勇者は魔王と結婚しました
13
王国からの手紙をそわそわと待つ間、エメリは結局、魔王を討伐する決心ができなかった。
エメリはニグラスに惹かれている。好きだと告白するには十分なぐらいには。言葉にする機会を逃し続けているせいで、ニグラスにはいまだに伝えられていない。魔力を注がれている影響で、感情も伝わっているのではと疑っているけれどニグラスは何も言わない。伝わっているのなら何か言ってきそうだし、言わないと言うことは伝わっていないのだろう。
――いつ、伝えようかな。
温室でしゃがみ込み、雑草を抜くのを手伝ってくれるニグラスの横顔を盗み見る。惹かれていることを自覚してしまえば、右隣にいることにも夜を一緒に過ごすことにも緊張してしまう。
「? どしたの?」
「な、なんでもない」
視線に気づいたニグラスが振り向いて、ニコニコ笑ってくれるだけでも心臓が高鳴る。体の右側だけがやけに熱い。結婚してる上に、肌も散々重ねているのに今更どうしてこんなことで、と思うけれど仕方がない。エメリにとって初恋なのだから。
――好きだって伝えたら、喜んでくれるかな。
そんなことを考えるエメリだったけれど、浮かれていられた期間はごく僅かだった。
*
平穏は、何の前触れもなく崩れるものだ。
「あ、手紙だ」
「手紙?」
温室に向かう途中で、ニグラスが不意に立ち止まる。右の手のひらを空に向けると、目を閉じた。以前聞いたところによると、ニグラスが最初に手紙を送ったとき、王国と黒い森との間で通路のようなものができたらしい。王国にいる魔法使いが、黒い森のことを思い浮かべながら魔力を込めるとニグラスに届くという不思議な仕組み。そんなことをしたら王国の兵士や、剣だとかの危ないものまで送られてくるのではないかと尋ねると、「そういうのは弾くから大丈夫」と返ってきた。これまたどういう仕組みかわからないけれど、ニグラスの中で弾くものと弾かないものの区別があり、弾くものに該当すれば送られては来ないらしい。魔法の使えないエメリにとっては何一つわからないけれど、魔法というものは思っている以上に柔軟かつ便利なもののようだ。
「はい、これ」
「ありがとう」
いつの間にかニグラスの手中には手紙がある。以前見たものと同じ、白い封筒。顔の前に掲げて眉間に皺を寄せるニグラスに、首を傾げたけれど、特に何も言わず差し出された。嗅いだことのある薬草のような匂いがふわりと漂ったのが気になったけれど、大した問題ではない。封を切っていそいそと中を確認する。
『魔王を討伐せよ』
「やっぱりだめか……」
魔王討伐の命を取り下げて欲しいと懇願したけれど、結局王国の意向は変わらないらしい。ガックリと肩を落としながら、ニグラスの方を振り向く。
「ニグラス、やっぱりだめだ、……ニグラス?」
ニグラスは目を見開いて固まっている。何も告げない。視線を辿ると、黒く変色した手。まるで焼け焦げた炭のようだ。
「な、何それ!? その手、どうしたの!?」
「げほっ……ゴホッ」
口に手を押さえて咳き込んだかと思うと、体をくの字に折り曲げる。押さえた手の隙間から血がぱたぱたとこぼれ落ち、地面にシミを作った。立っていられなくなったのかその場にしゃがみ込んでいる。倒れてしまわないように支えながら、エメリは叫んだ。
「に、ニグラス! ニグラス! 大丈夫!? 何があったの!?」
慌てて背中を摩るエメリの腕を、ニグラスが掴む。左手はまだ黒く変色していないけれど、掴む力は驚くほど弱々しい。口からゴポゴポと血をこぼしながら、「ひ、よす……」と呟いた。息は荒く、ひゅうひゅうと音が聞こえる。
「ヒヨス……あっ!」
ヒヨスから鎮痛薬を作ったことをニグラスには話した覚えがある。この状態のニグラスに効果があるのだろうか。わからないけれど、他にできることはない。慌ててポケットを漁り、取り出した小瓶を震える手で開ける。口の中にゆっくり流し込むけれど、効果があるかはわからない。ラットに近い魔獣に試そうかとも思ったけれど、良心が咎めて実験できなかったのだ。ぶっつけ本番で魔王に試すのは気が引けたけれど、そんなことを気にしている場合ではない。どうか効きますように、と祈っていると徐々に呼吸が落ち着くのがわかった。右手を見ると、じわじわと黒い部分が侵食していたのが止まっている。
「よ、よかった……」
ほっと息を吐くけれど、ニグラスは目を閉じたまま動かない。眠りについたようだ。安心していいのか、まだ安心するには早いのかはわからない。心臓は知らない間にどくどくと脈打っている。ニグラスを支える手は震えていて、これ以上支えることは難しいかもしれない。早くリリとリムかマルコを呼ばないと、と思ったときだった。
「エメリ様!」
「うわっ、ニグラス!?」
「リリ、リム……!」
ふわりと風が舞ったかと思うと、双子の侍女が現れる。エメリの腕の中で気を失っているニグラスを見て、二人はギョッとした顔になった。「なんか変な感じがしたの」「ニグラスどうしたの?」と心配そうな二人にエメリは先ほどまでのことを説明する。おそらく毒にやられたのだと思うけれど、一体何に毒を仕込まれていたのかわからない。というかこの状況だと私が毒を盛ったと思われるのでは、と危惧したけれど。それはすぐ杞憂に終わる。
「多分、その手紙だね」
「うん。なんかすっごく近づきたくない」
「手紙……?」
確かに、直前までニグラスが触れていたのはこの手紙だ。よくよく見ていると、便箋に二枚目があることに気がついた。震える手で手紙を開くと、シュウ……と小さな音がする。エメリの手に付着したニグラスの血が便箋に触れたことで、蒸発したかのように消えてしまったのだ。
『効果があるかわからないが、魔王経由で届くこの手紙に仕掛けをしておいた。こちらでもできる限りの援護をするので、一刻も早く魔王を討伐するように』
一枚目と二枚目で、筆跡が違う。二枚目の便箋に並ぶ、角ばった字は見間違えるはずもない。エメリの父親の字だった。
*
「じゃあ、うちらはもう行くけど」
「なんかあったら呼んでね」
「うん……二人とも、ありがとう」
エメリが深々と頭を下げると、二人は寝室から出ていった。しん、と静まり返った寝室にはエメリと、ベッドで眠るニグラスだけが残される。ベッドに腰掛けて角に触れるけれど、いつものような熱は感じない。なんの感情も流れてこない。眠っていると感情が伝わらないものなのか、一度ぐらい試しておけば良かったと後悔した。
サイドテーブルに置いているのは、王国から届いた手紙。封筒を手に取って矯めつ眇めつ眺めてみても、エメリにはなんの影響もない。鼻を近づけてみると、ミントのような清涼感ある匂い。浄化の力を持ち、王国では専ら万能薬として使われるトゥルシーが、魔族にとっては触れるだけでその身を蝕む毒になることをエメリは初めて知った。曲がりなりにも薬師を目指していたはずなのに。効果があるかわからないまま使ったようだけれど、王国にとっては喜ばしいことにトゥルシーは十分にその効力を発揮した。父親は王宮薬師から聞いて試したのだろうか。いずれにせよ、エメリが手紙で切々と訴えたことは父親に全く響かなかったことだけが確かだ。
「ニグラス、ごめん……」
エメリの謝罪に、「いいよ」と答えることはない。口元の血は拭われ、汚れた服を替えられたニグラスはただ眠っているだけに見える。鎮痛薬として調合したはずのヒヨスは魔族にとっての浄化薬に近い役割も果たすらしい。そのおかげで侵食は抑えられているけれど、いつまで持つのだろうか。双子もよくわからないようで、曖昧に首を振るばかりだった。
――このまま、目を覚まさなかったらどうしよう。
エメリの胸がザワザワと騒ぐ。心臓が変な音を立てている。つい数時間前まで隣を歩いて、思い出せないぐらいの他愛もない話をしていたはずなのに。もう二度と話せなかったらどうしよう。縋り付くように角に触れても、相変わらず何も感じない。手のひらに触れる熱が恋しかった。
体を傾けてニグラスの左胸に耳を押し当てると、微かだがトクトクと心音が聞こえる。魔族も人間と同じように心臓は左胸にあるんだ、と当たり前のことを今更認識した。縋り付くように抱きついても、ニグラスは目を覚まさない。いつもならエメリがくっつくだけで嬉しそうにニコニコしてくれるのに。薬草の世話や、読書にお茶会。最近は緊張し通しだったけれど、エメリのすることに笑顔で付き合ってくれるニグラスと過ごす時間はエメリに安心を与えてくれていた。
「ニグラス……」
名前を呼んでも、返事をしてくれない。膝に抱えられて本を読む時間が恋しい。エメリの名前を呼び返してくれることもない。それが寂しくてたまらないことだと、エメリは初めて知った。変色していない左手を握り、ぐず、と鼻を啜る。後から後から溢れる涙を見て、泣かないでとおろおろ心配してくれる人はいなくて、ただただ泣きじゃくるしかなかった。
*
「ん……」
泣き疲れたのか、いつの間にか寝ていたようだ。ハッとして重たい瞼をこじ開けるけれど、ニグラスは相変わらず眠り込んでいる。寝て起きたらなかったことになる、だなんて都合のいいことが起きるはずもない。わかっていたことだけれど、落胆してしまう。ガックリと肩を落としながら、ニグラスの寝顔を眺めた。
――今、王国から手紙が届いたらどうなるんだろう。
ニグラスの作ったという経路がどういう仕組みなのかは、いまだによくわかっていない。人や刃物など、ニグラスが危険だと認識したものは弾いていたらしいけれど、肝心のニグラスが意識を失っている場合はどうなるのだろう。弾く判断ができないと、そのままニグラスの手に現れてしまうのだろうか。それとも、ニグラスの意識がないときは届かないようになっているのだろうか。
何もわからないけれど、このままぼんやり蹲っている場合ではないことだけはわかる。王国は魔族を殲滅することを望んでいるのだ。できることなら黒い森を焼き払いたいとすら思っている。そんな王国に、魔王が弱体化していることを悟られたらどうなるのか。トゥルシーが有効であることを知られたらどうなるのか。想像に難くはない。
――ニグラスは、何も悪いことはしていないのに。
魔王になったニグラスが王国を攻撃したことも、討伐にやってきた勇者であるエメリを傷つけたこともない。それでも王国が魔王討伐を命じ、魔族の殲滅を叫ぶのは果たして正しいことなのだろうか。なんの権利と正しさがあって許される行いなのだろうか。エメリには、何が正しいのかわからなかった。
眠るニグラスの前髪を掻き分け、額に口付けを落とす。絶対起こすから待っててね、と念を送るかのように。寝室を後にするエメリが向かうのは図書室。ニグラスを目覚めさせることと、王国を止めること。どちらも実現するには、あまりにエメリは何も知らない。あの膨大な量の蔵書を誇る図書室に、エメリの求める答えがあるかはわからないけれど何もしないよりはマシだろう。
パタパタと早足で廊下を駆け抜けていくエメリを、すれ違う魔族が奇妙な目で見つめることに気がついた。どうしてだろう、と首を傾げた瞬間に、以前にグラスと交わした会話が頭をよぎる。魔王夫人という肩書きが今も生きているからエメリを守ってくれているだけで、ニグラスがこのまま目を覚まさなければ頭からバリバリと食べられるのも時間の問題だろう。あらゆる意味で、ぼんやりしている暇がないことを痛感した。
図書室で、目についた本を片っ端から開いていく。読める言語の本を見つけたら読み漁り、また次の本を開く。そうして一人きりで図書室に引きこもり、引っ張り出した本の山に埋もれそうな頃。とうとう、ある記述を見つけた。
「悪魔との、契約……」
昔、実家で読んだことのある本と似ているけれど、内容がわずかに違う。名前は付けなくても知っていればいい、血を与えることは必須、対価にする大切なものがなければ寿命を与える。ずいぶん大雑把にも思えるけれど、ある意味で実用的だと思った。
――これなら、もしかして。
藁にもすがる思い、とはこのことを言うのだろうか。本を握る手に力が篭り、心臓がバクバクとうるさい。弾かれたように立ち上がったエメリは、城を全力で駆け抜けた。
エメリはニグラスに惹かれている。好きだと告白するには十分なぐらいには。言葉にする機会を逃し続けているせいで、ニグラスにはいまだに伝えられていない。魔力を注がれている影響で、感情も伝わっているのではと疑っているけれどニグラスは何も言わない。伝わっているのなら何か言ってきそうだし、言わないと言うことは伝わっていないのだろう。
――いつ、伝えようかな。
温室でしゃがみ込み、雑草を抜くのを手伝ってくれるニグラスの横顔を盗み見る。惹かれていることを自覚してしまえば、右隣にいることにも夜を一緒に過ごすことにも緊張してしまう。
「? どしたの?」
「な、なんでもない」
視線に気づいたニグラスが振り向いて、ニコニコ笑ってくれるだけでも心臓が高鳴る。体の右側だけがやけに熱い。結婚してる上に、肌も散々重ねているのに今更どうしてこんなことで、と思うけれど仕方がない。エメリにとって初恋なのだから。
――好きだって伝えたら、喜んでくれるかな。
そんなことを考えるエメリだったけれど、浮かれていられた期間はごく僅かだった。
*
平穏は、何の前触れもなく崩れるものだ。
「あ、手紙だ」
「手紙?」
温室に向かう途中で、ニグラスが不意に立ち止まる。右の手のひらを空に向けると、目を閉じた。以前聞いたところによると、ニグラスが最初に手紙を送ったとき、王国と黒い森との間で通路のようなものができたらしい。王国にいる魔法使いが、黒い森のことを思い浮かべながら魔力を込めるとニグラスに届くという不思議な仕組み。そんなことをしたら王国の兵士や、剣だとかの危ないものまで送られてくるのではないかと尋ねると、「そういうのは弾くから大丈夫」と返ってきた。これまたどういう仕組みかわからないけれど、ニグラスの中で弾くものと弾かないものの区別があり、弾くものに該当すれば送られては来ないらしい。魔法の使えないエメリにとっては何一つわからないけれど、魔法というものは思っている以上に柔軟かつ便利なもののようだ。
「はい、これ」
「ありがとう」
いつの間にかニグラスの手中には手紙がある。以前見たものと同じ、白い封筒。顔の前に掲げて眉間に皺を寄せるニグラスに、首を傾げたけれど、特に何も言わず差し出された。嗅いだことのある薬草のような匂いがふわりと漂ったのが気になったけれど、大した問題ではない。封を切っていそいそと中を確認する。
『魔王を討伐せよ』
「やっぱりだめか……」
魔王討伐の命を取り下げて欲しいと懇願したけれど、結局王国の意向は変わらないらしい。ガックリと肩を落としながら、ニグラスの方を振り向く。
「ニグラス、やっぱりだめだ、……ニグラス?」
ニグラスは目を見開いて固まっている。何も告げない。視線を辿ると、黒く変色した手。まるで焼け焦げた炭のようだ。
「な、何それ!? その手、どうしたの!?」
「げほっ……ゴホッ」
口に手を押さえて咳き込んだかと思うと、体をくの字に折り曲げる。押さえた手の隙間から血がぱたぱたとこぼれ落ち、地面にシミを作った。立っていられなくなったのかその場にしゃがみ込んでいる。倒れてしまわないように支えながら、エメリは叫んだ。
「に、ニグラス! ニグラス! 大丈夫!? 何があったの!?」
慌てて背中を摩るエメリの腕を、ニグラスが掴む。左手はまだ黒く変色していないけれど、掴む力は驚くほど弱々しい。口からゴポゴポと血をこぼしながら、「ひ、よす……」と呟いた。息は荒く、ひゅうひゅうと音が聞こえる。
「ヒヨス……あっ!」
ヒヨスから鎮痛薬を作ったことをニグラスには話した覚えがある。この状態のニグラスに効果があるのだろうか。わからないけれど、他にできることはない。慌ててポケットを漁り、取り出した小瓶を震える手で開ける。口の中にゆっくり流し込むけれど、効果があるかはわからない。ラットに近い魔獣に試そうかとも思ったけれど、良心が咎めて実験できなかったのだ。ぶっつけ本番で魔王に試すのは気が引けたけれど、そんなことを気にしている場合ではない。どうか効きますように、と祈っていると徐々に呼吸が落ち着くのがわかった。右手を見ると、じわじわと黒い部分が侵食していたのが止まっている。
「よ、よかった……」
ほっと息を吐くけれど、ニグラスは目を閉じたまま動かない。眠りについたようだ。安心していいのか、まだ安心するには早いのかはわからない。心臓は知らない間にどくどくと脈打っている。ニグラスを支える手は震えていて、これ以上支えることは難しいかもしれない。早くリリとリムかマルコを呼ばないと、と思ったときだった。
「エメリ様!」
「うわっ、ニグラス!?」
「リリ、リム……!」
ふわりと風が舞ったかと思うと、双子の侍女が現れる。エメリの腕の中で気を失っているニグラスを見て、二人はギョッとした顔になった。「なんか変な感じがしたの」「ニグラスどうしたの?」と心配そうな二人にエメリは先ほどまでのことを説明する。おそらく毒にやられたのだと思うけれど、一体何に毒を仕込まれていたのかわからない。というかこの状況だと私が毒を盛ったと思われるのでは、と危惧したけれど。それはすぐ杞憂に終わる。
「多分、その手紙だね」
「うん。なんかすっごく近づきたくない」
「手紙……?」
確かに、直前までニグラスが触れていたのはこの手紙だ。よくよく見ていると、便箋に二枚目があることに気がついた。震える手で手紙を開くと、シュウ……と小さな音がする。エメリの手に付着したニグラスの血が便箋に触れたことで、蒸発したかのように消えてしまったのだ。
『効果があるかわからないが、魔王経由で届くこの手紙に仕掛けをしておいた。こちらでもできる限りの援護をするので、一刻も早く魔王を討伐するように』
一枚目と二枚目で、筆跡が違う。二枚目の便箋に並ぶ、角ばった字は見間違えるはずもない。エメリの父親の字だった。
*
「じゃあ、うちらはもう行くけど」
「なんかあったら呼んでね」
「うん……二人とも、ありがとう」
エメリが深々と頭を下げると、二人は寝室から出ていった。しん、と静まり返った寝室にはエメリと、ベッドで眠るニグラスだけが残される。ベッドに腰掛けて角に触れるけれど、いつものような熱は感じない。なんの感情も流れてこない。眠っていると感情が伝わらないものなのか、一度ぐらい試しておけば良かったと後悔した。
サイドテーブルに置いているのは、王国から届いた手紙。封筒を手に取って矯めつ眇めつ眺めてみても、エメリにはなんの影響もない。鼻を近づけてみると、ミントのような清涼感ある匂い。浄化の力を持ち、王国では専ら万能薬として使われるトゥルシーが、魔族にとっては触れるだけでその身を蝕む毒になることをエメリは初めて知った。曲がりなりにも薬師を目指していたはずなのに。効果があるかわからないまま使ったようだけれど、王国にとっては喜ばしいことにトゥルシーは十分にその効力を発揮した。父親は王宮薬師から聞いて試したのだろうか。いずれにせよ、エメリが手紙で切々と訴えたことは父親に全く響かなかったことだけが確かだ。
「ニグラス、ごめん……」
エメリの謝罪に、「いいよ」と答えることはない。口元の血は拭われ、汚れた服を替えられたニグラスはただ眠っているだけに見える。鎮痛薬として調合したはずのヒヨスは魔族にとっての浄化薬に近い役割も果たすらしい。そのおかげで侵食は抑えられているけれど、いつまで持つのだろうか。双子もよくわからないようで、曖昧に首を振るばかりだった。
――このまま、目を覚まさなかったらどうしよう。
エメリの胸がザワザワと騒ぐ。心臓が変な音を立てている。つい数時間前まで隣を歩いて、思い出せないぐらいの他愛もない話をしていたはずなのに。もう二度と話せなかったらどうしよう。縋り付くように角に触れても、相変わらず何も感じない。手のひらに触れる熱が恋しかった。
体を傾けてニグラスの左胸に耳を押し当てると、微かだがトクトクと心音が聞こえる。魔族も人間と同じように心臓は左胸にあるんだ、と当たり前のことを今更認識した。縋り付くように抱きついても、ニグラスは目を覚まさない。いつもならエメリがくっつくだけで嬉しそうにニコニコしてくれるのに。薬草の世話や、読書にお茶会。最近は緊張し通しだったけれど、エメリのすることに笑顔で付き合ってくれるニグラスと過ごす時間はエメリに安心を与えてくれていた。
「ニグラス……」
名前を呼んでも、返事をしてくれない。膝に抱えられて本を読む時間が恋しい。エメリの名前を呼び返してくれることもない。それが寂しくてたまらないことだと、エメリは初めて知った。変色していない左手を握り、ぐず、と鼻を啜る。後から後から溢れる涙を見て、泣かないでとおろおろ心配してくれる人はいなくて、ただただ泣きじゃくるしかなかった。
*
「ん……」
泣き疲れたのか、いつの間にか寝ていたようだ。ハッとして重たい瞼をこじ開けるけれど、ニグラスは相変わらず眠り込んでいる。寝て起きたらなかったことになる、だなんて都合のいいことが起きるはずもない。わかっていたことだけれど、落胆してしまう。ガックリと肩を落としながら、ニグラスの寝顔を眺めた。
――今、王国から手紙が届いたらどうなるんだろう。
ニグラスの作ったという経路がどういう仕組みなのかは、いまだによくわかっていない。人や刃物など、ニグラスが危険だと認識したものは弾いていたらしいけれど、肝心のニグラスが意識を失っている場合はどうなるのだろう。弾く判断ができないと、そのままニグラスの手に現れてしまうのだろうか。それとも、ニグラスの意識がないときは届かないようになっているのだろうか。
何もわからないけれど、このままぼんやり蹲っている場合ではないことだけはわかる。王国は魔族を殲滅することを望んでいるのだ。できることなら黒い森を焼き払いたいとすら思っている。そんな王国に、魔王が弱体化していることを悟られたらどうなるのか。トゥルシーが有効であることを知られたらどうなるのか。想像に難くはない。
――ニグラスは、何も悪いことはしていないのに。
魔王になったニグラスが王国を攻撃したことも、討伐にやってきた勇者であるエメリを傷つけたこともない。それでも王国が魔王討伐を命じ、魔族の殲滅を叫ぶのは果たして正しいことなのだろうか。なんの権利と正しさがあって許される行いなのだろうか。エメリには、何が正しいのかわからなかった。
眠るニグラスの前髪を掻き分け、額に口付けを落とす。絶対起こすから待っててね、と念を送るかのように。寝室を後にするエメリが向かうのは図書室。ニグラスを目覚めさせることと、王国を止めること。どちらも実現するには、あまりにエメリは何も知らない。あの膨大な量の蔵書を誇る図書室に、エメリの求める答えがあるかはわからないけれど何もしないよりはマシだろう。
パタパタと早足で廊下を駆け抜けていくエメリを、すれ違う魔族が奇妙な目で見つめることに気がついた。どうしてだろう、と首を傾げた瞬間に、以前にグラスと交わした会話が頭をよぎる。魔王夫人という肩書きが今も生きているからエメリを守ってくれているだけで、ニグラスがこのまま目を覚まさなければ頭からバリバリと食べられるのも時間の問題だろう。あらゆる意味で、ぼんやりしている暇がないことを痛感した。
図書室で、目についた本を片っ端から開いていく。読める言語の本を見つけたら読み漁り、また次の本を開く。そうして一人きりで図書室に引きこもり、引っ張り出した本の山に埋もれそうな頃。とうとう、ある記述を見つけた。
「悪魔との、契約……」
昔、実家で読んだことのある本と似ているけれど、内容がわずかに違う。名前は付けなくても知っていればいい、血を与えることは必須、対価にする大切なものがなければ寿命を与える。ずいぶん大雑把にも思えるけれど、ある意味で実用的だと思った。
――これなら、もしかして。
藁にもすがる思い、とはこのことを言うのだろうか。本を握る手に力が篭り、心臓がバクバクとうるさい。弾かれたように立ち上がったエメリは、城を全力で駆け抜けた。