっぽど両親と顔を合わせる機会は多かったはずなのに、エリシアは彼らの死について何も思わないのだろうか。ネリアと同じ翡翠の瞳は力強く輝きを放っている。奇妙なほどに落ち着き放った態度に圧倒され、それ以上何を尋ねることもできない。手渡された服に着替えて向き直ると、エリシアは立ち上がった。
「ネリア、お願い」
仕上げとばかりにネリアにヴェールを被せ、哀れっぽく懇願する。絵本で見た花嫁が身につけるようなレースのヴェールは、エリシアの髪色にならよく映えただろう。ネリアの黒髪にはあまり似合っていない気がする。妹がうっすら落ち込んでいることにも気づかず、エリシアはネリアの両手を握った。
「私の代わりをして、時間を稼いでちょうだい」
「え?」
聞き間違いだろうか、と思ったけれどエリシアの顔は真剣だ。ほっそりとした艶々の手が、ろくに手入れもされていないネリアの手を力強く握る。エリシアの代わりを務めたら、ネリアはどうなるのだろう。帝国の目的もわからないのに。捕まったら、惨たらしく殺されたり傷つけられたりしないのだろうか。そもそも身代わりをするにしても、髪の色でバレてしまうのではないか。そういえば、マリーは一体どうなったのだろう。塔から出ようとするネリアの代わりに、外の様子を見に行ってくれた彼女は無事なのだろうか。
「お願い、ネリア。王国のためなの」
「! 王国の……」
聞きたいことはいろいろあったけれど、その言葉が駄目押しだった。自らの境遇を恨むことはなくとも、他人の境遇を羨むことはある。どれだけ外に出たくても、マリーやエリシア以外の人と関わってみたくても、それでも我慢できたのはネリアが王女だからだ。王国のため、国民のため。そう思っていたからこそ、ネリアは狭い塔での暮らしに今まで耐えて来られたのだ。
「うん、わかった」
どうしてエリシアの身代わりをしなければならないのか、エリシアが何をしたいのかはわからない。けれど、それが王国のためになるというのなら、ネリアには頷かないという選択肢などあるはずもなかった。
*
王城の敷地内にある聖堂。エリシアから話を聞くことしかなかった場所に、こんな形で足を踏み入れることになるとは。
「綺麗……」
転移魔法でネリアをここまで連れてくると、エリシアはどこかへ行ってしまった。残されたネリアは、正面のステンドグラスをぼんやりと見上げる。国王夫妻を失ってなお、王国軍は帝国軍に抵抗しているのだろう。扉を隔てた向こうから喧騒が聞こえる。結局マリーの安否はわからないけれど、無事なのだろうか。
――もうすぐ、死ぬのかしら。
死が目前に迫っているからだろうか、これまでの十八年が頭をよぎる。王女として塔に閉じ込められることで、国民を守っていた。そのはずだけれど、こんな形で出てしまって大丈夫だったのだろうかと今更なことが思い浮かぶ。もっと他にやれることはなかったのだろうか。エリシアのように魔法は使えなくとも、何か自分にできることは。
考えても仕方のないことを考えていると、背後で扉が蹴破られる音が聞こえる。ついに最期を迎えるときが来たらしい。ツカツカと鳴り響く軍靴の音は、迷いなくネリアの元へ。動きを封じられたわけでもないのに、振り向くことができない。バクバクと大きく脈打つ心臓と共に、その瞬間を待った。
「おい」
「っ!」
肩に手をかけられ、振り向かされる。視界に映るのは、太陽のように輝く金色の髪と、絵本で見た海のように真っ青な瞳を持つ男。キラキラと輝く金髪に、羨ましさを覚えた。女性的な優美な顔立ちを汚す赤は返り血だろうか。ネリアを見て彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を消す。男はネリアの肩から手を離すと、血の滴る剣を何の躊躇いもなく首元に突きつけた。ひゅっ、と息を呑んでしまう。
「名前は?」
「……エリシア」
双子の姉の名前を名乗る。ネリアの命は目の前の男に握られているのも同然。生かされるのか、それとも切り捨てられるのかはわからない。
どちらにせよ、エリシアの身代わりとしての人生は、この瞬間に始まりを告げた。
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