勇者は魔王と結婚しました
15
時は遡り、一日前のこと。棚から引っ張り出した本を片付けることもせず、エメリは城内を全力疾走する。すれ違う魔族がなんだなんだと怪訝そうな目でエメリを振り向いたようだけれど、気にしている余裕はない。ニグラスのように魔王特権で魔族の位置を把握できないエメリは、地道に名前を叫んで探すしかないのだ。
「マルコ! いる!? マルコ!」
狼の魔族、マルコ。あのお茶会以降、特に顔を合わせることもなかった彼に今すぐ会わなければならない。会って、頼まなければならない。息を切らして走り続けること十数分。探し人は中庭でようやく見つかった。
「なんだよ、うるせえな」
「っ、ま、マルコっ……!」
膝に手をつき、ぜえぜえと荒い呼吸を整える。エメリの大声に呆れたようにするマルコの後ろには双子の侍女がいて、「エメリ様大丈夫?」「水飲む?」とどこからかグラスに入った水を差し出してくれた。双子の侍女としての能力は非常に高い。水を一気に飲み干し、呼吸を落ち着ける。心臓がバクバクしているのは、全力で走ったせいだけではない。どうしてマルコを探していたのか、と三人の怪訝そうな顔に書いてある。薬指の指輪に触れながら、口を開いた。
「マルコ、私と契約してほしい」
「は?」
「ニグラスを助けて」
双子が息を飲むのがわかった。二人とも契約の存在自体は知っていたのだろうか。願いを叶えてもらう代わりに、大切な何かを対価に捧げる契約。「大切な何か」の幅が広いそれは、人間側のデメリットが大きい。毒で昏睡状態に陥っている魔族を目覚めさせるのに必要な対価は、一体どれほどのものなのだろう。エメリには計り知れない。「正気か?」と尋ねるマルコに無言で頷くと、顔を顰めた。
「断る」
「なっ、なんで!?」
マルコの返事はにべもない。動揺と落胆が一度に襲う。「私に払える対価じゃ、ニグラスを助けられないの?」と気を抜いたら震えてしまいそうな声で尋ねると、「そうじゃねえ」と首を振った。
「ニグラスはトゥルシーにやられてるんだろ? 浄化の力は魔族じゃどうにもできねえ」
「そ、そんな……」
なんでも願いを叶えてくれるのではなかったのか、できることとできないことがあるのでは話が違う、と捲し立てたくなったけれど、そうしたところでどうにもならない。唯一思いついた頼みの綱は、あっさり切れてしまった。
「私の寿命全部とか……心臓を捧げても、それでもだめ? ニグラスは、助けられない?」
けれど、それで諦められるものではない。どうか助けられると言って欲しい、そう願って問いかける。寿命や心臓を全て捧げて助けられたとしても、目を覚ましたニグラスと会うことは叶わないだろう。もう二度と、名前を呼んでくれる柔らかい声を聞くこともできない。それでも、よかった。ニグラスを助けられるのなら、それでよかった。
「できない。お前が寿命も心臓も、守護の力さえ差し出したところで、魔族の俺には助けられない」
けれど、マルコの返答は変わらない。淡々と事実だけを告げるマルコの後ろで双子が鎮痛な面持ちで俯いている。何も言わないあたり、マルコの言っていることは事実なのだろう。エメリの心臓に、突き刺すような痛みが走った。
「そっ、かあ……」
ずるずるとその場にしゃがみ込む。契約の内容なんてろくに知らないけれど、魔族にできないことはないのだと思っていた。なんでも叶えてくれるのだと思っていた。今までそうだったように。
――今まで?
不意になぜか頭によぎった考え。まるで願いを叶えてもらったことがあるかのような。そんな記憶はないはずなのに。思考の渦に飲まれそうなエメリだったけれど、「だからお前がやれ」と聞こえた声に引っ張り上げられる。顔を上げると、マルコが至極真剣な顔でエメリを見下ろしていた。
「え?」
「浄化の力に侵されて眠ってるあいつを、魔族の俺らに助けることはできねえ。けど、お前は違う」
「な、にを言って……」
「お前は薬師だろ」
「!」
「眠気覚ましの一つや二つ、作れなくてどうすんだよ」
簡単に言ってくれる、と言い返したいのにできなかった。薬師としてほとんど実績のないエメリの目を、マルコは馬鹿にするでも侮るでもなく見つめている。「で、きると、思う?」と尋ねた声は震えていた。
「知らねえ。けど、ヒヨスの薬は効いてんだろ」
なら可能性はゼロじゃねえ、と告げるマルコの口調はどこまでも淡々としている。自分の見聞きした事実だけで紡がれる言葉には、願望が混ざらない。それがどうしてか、下手に慰め励まされるより、よっぽどエメリを鼓舞した。マルコの後ろでは双子がうんうんと頷いている。こういうときに無言でいてくれる優しさにも感謝した。
――私が、ニグラスを助ける。
考え付かなかったわけじゃない。ヒヨスが効くとは思わなかったけれど、エメリの調合した薬は魔王相手にも効果があるのだ。それなら、トゥルシーを無効化するような薬を作れればあるいは。けれど、材料も調合方法もわからないし、そもそも作れるかどうかもわからない。だから早々に打ち消した考えだったのだけれど。
魔族でも浄化の力に抗えないのなら、人間であるエメリが頑張るしかない。指輪に縋り付くようにして左手を握り、考えを巡らせる。できるのだろうか。薬師でもなんでもない、趣味の延長でしか薬を調合していなかったエメリに、できるだろうか。いいや、やるしかない。何年かかったとしても、やり遂げるしかない。
すう、はあ、としゃがみ込んだまま深く息を吸って吐き、ゆっくりと立ち上がる。ニグラスを助けるために薬を調合するにはまず、やらなければならないことがあった。
「マルコ、やっぱり私と契約してほしい」
「はあ? 正気か?」
「正気だよ。ニグラスを助けるためにまず、王国と話をつけに行く」
エメリの言葉に、マルコが片眉を上げる。黙ったままのマルコに、「聞きたいんだけど、ニグラスが眠ったままだと王国からの手紙はどうなるの?」と尋ねた。些細なことだけれど、エメリとしてはそこが一番引っかかっている。それに答えたのは、マルコではなく双子だった。
「送り返されるよ。手紙はニグラスが魔法で開いた道を通ってるからね」
「一時的な睡眠は問題ないけどね。長期間意識がないのなら、送り主不在で送り返されるよ」
「そんな感じなんだ……」
仕組みとしては王国の郵便配達と似たようなものらしい。エメリの懸念は概ね当たっていることがわかった。
「なら、ニグラス経由で私に送った手紙が届かなかったら、王国が異変を感じ取るのは時間の問題だと思う」
「まあ確かに」
「否定できないね」
「だから王国に直接話に行くってか? 手紙は送ってくるなって」
「手紙がメインじゃないけど……でもまあ、そんな感じ」
異変を感じ取った王国が、父親が、何をするかはわからない。エメリがどれだけ手紙で状況を説明しても、聞く耳を持ってくれなかったのだ。頼りにならない勇者に見切りをつけ、弱った魔王を討ち取るために無理やり黒い森に進軍するかもしれない。トゥルシーが効果的だと気づき、無理やり経路を繋いでトゥルシーの薬を大量に送り込んでくるかもしれない。それは避けたかった。
「王国に、魔王討伐をやめるように説得しに行く。それから、ニグラスの薬を作る」
「そのために俺の力が欲しいって?」
「うん、私を王国まで連れて行ってほしい。歩いて行ったら何日かかるかわからないし」
「運び屋かよ」
魔族と契約してやらせんのがそれかよ、と呆れたようなマルコに首を振る。大切なものを対価に、願いを叶えてもらう契約を交わすのだ。それだけで終わらせるはずがない。
「王国とうまく交渉できなかったら、お願いしたいことがあるの」
「あ?」
エメリが口にした願いに、三人とも目を見開く。そんな無茶苦茶が罷り通るのか、と言いたげな視線は無視した。エメリにだって、うまく行くかわからない。勇者としてあるまじきことだし、本末転倒にもなりかねない。それでも、魔王を倒すだけの力もなく、王国相手に交渉できるかもわからないエメリは、なりふり構っていられない。いざというときのための切り札は持っておいて損はない。
「……お前が、ニグラスのためにそこまでする理由は?」
マルコが、エメリの目を見据える。見透かされるような、射抜かれるような視線は、あのお茶会のときとは別の類のもの。あのときと同じか、それ以上の緊張感。これで答えが気に食わなかったら契約してもらえないのだろうか、と思うと臆したけれど答えには迷わなかった。
「好きだからに決まってる。それ以外に、理由なんてある?」
だから魔族とだって契約できる。大切なものを捧げられる。ニグラスが眠ってしまう前、好きだと伝えるのにぐずぐず迷わなければよかった。抱きしめて好きだよと伝えられるたびに、私もと返せばよかった。与えられっぱなしで何もできないまま、もう二度と目を覚さないなんてそんなことは許さない。叩き起こしてでも、エメリの想いを聞かせなくてはならないのだ。
「いいぜ、契約してやる」
「ほ、本当に!?」
「ああ」
心臓が高鳴った。背後で双子は滲んだ涙を拭う真似をしてうんうんと頷いている。瞳はカサカサに乾いているけれど、気持ちだけでも嬉しいものだ。二人に、「刃物って持ってる?」と尋ねると指を鳴らす。差し出されたものは短剣で、柄の意匠にはやけに見覚えがあった。「これって……」と恐る恐る尋ねると、双子は誇らしげに頷く。
「勇者の剣だよ」
「打ち直したの」
「二人が!?」
「うん」
「頑張った」
「あ、ありがとう……」
ロールケーキのように丸められた挙句に没収された勇者の剣。もう二度と戻ってこないと思っていたことを考えれば、戻ってきただけマシだと思うべきだろうか。それとも、あまりの変わり果てた姿に嘆くべきだろうか。よくわからない感情に囚われたけれど、何年経ってもエメリの小さな手に馴染まなかった元の剣と違い、短剣は握りやすい。薬草とか切るのにも便利そうだし、と自分に言い聞かせて納得することにした。
「血って、どれぐらい必要?」
「適当でいい」
「名前は?」
「マルコでいいんじゃない?」
「一応本名と違うんだし」
「契約ってそんな感じなんだ……」
想像していた数倍は緩い。この感じで寿命だとか心臓だとかを掠め取っていくのだから、魔族というものは恐ろしい。動悸は収まらず、手は震える。何か悪いことをしようとしているかのような罪悪感と、得体の知れない高揚感。左手の薬指には相変わらず指輪がキラキラと輝いていて、それがエメリの背中を押した。
勇者の短剣を抜き、左の手のひらに宛てがう。一族で最古の鍛冶屋に作ってもらった剣は、サキュバスに打ち直されてもその切れ味は抜群だ。スッと一度引いただけで、エメリの手のひらにはぱっくりと傷口が現れた。無言で右の手のひらを差し出すマルコに、左手を傾ける。手のひらにできる血溜まりを眺め、エメリは口を開いた。
「マルコ、私と契約して」
手のひらの血溜まりをマルコは口に含む。「エメリ様手出して」「手当しよ」と左手に包帯を巻いてくれる双子にお礼を告げて、マルコの様子を見守る。自分の血が誰かに飲まれるというよくわからない光景。体に浮かび上がる紋章も、魔力が満ちていくような熱さもない。こんなことで果たして契約はうまく行ったのだろうか、と半信半疑で見つめていると、血を飲み干したマルコが顔を上げた。
「で? 最初の願いは?」
「あ……王国に連れてって」
「御意。対価に何を差し出す?」
「そ、相場はどれぐらい?」
「王国までだと寿命一ヶ月分ぐらいじゃねえか?」
それが多いのか、それとも少ないのかはわからない。「じゃあそれで」と伝えると、「御意」と抱え上げられた。急な浮遊感に、「へっ!?」と戸惑うエメリだけれど、「頑張ってね」「いってらっしゃーい」と双子は呑気に手を振っている。落っことされないようにしがみついている間に、ぶわりと風が吹いた。移動するときの感じは魔族共通なんだ、と考える暇もない。瞬きの間に、エメリは王城の前にいた。
「マルコ! いる!? マルコ!」
狼の魔族、マルコ。あのお茶会以降、特に顔を合わせることもなかった彼に今すぐ会わなければならない。会って、頼まなければならない。息を切らして走り続けること十数分。探し人は中庭でようやく見つかった。
「なんだよ、うるせえな」
「っ、ま、マルコっ……!」
膝に手をつき、ぜえぜえと荒い呼吸を整える。エメリの大声に呆れたようにするマルコの後ろには双子の侍女がいて、「エメリ様大丈夫?」「水飲む?」とどこからかグラスに入った水を差し出してくれた。双子の侍女としての能力は非常に高い。水を一気に飲み干し、呼吸を落ち着ける。心臓がバクバクしているのは、全力で走ったせいだけではない。どうしてマルコを探していたのか、と三人の怪訝そうな顔に書いてある。薬指の指輪に触れながら、口を開いた。
「マルコ、私と契約してほしい」
「は?」
「ニグラスを助けて」
双子が息を飲むのがわかった。二人とも契約の存在自体は知っていたのだろうか。願いを叶えてもらう代わりに、大切な何かを対価に捧げる契約。「大切な何か」の幅が広いそれは、人間側のデメリットが大きい。毒で昏睡状態に陥っている魔族を目覚めさせるのに必要な対価は、一体どれほどのものなのだろう。エメリには計り知れない。「正気か?」と尋ねるマルコに無言で頷くと、顔を顰めた。
「断る」
「なっ、なんで!?」
マルコの返事はにべもない。動揺と落胆が一度に襲う。「私に払える対価じゃ、ニグラスを助けられないの?」と気を抜いたら震えてしまいそうな声で尋ねると、「そうじゃねえ」と首を振った。
「ニグラスはトゥルシーにやられてるんだろ? 浄化の力は魔族じゃどうにもできねえ」
「そ、そんな……」
なんでも願いを叶えてくれるのではなかったのか、できることとできないことがあるのでは話が違う、と捲し立てたくなったけれど、そうしたところでどうにもならない。唯一思いついた頼みの綱は、あっさり切れてしまった。
「私の寿命全部とか……心臓を捧げても、それでもだめ? ニグラスは、助けられない?」
けれど、それで諦められるものではない。どうか助けられると言って欲しい、そう願って問いかける。寿命や心臓を全て捧げて助けられたとしても、目を覚ましたニグラスと会うことは叶わないだろう。もう二度と、名前を呼んでくれる柔らかい声を聞くこともできない。それでも、よかった。ニグラスを助けられるのなら、それでよかった。
「できない。お前が寿命も心臓も、守護の力さえ差し出したところで、魔族の俺には助けられない」
けれど、マルコの返答は変わらない。淡々と事実だけを告げるマルコの後ろで双子が鎮痛な面持ちで俯いている。何も言わないあたり、マルコの言っていることは事実なのだろう。エメリの心臓に、突き刺すような痛みが走った。
「そっ、かあ……」
ずるずるとその場にしゃがみ込む。契約の内容なんてろくに知らないけれど、魔族にできないことはないのだと思っていた。なんでも叶えてくれるのだと思っていた。今までそうだったように。
――今まで?
不意になぜか頭によぎった考え。まるで願いを叶えてもらったことがあるかのような。そんな記憶はないはずなのに。思考の渦に飲まれそうなエメリだったけれど、「だからお前がやれ」と聞こえた声に引っ張り上げられる。顔を上げると、マルコが至極真剣な顔でエメリを見下ろしていた。
「え?」
「浄化の力に侵されて眠ってるあいつを、魔族の俺らに助けることはできねえ。けど、お前は違う」
「な、にを言って……」
「お前は薬師だろ」
「!」
「眠気覚ましの一つや二つ、作れなくてどうすんだよ」
簡単に言ってくれる、と言い返したいのにできなかった。薬師としてほとんど実績のないエメリの目を、マルコは馬鹿にするでも侮るでもなく見つめている。「で、きると、思う?」と尋ねた声は震えていた。
「知らねえ。けど、ヒヨスの薬は効いてんだろ」
なら可能性はゼロじゃねえ、と告げるマルコの口調はどこまでも淡々としている。自分の見聞きした事実だけで紡がれる言葉には、願望が混ざらない。それがどうしてか、下手に慰め励まされるより、よっぽどエメリを鼓舞した。マルコの後ろでは双子がうんうんと頷いている。こういうときに無言でいてくれる優しさにも感謝した。
――私が、ニグラスを助ける。
考え付かなかったわけじゃない。ヒヨスが効くとは思わなかったけれど、エメリの調合した薬は魔王相手にも効果があるのだ。それなら、トゥルシーを無効化するような薬を作れればあるいは。けれど、材料も調合方法もわからないし、そもそも作れるかどうかもわからない。だから早々に打ち消した考えだったのだけれど。
魔族でも浄化の力に抗えないのなら、人間であるエメリが頑張るしかない。指輪に縋り付くようにして左手を握り、考えを巡らせる。できるのだろうか。薬師でもなんでもない、趣味の延長でしか薬を調合していなかったエメリに、できるだろうか。いいや、やるしかない。何年かかったとしても、やり遂げるしかない。
すう、はあ、としゃがみ込んだまま深く息を吸って吐き、ゆっくりと立ち上がる。ニグラスを助けるために薬を調合するにはまず、やらなければならないことがあった。
「マルコ、やっぱり私と契約してほしい」
「はあ? 正気か?」
「正気だよ。ニグラスを助けるためにまず、王国と話をつけに行く」
エメリの言葉に、マルコが片眉を上げる。黙ったままのマルコに、「聞きたいんだけど、ニグラスが眠ったままだと王国からの手紙はどうなるの?」と尋ねた。些細なことだけれど、エメリとしてはそこが一番引っかかっている。それに答えたのは、マルコではなく双子だった。
「送り返されるよ。手紙はニグラスが魔法で開いた道を通ってるからね」
「一時的な睡眠は問題ないけどね。長期間意識がないのなら、送り主不在で送り返されるよ」
「そんな感じなんだ……」
仕組みとしては王国の郵便配達と似たようなものらしい。エメリの懸念は概ね当たっていることがわかった。
「なら、ニグラス経由で私に送った手紙が届かなかったら、王国が異変を感じ取るのは時間の問題だと思う」
「まあ確かに」
「否定できないね」
「だから王国に直接話に行くってか? 手紙は送ってくるなって」
「手紙がメインじゃないけど……でもまあ、そんな感じ」
異変を感じ取った王国が、父親が、何をするかはわからない。エメリがどれだけ手紙で状況を説明しても、聞く耳を持ってくれなかったのだ。頼りにならない勇者に見切りをつけ、弱った魔王を討ち取るために無理やり黒い森に進軍するかもしれない。トゥルシーが効果的だと気づき、無理やり経路を繋いでトゥルシーの薬を大量に送り込んでくるかもしれない。それは避けたかった。
「王国に、魔王討伐をやめるように説得しに行く。それから、ニグラスの薬を作る」
「そのために俺の力が欲しいって?」
「うん、私を王国まで連れて行ってほしい。歩いて行ったら何日かかるかわからないし」
「運び屋かよ」
魔族と契約してやらせんのがそれかよ、と呆れたようなマルコに首を振る。大切なものを対価に、願いを叶えてもらう契約を交わすのだ。それだけで終わらせるはずがない。
「王国とうまく交渉できなかったら、お願いしたいことがあるの」
「あ?」
エメリが口にした願いに、三人とも目を見開く。そんな無茶苦茶が罷り通るのか、と言いたげな視線は無視した。エメリにだって、うまく行くかわからない。勇者としてあるまじきことだし、本末転倒にもなりかねない。それでも、魔王を倒すだけの力もなく、王国相手に交渉できるかもわからないエメリは、なりふり構っていられない。いざというときのための切り札は持っておいて損はない。
「……お前が、ニグラスのためにそこまでする理由は?」
マルコが、エメリの目を見据える。見透かされるような、射抜かれるような視線は、あのお茶会のときとは別の類のもの。あのときと同じか、それ以上の緊張感。これで答えが気に食わなかったら契約してもらえないのだろうか、と思うと臆したけれど答えには迷わなかった。
「好きだからに決まってる。それ以外に、理由なんてある?」
だから魔族とだって契約できる。大切なものを捧げられる。ニグラスが眠ってしまう前、好きだと伝えるのにぐずぐず迷わなければよかった。抱きしめて好きだよと伝えられるたびに、私もと返せばよかった。与えられっぱなしで何もできないまま、もう二度と目を覚さないなんてそんなことは許さない。叩き起こしてでも、エメリの想いを聞かせなくてはならないのだ。
「いいぜ、契約してやる」
「ほ、本当に!?」
「ああ」
心臓が高鳴った。背後で双子は滲んだ涙を拭う真似をしてうんうんと頷いている。瞳はカサカサに乾いているけれど、気持ちだけでも嬉しいものだ。二人に、「刃物って持ってる?」と尋ねると指を鳴らす。差し出されたものは短剣で、柄の意匠にはやけに見覚えがあった。「これって……」と恐る恐る尋ねると、双子は誇らしげに頷く。
「勇者の剣だよ」
「打ち直したの」
「二人が!?」
「うん」
「頑張った」
「あ、ありがとう……」
ロールケーキのように丸められた挙句に没収された勇者の剣。もう二度と戻ってこないと思っていたことを考えれば、戻ってきただけマシだと思うべきだろうか。それとも、あまりの変わり果てた姿に嘆くべきだろうか。よくわからない感情に囚われたけれど、何年経ってもエメリの小さな手に馴染まなかった元の剣と違い、短剣は握りやすい。薬草とか切るのにも便利そうだし、と自分に言い聞かせて納得することにした。
「血って、どれぐらい必要?」
「適当でいい」
「名前は?」
「マルコでいいんじゃない?」
「一応本名と違うんだし」
「契約ってそんな感じなんだ……」
想像していた数倍は緩い。この感じで寿命だとか心臓だとかを掠め取っていくのだから、魔族というものは恐ろしい。動悸は収まらず、手は震える。何か悪いことをしようとしているかのような罪悪感と、得体の知れない高揚感。左手の薬指には相変わらず指輪がキラキラと輝いていて、それがエメリの背中を押した。
勇者の短剣を抜き、左の手のひらに宛てがう。一族で最古の鍛冶屋に作ってもらった剣は、サキュバスに打ち直されてもその切れ味は抜群だ。スッと一度引いただけで、エメリの手のひらにはぱっくりと傷口が現れた。無言で右の手のひらを差し出すマルコに、左手を傾ける。手のひらにできる血溜まりを眺め、エメリは口を開いた。
「マルコ、私と契約して」
手のひらの血溜まりをマルコは口に含む。「エメリ様手出して」「手当しよ」と左手に包帯を巻いてくれる双子にお礼を告げて、マルコの様子を見守る。自分の血が誰かに飲まれるというよくわからない光景。体に浮かび上がる紋章も、魔力が満ちていくような熱さもない。こんなことで果たして契約はうまく行ったのだろうか、と半信半疑で見つめていると、血を飲み干したマルコが顔を上げた。
「で? 最初の願いは?」
「あ……王国に連れてって」
「御意。対価に何を差し出す?」
「そ、相場はどれぐらい?」
「王国までだと寿命一ヶ月分ぐらいじゃねえか?」
それが多いのか、それとも少ないのかはわからない。「じゃあそれで」と伝えると、「御意」と抱え上げられた。急な浮遊感に、「へっ!?」と戸惑うエメリだけれど、「頑張ってね」「いってらっしゃーい」と双子は呑気に手を振っている。落っことされないようにしがみついている間に、ぶわりと風が吹いた。移動するときの感じは魔族共通なんだ、と考える暇もない。瞬きの間に、エメリは王城の前にいた。