身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる

4

「婚約することになった」

 数時間ぶりに訪れた地下牢で、エリシアは変わらず寝台に座っている。端的に婚約の話を告げると、自分のことだとは思い至っていないらしい。目をぱちくりと瞬き、「? おめでとうございます」と心の篭っていない祝福の言葉を述べている。丸い頭を鷲掴んでやりたい衝動に駆られながら、大袈裟にため息を吐いた。

「何を他人事みたいな顔してんだ、お前の話だよ」
「私が? 私が婚約するの?」
「そうだよ」
「どなたと?」
「俺と」

 そう告げた瞬間のエリシアの顔を、シルビオは忘れることができないだろう。翡翠の瞳を溢れんばかりに見開いて面食らった後、どういうことか理解したかのように徐々に歪む顔。両頬を指で摘んで、思い切り引っ張ってやりたくなった。

 *

 正式な婚約式やお披露目パーティーどころか、彼女の正体すらいまだ判然としていない。けれど、皇帝に命じられた瞬間をもって、シルビオとエリシアは婚約者同士となったのだ。例え本名すらよくわからない相手といえど、婚約者をいつまでも閉じ込めておくわけにはいかない。

 そう言うわけで、エリシアを地下牢から出すことになった。エスコートされ慣れていないのか、シルビオの腕をちょこんと掴む手はぎこちない。心臓がざわざわするのを無視して案内した先は、シルビオの隣の部屋。調度品や服飾品はおろか、侍女の用意すら整っていないが、急に決まった婚約なのだ。仕方がないと言えば仕方がない。チラリと隣を見ると、エリシアはぽかんとして部屋を眺めている。王国の自分の部屋に比べ、簡素だからショックでも受けたのだろうか。

「悪かったな、何の用意もなくて」

 ぶっきらぼうに謝ると、翡翠の瞳が驚いたようにシルビオを見上げる。うっすら紅潮した頬は柔らかそうで、さぞや摘み心地がいいのだろう。そんなことを考えているとは悟られないように、「近いうちに侍女をつけるから、足りないものがあれば好きに言え」と早口に告げる。エリシアは何も言わないまま、シルビオをぼんやりと見つめたままだ。

「おい、聞いてんのか?」
「! 聞いてますわ」
「ほんとかよ、ぼーっとしてたくせに」
「地下牢に比べれば天国のようだから、驚いただけです」

 そりゃそうだろうよ、と思わず同調する。シルビオから視線を外したエリシアは部屋を物珍しそうに眺めている。最低限の家具があるだけの簡素な部屋は、一国の王女を住まわせるには不十分だろう。好きに言えとは言ったものの贅沢しねえといいけど、と思いつつ腕を引く。

「城内を案内する」

 地下牢から出したばかりで皇宮を連れ回すのはどうか、とは一瞬頭を過ぎった。けれどシルビオとしては、目の前の少女を信用しきれず、なんなら悪印象を抱いているのが本音だ。魔力を感じられず、髪の色も違う彼女はきっと、エリシア王女ではない。本人は頑なに認めようとしないけれど、これは確実だ。

 だとしたら、一体目の前の彼女は誰なのか。何の目的があってエリシア王女を騙っているのか、本物のエリシア王女はどこなのか。何より、辺境の村に住む自国民はどこへ消えたのか。聞きたいことは山とあるのに、何一つとして明らかにならないことが歯がゆい。何も知らないのだろうという諦めと、とはいえ何かは知っているはずだという願望にも似た思い。苛立ちをぶつけているわけではないけれど、シルビオの中で彼女を気遣う余裕がないのは事実だった。

 後ろに控える侍従に、「リオン。侍女を数人、手配しておいてくれ」と指示を出して歩き始める。わかりやすく顔を顰めるリオン。皇弟と言えど庶子のシルビオに、信頼できるほどの部下は多くいない。リオンに用立てると必然的にシルビオが一人になるので、それを懸念したのだろう。仮にも皇弟と王女が共も付けずに歩くのはどうなのか、と顔に書いてある。リオンの言わんとしていることは正しいけれど、彼女の様子を伺うのなら一対一で人目を気にしない方がやりやすい。結局、相変わらずぼんやりしているエリシアを一人で案内することになった。

「……」
「……」

 皇宮のだだっ広い廊下に、二人分の足音が響く。様子を伺い探りを入れようと意気込んだものの、双方友好的ではないのだ。社交辞令の会話すら弾まない。広間やロングギャラリーまでの道のりは遠い。それまでどうやって間を持たせるべきか、と考えあぐねているときだった。

「ユルゲン侯……」
「おや、シルビオ殿下」

 正面からやってきた初老の男性はユルゲン侯爵。シルビオのことをよく思っていない貴族の筆頭で、今一番会いたくなかった相手だと言ってもいい。値踏みするような視線は、いつもと変わらず不愉快だ。

「そちらはもしや隣国の?」
「ああ。キシュ王国のエリシア王女で、私の婚約者だ」

 エリシアに目をやり、「エリシア殿、こちらはユルゲン侯爵だ」と紹介する。名乗ることもなく不遜に頷いただけの侯爵に眉を顰めたけれど、目くじらを立てて騒ぎを起こしたくはない。どうしたものか、と考えていると、エリシアが一歩進み出て優雅にカーテシーを披露した。

「お初にお目にかかります。エリシアと申します」

 王女を騙るだけあって、一応その辺りの所作は如才ないらしい。侯爵は、エリシアの頭のてっぺんから爪先までを品定めするように眺める。とても尊重されているとは言えない態度に、エリシアはどう思ったのだろうか。気を良くしたはずはないけれど、口元にうっすらと笑みを湛えたまま何も言わなかった。
 
「いやはや。あなたがエリシア王女ですか。随分と印象が違いますな」

 ようやくエリシアに言葉を投げた侯爵の、慇懃無礼な物言いたるや。流石に腹が立ったのだろうか、エリシアは視界の隅で強張ったように見える。侯爵は人好きのする胡散臭い笑みを浮かべたまま、台本でも用意されているかのようにつらつらと言い募った。

「その見事な黒髪。隣国の王女は眩い白金の髪だと聞いておりましたが」
「環境の変化のせいでしょうか。気づいたら黒く染まっておりましたの」

 よくもまあいけしゃあしゃあと、と思ったけれど口にはしない。地下牢でもそうだったけれど、どうも彼女は言われっぱなしではいられないらしい。強張って見えたのは一瞬だった。まさか言い返されるとは思わなかったのか、侯爵の笑みがわずかに引き攣る。自分から吹っ掛けた喧嘩のくせに、反撃に弱いらしい。が、すぐに持ち直して、口元をわずかに歪めた。

「王女殿下は稀代の魔法使いと聞いております。髪色も自在に操れるものかと」
「あいにく、魔力を封じられていますの。警戒されているのかしら?」

 しゃら、と腕に付けられた魔力封じの腕輪を掲げるエリシア。上手くかわしたものだ、と思わず感心してしまった。魔法を使えない理由についてはさておき、一応嘘はついていない。納得していないのか、「稀代の魔法使いが、魔力封じの腕輪如きで魔法を使えなくなるとは、思いませんでしたな」と酷薄な笑みを浮かべる。その返しに思うところがあったのか、エリシアがムッとしたような表情を浮かべるのを、シルビオは見逃さなかった。

「ユルゲン侯、そこまでにしていただきたい」
「殿下」
「その腕輪は皇宮魔術師に造らせたものだ。貴殿は、我が国の魔術師の実力を疑うおつもりか?」
「!」

 エリシアではなく、魔術師を庇っただけ。決して、目の前の老獪がエリシアをネチネチといじめるのが不快だったわけではない。揚げ足を取られた、とでも言いたげに顔を歪める侯爵。邪魔をされたのが不快だったのか、あからさまに顔を顰めたけれどすぐ取り繕った笑みを浮かべた。

「これはこれは。失礼しました」
「彼女に魔法を使うことを強いるのは、今後もやめていただきたい」

 釘を刺すように、そう告げる。そもそも彼女から魔力を感じられないことはさておき。微妙な関係を築いている王国の、稀代の魔法使いに魔法を自由に使わせるつもりはない。婚約したからといって、腕輪を外してやることはないだろう。侯爵は、「それは残念ですね、殿下」と取り繕った笑みを浮かべる。なんとなく嫌な予感がした。

「彼女の腕を持ってすれば、あなたを悩ませる髪色も解決してもらえたかもしれないのに」

 したり顔で言い放った侯爵に、ぶん殴ってやろうかクソジジイ、と喉元まで込み上げた言葉をなんとか飲み込む。皇弟相手にこの物言いをする時点で、シルビオをどれだけ侮っているかがわかるというもの。どうにか怒りを抑え込んだが、笑顔が引き攣ったのは否めない。「これ以上、用がないのなら私たちはこれで失礼する」と無愛想に告げると、「ええ、皇弟殿下にエリシア王女。失礼致します」と、形式的に頭を下げる。エリシアもこの場から早く立ち去りたかったのだろうか、シルビオのエスコートに合わせて早足だ。

 彼女が口を開いたのは、誰の姿も周囲に見えなくなってからだった。

「あなた、皇弟の割に人望がないのね」
「うるせえな」

 ど直球に失礼な物言いに、吐き捨てるようにして言い返す。先ほどとは違い取り繕うこともしない態度に、エリシアは目をぱちくりと瞬かせた。今更何を驚くことがあるのだろう。初対面では剣を首元に突きつけ、地下牢では散々言い合っているのに。

「さっきまでのそこそこ丁寧な口調はどこに行ったのかしら」
「偽王女の前で取り繕う必要があるか?」
「失礼な方。あなたの方がよっぽど偽物でしょうに」
「あ?」

 顔を歪めて見下ろすと、エリシアは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。形のいい鼻を摘んで顔を顰めさせてやりたい、と思っていることを彼女は知らない。エリシアは、シルビオの腕から手を放し自らの髪を一房掬い取る。数日地下牢に閉じ込められていたというのに、相変わらず漆黒は艶めいていて羨ましいほどだ。

「ご自分の髪色が気に入らないようね?」
「……」
「腕輪を外してくだされば、どのようにでもしてさしあげますのに。残念ですわ」

 その瞬間にシルビオの腹から湧き上がった感情を、どう形容すべきだろうか。痛いところをついてやった、と満足げな彼女はシルビオの過去も何も知らない。知らないからこそ、無邪気かつ的確に傷口を抉り抜いてきたのだ。シルビオだって似たようなことを彼女にしているのは、この際棚上げだ。どうにかしてこの腹立たしい笑顔を泣きっ面に変えてやりたい、そう強く思った。

「調子に乗ってられるのも今のうちだぞ、偽王女」
「ご丁寧な忠告に感謝いたしますわ、偽殿下」
「泣かす」
「やってご覧なさい」

 人気のない廊下での睨み合いは、その後数分続いた。
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