身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる
22
「どこに消えた……?」
ようやく再会できたと思ったのに、目の前でネリアは姿を消した。辺りを見回してみても、影も形もない。彼女が叫んだ瞬間、見えない何かに吹っ飛ばされたエリシア、髪の変色といい、明らかに様子のおかしかったネリア。それらを繋げて考えると、一つの可能性が浮かび上がる。皇宮魔術師を呼び寄せ、腕輪の反応がどこにあるのかを尋ねた。
「遠くありません。おそらく、あちらかと」
指差す方角には、聳え立つ塔。初めて王国に足を踏み入れたとき、罪人が閉じ込められているようだと思った場所だ。なんであんなところに、と首を傾げていると、「あら、あの子に逃げられたの?」と呑気な声が聞こえた。
「よお、お目覚めかよ」
「ええ、よく眠れたわ。モーニングティーをいただける?」
「ねえよ、そんなもん」
捕縛されているというのに、エリシアは随分と太々しい。自分の状況がわかっていないのだろうか。エリシアを装っていたときのネリアでさえ、ここまでではなかった。大股で近寄り、「あの塔はなんだ?」と尋ねる。
「何ですの、いきなり」
「いいから答えろ」
「……塔よ、ネリアを閉じ込めていた」
端的に答えるエリシアは、ふいっと顔を背ける。バツが悪そうにも見えるその表情に、「閉じ込めていた?」と首を傾げる。「ええ。生まれたときからずっとね」と答えるエリシアに、キシュ王国の闇の深さというものを改めて思い知った。
「あの子、魔法が使えるようになったのね。体を張った甲斐があったわ」
「……もしかして、自分の魔力を与えたのか?」
「ええ」
あっさりと頷き、「双子だもの。分け合って当然でしょう?」と当たり前のことのように返される。確かに、「魔力持ちから魔力を抽出して、非魔力持ちに注入する魔法」を編み出したと言っていた。ネリアに魔力を注入したのなら、抽出される人間も当然必要となる。それは誰あろう、自分自身だったというわけだ。
納得すると同時に、末恐ろしさを感じる。つまり彼女は、本来の力の半分しかなかったのだ。だというのに、王国の兵士をここまで満身創痍にさせたのだから、稀代の魔法使いの実力ときたら。改めて、王国を小国だと侮ることはできない。陛下が穏便に王国を吸収したかった気持ちが今になってよくわかる。
「リオン、こいつを見張っておけ。それから、負傷者の手当てを頼む」
「しかし、殿下は?」
「婚約者を迎えに行ってくる」
「一人で大丈夫ですか?」
「そんな柔な鍛えられ方はしてねえ」
リオンの返事を待たず、塔に向かって足を進めた。
*
長い長い螺旋階段を、シルビオは上り続ける。
エリシアとの戦いにより全身ボロボロで、正直もう一歩だって歩きたくはない。次第に足が上がらなくなっているような感覚さえある。こういうときに、転移魔法を使えたら便利なのだろう。けれど、魔力があるとはいえそんな高度な魔法を使いこなせるほどではないのだから、考えたって仕方のないことだ。
「どんだけあんだよ、この階段……」
顔を顰めるシルビオ。それでも、歩みを止めるという選択肢はない。聞かなければならないことも、話さなければならないこともたくさんある。反応がここからする、と皇宮魔術師は言っていたけれど、こうして上っている間にも彼女はどこか別のところへ行方を眩ましているのかもしれない。この階段を上り切った先に彼女がいる保証なんてありはしないけれど、足を止めることはできなかった。
そうして、永遠にも感じられる時間をかけて上り続けるシルビオは、とうとう頂上にまで辿り着いたらしい。目の前に現れたのは、頑丈そうな作りの扉。ドアノブに触れる手が震える。
「……中に、いるのか?」
扉をたたき問いかけると、中からガタガタっと物音が聞こえた。ネリアかどうかはまだわからないけれど、中に人がいることは確実なようだ。ドアノブを回して開けようとするけれど、ガチャガチャと音が鳴るばかりで開く気配はない。どうやら、厳重に鍵がかかっているらしい。「くっそ……」と悪態を吐き、剣を構えるシルビオ。魔力を込めて強化し、扉に向かって一直線に振り下ろした。
バァンッと破裂したような音が響き、扉が吹っ飛ぶ。あとでどうにかして直そう、と思いつつ残骸となった扉を乗り越えて、中に足を踏み入れる。簡素な石造の部屋は、見た目の想像と違わず随分と狭い。罪人を閉じ込めているようだ、と思ったのはあながち間違いでもなさそうだ。ネリアは一体どこだろうと辺りを見回すと、「えっ!?」と驚いたような声が聞こえる。
「あ、いた」
床に座り込むネリアが、シルビオを凝視している。まさかシルビオがここまで来るとは予想もしていなかったのだろうか。「な、えっ、殿下!?」と大袈裟なほどに驚き、慌てふためいている。その様子がなんだかおかしくて、いつもと変わらない様子に少しだけ安心してしまった。ネリアが逃げる前に、と大股で近づくシルビオ。座り込む彼女の前で立ち止まると、シルビオは跪いて口を開いた。
「名前は?」
「へ」
素っ頓狂な声を漏らすネリア。きっともう知っているはずなのにどうして聞かれているのだろう、と顔に書いてある。相変わらず何を考えているのかわかりやすい表情に頬が緩んでしまいそうなのを必死に隠し、「名前は?」ともう一度尋ねた。よくよくネリアを見ると、目尻から涙が溢れている。昨日からずっと、泣いている彼女を見てばかりだ。手を伸ばして親指で拭うと、「ね、ネリア」と答えてくれた。
「ふうん、ネリア。ネリアね」
とっくの昔に知っていた名前ではあるけれど。本人の口から教えてもらうのと、勝手に知るのとではやはり違う。ようやく教えてもらえた、とそんな場合ではないのに思わず浮かれてしまう。確かめるように何度も口の中で転がすシルビに対して、ネリアはぽかんと口を開けている。どうしてシルビオが嬉しそうなのか、よくわからないようだ。その呆けた表情すら愛おしいシルビオは、「俺はシルビオ。よろしく」と手を差し出した。
「よ、よろしくお願いします?」
どうして今更はじめましてなのだろうか、と言いたいのが伝わる。それでもおずおずと手を差し出して握り返す辺り、律儀で可愛い人だ。自己満足の初対面をやり直すと、ネリアの手をそのまま引っ張る。横抱きにして抱え上げ、シルビオが破壊した扉の方へと向かった。うかうかして、また姿を消されてはたまったものではない。
「じゃ、帰るぞ」
「えっ!?」
驚くネリアを無視して、シルビオはスタスタと部屋から出ていく。往路と違って復路は降り。落とさないようにだけ気をつけつつ、階段を一歩ずつ降りていく。シルビオの首に必死になってしがみつくネリアは、「か、帰るってどこに!?」と叫んだ。
「帝国に決まってるだろ」
「そ、そんな資格ないわ!」
「はあ?」
立ち止まって腕の中のネリアを見下ろす。瞳に涙を浮かべるネリアは、「き、聞いて。全部……全部、私のせいだったの」と訴えはじめた。どうしようかと逡巡したシルビオは、ネリアを離すことなく階段に腰を下ろす。日課の夜の時間のように、膝に乗せられたネリアは話しはじめた。
帝国の村人、王国の貴族が行方不明になっていたのは、エリシアが非人道的な魔法の開発に巻き込んでいたせいだということ。国王夫妻は自害したのではなく、エリシアに操られてそう見せかけられていたこと。攫われた人たちはおそらく王宮の地下にいること。その全ては、ネリアが「外に出たい」とエリシアに願ってしまったことが原因だということ。
ボロボロと涙をこぼしてネリアが語る内容に、破綻はない。エリシアが嬉しそうに語っていたこととも合致する。王国と帝国で起きた一連の事件は、キシュ王国の王女であり、稀代の魔法使いであるエリシアが犯人だったというわけだ。そこに異論はない、けれど。
「私が、悪いの。私が外に出たいなんて、願ったから……!」
「それのどこが悪いんだよ」
黙ってネリアの話を聞いていたシルビオだけれど、その発言にだけは口を挟まずにはいられなかった。泣きすぎて赤くなった目でシルビオを見上げるネリア。ポケットに入れていたハンカチの存在をふと思い出し、取り出して渡してやる。シルビオのイニシャルが縫い付けられたそれは、ネリアがシルビオにくれたものだ。握りしめてぽかんとするネリアに、「あんな狭い部屋に十八年も閉じ込められてたんだろ? 外に出たいと思って当然だろ」と告げる。
「で、でも、そのせいでエリシアが……」
「騒ぎを起こしたって? 履き違えんなよ」
「!」
翡翠の瞳をまん丸に見開くネリアに、「聞くけど、お前は外に出たかったのか? それとも、魔法を使えるようになりたかったのか?」と続ける。「私は……」と思案するように俯くネリア。ひく、と震える喉は徐々に落ち着きを取り戻し、ゆっくりと顔を上げた。
「……外に、出たかった」
「じゃあ、願いを曲解した姉が悪い」
「そ、そんなあっさり!」
あわあわと言い募るネリアに、「そりゃそうだろ」と制する。もごもごと口を噤むネリアに、シルビオは続けた。
「そもそも、魔力がないってだけで閉じ込められるのがおかしいんだよ。お前は何も悪いことしてないのに」
ネリアの言葉がきっかけでエリシアが暴走したのだとしても、それはネリアがしでかしたことではない。けれど、エリシアの行動だって、ネリアを外に出してあげたいという妹への愛情によるものだったはず。「魔力が無い者に価値はない」という、王国特有の歪んだ価値観に染められていたせいで、方法を間違えただけだ。とはいえ、エリシアの行動は看過できるものでないのは確実なのだけれど。納得していなさそうなネリアに、シルビオは息を吐く。
「……例えば、魔力を持たなかったことがお前の罪だとしたらさ。貴族の血を半分しか引けなかったことが、俺の罪だと思うか?」
「思うわけないわ!」
「だろ? そういうことだよ」
「!」
ハッとしたように目を見開くネリア。母親が平民だからと言って、シルビオが閉じ込められていたわけではないけれど。程度は違えど、血を重視する帝国と魔力を重視する王国は、目に見えないものを重視する点で似通っているのだろう。「馬鹿馬鹿しいよな、俺ら頑張ってんのに」と戯けたように言ってみると、ネリアはくしゃりと顔を歪ませた。ぐ、と唇を噛み締めると、シルビオの胸元に顔を埋める。丸い後頭部を撫でると、くぐもった声が聞こえた。
「わ、私が頑張ってたの、知ってくれてたの?」
「知ってるよ。ずっと見てたんだから」
そう返すと、しがみつく力がいっそう強くなった。泣きじゃくるネリアは、「私のせいで、ボロボロにさせてごめんなさい」「もらったネックレス、なくしてごめんなさい」「ずっと嘘ついてて、ごめんなさい」とありとあらゆることに謝っている。別に気にしなくていいのにと思いつつ、「かすり傷だわ」「落ちてたのを兵士が拾ってたから、またあとでつけてやる」「別にいいよ、仕方なかったんだから」と一つずつ返すシルビオ。ぐずぐずと鼻を啜りながら、ネリアはようやく顔を上げた。
「髪、殿下がほめて、くれたのに。こんな色になっちゃった……」
放心したようにそう呟く。どうやらシルビオが髪の色を褒めたことは、予想外にネリアに刺さっていたらしい。どうしようもなく心臓が締め付けられ、抱きしめて口付けてしまいたいという衝動を必死に抑え込み、「その色も似合ってるよ」と返す。塗り込めた夜空のような色はとても綺麗だったけれど、夜空に輝く月のような色も、ネリアによく似合っていた。
「……本当?」
「ああ。ていうかストレスのせいで色素抜けたようなもんだろ? 俺が言った通りじゃねえか」
昔のやりとりを引っ張り出してそんなことを言えば、一瞬きょとんと目を丸くした後、おかしそうに笑い出した。屈託のないその笑顔に、心の底から安堵する。シルビオの前でならいくらだって泣いてくれてもいいけれど、やっぱり笑っている顔が一番可愛い。ひとしきり笑い終えるとネリアは、「ありがとうございます、殿下」とシルビオの膝から降りる。腕の中に引き止めようかとも思ったけれど、「ここからは自分で歩くわ」と言うのでそのままにした。
階段を恐る恐る降りようとするネリアの手を攫い、一歩ずつ一緒に降りる。カツ、カツと二人分の足音が響く中、ネリアはぽつぽつと話し始める。物心ついてからこれまでのことを。塔の中で、どう過ごしてきたのかを。エリシアの振りではない、ネリアとしての言葉に、シルビオはじっと耳を傾ける。心の中を開け渡してくれたようで、途方もない喜びを覚えた。
塔の入り口に辿り着くのは、あっという間だった。緊張気味に、扉に手をかけるネリア。その姿を見守っていると、ゆっくりと開く扉から光が差し込む。ぼんやりと外の様子を見つめるネリアに手を差し出し、口を開いた。
「帰ろう。……ネリア」
「!」
名前を呼ぶと、ネリアは翡翠の瞳を丸くする。気恥ずかしそうにはにかむネリアだったけれど、迷いなくシルビオの手を取った。
「はい。シルビオ、さま」
照れくさそうにそう名前を呼ぶ姿が可愛くて、思わず抱きしめて口付けていた。
ようやく再会できたと思ったのに、目の前でネリアは姿を消した。辺りを見回してみても、影も形もない。彼女が叫んだ瞬間、見えない何かに吹っ飛ばされたエリシア、髪の変色といい、明らかに様子のおかしかったネリア。それらを繋げて考えると、一つの可能性が浮かび上がる。皇宮魔術師を呼び寄せ、腕輪の反応がどこにあるのかを尋ねた。
「遠くありません。おそらく、あちらかと」
指差す方角には、聳え立つ塔。初めて王国に足を踏み入れたとき、罪人が閉じ込められているようだと思った場所だ。なんであんなところに、と首を傾げていると、「あら、あの子に逃げられたの?」と呑気な声が聞こえた。
「よお、お目覚めかよ」
「ええ、よく眠れたわ。モーニングティーをいただける?」
「ねえよ、そんなもん」
捕縛されているというのに、エリシアは随分と太々しい。自分の状況がわかっていないのだろうか。エリシアを装っていたときのネリアでさえ、ここまでではなかった。大股で近寄り、「あの塔はなんだ?」と尋ねる。
「何ですの、いきなり」
「いいから答えろ」
「……塔よ、ネリアを閉じ込めていた」
端的に答えるエリシアは、ふいっと顔を背ける。バツが悪そうにも見えるその表情に、「閉じ込めていた?」と首を傾げる。「ええ。生まれたときからずっとね」と答えるエリシアに、キシュ王国の闇の深さというものを改めて思い知った。
「あの子、魔法が使えるようになったのね。体を張った甲斐があったわ」
「……もしかして、自分の魔力を与えたのか?」
「ええ」
あっさりと頷き、「双子だもの。分け合って当然でしょう?」と当たり前のことのように返される。確かに、「魔力持ちから魔力を抽出して、非魔力持ちに注入する魔法」を編み出したと言っていた。ネリアに魔力を注入したのなら、抽出される人間も当然必要となる。それは誰あろう、自分自身だったというわけだ。
納得すると同時に、末恐ろしさを感じる。つまり彼女は、本来の力の半分しかなかったのだ。だというのに、王国の兵士をここまで満身創痍にさせたのだから、稀代の魔法使いの実力ときたら。改めて、王国を小国だと侮ることはできない。陛下が穏便に王国を吸収したかった気持ちが今になってよくわかる。
「リオン、こいつを見張っておけ。それから、負傷者の手当てを頼む」
「しかし、殿下は?」
「婚約者を迎えに行ってくる」
「一人で大丈夫ですか?」
「そんな柔な鍛えられ方はしてねえ」
リオンの返事を待たず、塔に向かって足を進めた。
*
長い長い螺旋階段を、シルビオは上り続ける。
エリシアとの戦いにより全身ボロボロで、正直もう一歩だって歩きたくはない。次第に足が上がらなくなっているような感覚さえある。こういうときに、転移魔法を使えたら便利なのだろう。けれど、魔力があるとはいえそんな高度な魔法を使いこなせるほどではないのだから、考えたって仕方のないことだ。
「どんだけあんだよ、この階段……」
顔を顰めるシルビオ。それでも、歩みを止めるという選択肢はない。聞かなければならないことも、話さなければならないこともたくさんある。反応がここからする、と皇宮魔術師は言っていたけれど、こうして上っている間にも彼女はどこか別のところへ行方を眩ましているのかもしれない。この階段を上り切った先に彼女がいる保証なんてありはしないけれど、足を止めることはできなかった。
そうして、永遠にも感じられる時間をかけて上り続けるシルビオは、とうとう頂上にまで辿り着いたらしい。目の前に現れたのは、頑丈そうな作りの扉。ドアノブに触れる手が震える。
「……中に、いるのか?」
扉をたたき問いかけると、中からガタガタっと物音が聞こえた。ネリアかどうかはまだわからないけれど、中に人がいることは確実なようだ。ドアノブを回して開けようとするけれど、ガチャガチャと音が鳴るばかりで開く気配はない。どうやら、厳重に鍵がかかっているらしい。「くっそ……」と悪態を吐き、剣を構えるシルビオ。魔力を込めて強化し、扉に向かって一直線に振り下ろした。
バァンッと破裂したような音が響き、扉が吹っ飛ぶ。あとでどうにかして直そう、と思いつつ残骸となった扉を乗り越えて、中に足を踏み入れる。簡素な石造の部屋は、見た目の想像と違わず随分と狭い。罪人を閉じ込めているようだ、と思ったのはあながち間違いでもなさそうだ。ネリアは一体どこだろうと辺りを見回すと、「えっ!?」と驚いたような声が聞こえる。
「あ、いた」
床に座り込むネリアが、シルビオを凝視している。まさかシルビオがここまで来るとは予想もしていなかったのだろうか。「な、えっ、殿下!?」と大袈裟なほどに驚き、慌てふためいている。その様子がなんだかおかしくて、いつもと変わらない様子に少しだけ安心してしまった。ネリアが逃げる前に、と大股で近づくシルビオ。座り込む彼女の前で立ち止まると、シルビオは跪いて口を開いた。
「名前は?」
「へ」
素っ頓狂な声を漏らすネリア。きっともう知っているはずなのにどうして聞かれているのだろう、と顔に書いてある。相変わらず何を考えているのかわかりやすい表情に頬が緩んでしまいそうなのを必死に隠し、「名前は?」ともう一度尋ねた。よくよくネリアを見ると、目尻から涙が溢れている。昨日からずっと、泣いている彼女を見てばかりだ。手を伸ばして親指で拭うと、「ね、ネリア」と答えてくれた。
「ふうん、ネリア。ネリアね」
とっくの昔に知っていた名前ではあるけれど。本人の口から教えてもらうのと、勝手に知るのとではやはり違う。ようやく教えてもらえた、とそんな場合ではないのに思わず浮かれてしまう。確かめるように何度も口の中で転がすシルビに対して、ネリアはぽかんと口を開けている。どうしてシルビオが嬉しそうなのか、よくわからないようだ。その呆けた表情すら愛おしいシルビオは、「俺はシルビオ。よろしく」と手を差し出した。
「よ、よろしくお願いします?」
どうして今更はじめましてなのだろうか、と言いたいのが伝わる。それでもおずおずと手を差し出して握り返す辺り、律儀で可愛い人だ。自己満足の初対面をやり直すと、ネリアの手をそのまま引っ張る。横抱きにして抱え上げ、シルビオが破壊した扉の方へと向かった。うかうかして、また姿を消されてはたまったものではない。
「じゃ、帰るぞ」
「えっ!?」
驚くネリアを無視して、シルビオはスタスタと部屋から出ていく。往路と違って復路は降り。落とさないようにだけ気をつけつつ、階段を一歩ずつ降りていく。シルビオの首に必死になってしがみつくネリアは、「か、帰るってどこに!?」と叫んだ。
「帝国に決まってるだろ」
「そ、そんな資格ないわ!」
「はあ?」
立ち止まって腕の中のネリアを見下ろす。瞳に涙を浮かべるネリアは、「き、聞いて。全部……全部、私のせいだったの」と訴えはじめた。どうしようかと逡巡したシルビオは、ネリアを離すことなく階段に腰を下ろす。日課の夜の時間のように、膝に乗せられたネリアは話しはじめた。
帝国の村人、王国の貴族が行方不明になっていたのは、エリシアが非人道的な魔法の開発に巻き込んでいたせいだということ。国王夫妻は自害したのではなく、エリシアに操られてそう見せかけられていたこと。攫われた人たちはおそらく王宮の地下にいること。その全ては、ネリアが「外に出たい」とエリシアに願ってしまったことが原因だということ。
ボロボロと涙をこぼしてネリアが語る内容に、破綻はない。エリシアが嬉しそうに語っていたこととも合致する。王国と帝国で起きた一連の事件は、キシュ王国の王女であり、稀代の魔法使いであるエリシアが犯人だったというわけだ。そこに異論はない、けれど。
「私が、悪いの。私が外に出たいなんて、願ったから……!」
「それのどこが悪いんだよ」
黙ってネリアの話を聞いていたシルビオだけれど、その発言にだけは口を挟まずにはいられなかった。泣きすぎて赤くなった目でシルビオを見上げるネリア。ポケットに入れていたハンカチの存在をふと思い出し、取り出して渡してやる。シルビオのイニシャルが縫い付けられたそれは、ネリアがシルビオにくれたものだ。握りしめてぽかんとするネリアに、「あんな狭い部屋に十八年も閉じ込められてたんだろ? 外に出たいと思って当然だろ」と告げる。
「で、でも、そのせいでエリシアが……」
「騒ぎを起こしたって? 履き違えんなよ」
「!」
翡翠の瞳をまん丸に見開くネリアに、「聞くけど、お前は外に出たかったのか? それとも、魔法を使えるようになりたかったのか?」と続ける。「私は……」と思案するように俯くネリア。ひく、と震える喉は徐々に落ち着きを取り戻し、ゆっくりと顔を上げた。
「……外に、出たかった」
「じゃあ、願いを曲解した姉が悪い」
「そ、そんなあっさり!」
あわあわと言い募るネリアに、「そりゃそうだろ」と制する。もごもごと口を噤むネリアに、シルビオは続けた。
「そもそも、魔力がないってだけで閉じ込められるのがおかしいんだよ。お前は何も悪いことしてないのに」
ネリアの言葉がきっかけでエリシアが暴走したのだとしても、それはネリアがしでかしたことではない。けれど、エリシアの行動だって、ネリアを外に出してあげたいという妹への愛情によるものだったはず。「魔力が無い者に価値はない」という、王国特有の歪んだ価値観に染められていたせいで、方法を間違えただけだ。とはいえ、エリシアの行動は看過できるものでないのは確実なのだけれど。納得していなさそうなネリアに、シルビオは息を吐く。
「……例えば、魔力を持たなかったことがお前の罪だとしたらさ。貴族の血を半分しか引けなかったことが、俺の罪だと思うか?」
「思うわけないわ!」
「だろ? そういうことだよ」
「!」
ハッとしたように目を見開くネリア。母親が平民だからと言って、シルビオが閉じ込められていたわけではないけれど。程度は違えど、血を重視する帝国と魔力を重視する王国は、目に見えないものを重視する点で似通っているのだろう。「馬鹿馬鹿しいよな、俺ら頑張ってんのに」と戯けたように言ってみると、ネリアはくしゃりと顔を歪ませた。ぐ、と唇を噛み締めると、シルビオの胸元に顔を埋める。丸い後頭部を撫でると、くぐもった声が聞こえた。
「わ、私が頑張ってたの、知ってくれてたの?」
「知ってるよ。ずっと見てたんだから」
そう返すと、しがみつく力がいっそう強くなった。泣きじゃくるネリアは、「私のせいで、ボロボロにさせてごめんなさい」「もらったネックレス、なくしてごめんなさい」「ずっと嘘ついてて、ごめんなさい」とありとあらゆることに謝っている。別に気にしなくていいのにと思いつつ、「かすり傷だわ」「落ちてたのを兵士が拾ってたから、またあとでつけてやる」「別にいいよ、仕方なかったんだから」と一つずつ返すシルビオ。ぐずぐずと鼻を啜りながら、ネリアはようやく顔を上げた。
「髪、殿下がほめて、くれたのに。こんな色になっちゃった……」
放心したようにそう呟く。どうやらシルビオが髪の色を褒めたことは、予想外にネリアに刺さっていたらしい。どうしようもなく心臓が締め付けられ、抱きしめて口付けてしまいたいという衝動を必死に抑え込み、「その色も似合ってるよ」と返す。塗り込めた夜空のような色はとても綺麗だったけれど、夜空に輝く月のような色も、ネリアによく似合っていた。
「……本当?」
「ああ。ていうかストレスのせいで色素抜けたようなもんだろ? 俺が言った通りじゃねえか」
昔のやりとりを引っ張り出してそんなことを言えば、一瞬きょとんと目を丸くした後、おかしそうに笑い出した。屈託のないその笑顔に、心の底から安堵する。シルビオの前でならいくらだって泣いてくれてもいいけれど、やっぱり笑っている顔が一番可愛い。ひとしきり笑い終えるとネリアは、「ありがとうございます、殿下」とシルビオの膝から降りる。腕の中に引き止めようかとも思ったけれど、「ここからは自分で歩くわ」と言うのでそのままにした。
階段を恐る恐る降りようとするネリアの手を攫い、一歩ずつ一緒に降りる。カツ、カツと二人分の足音が響く中、ネリアはぽつぽつと話し始める。物心ついてからこれまでのことを。塔の中で、どう過ごしてきたのかを。エリシアの振りではない、ネリアとしての言葉に、シルビオはじっと耳を傾ける。心の中を開け渡してくれたようで、途方もない喜びを覚えた。
塔の入り口に辿り着くのは、あっという間だった。緊張気味に、扉に手をかけるネリア。その姿を見守っていると、ゆっくりと開く扉から光が差し込む。ぼんやりと外の様子を見つめるネリアに手を差し出し、口を開いた。
「帰ろう。……ネリア」
「!」
名前を呼ぶと、ネリアは翡翠の瞳を丸くする。気恥ずかしそうにはにかむネリアだったけれど、迷いなくシルビオの手を取った。
「はい。シルビオ、さま」
照れくさそうにそう名前を呼ぶ姿が可愛くて、思わず抱きしめて口付けていた。