《TwilightNotes ― 夜明けに鳴る音》

Scene11「控室、触れた距離」

 撮影の合間。
 静けさが戻った控室には、わずかな照明の光が柔らかく漂っていた。
 
 鏡台の前。
 脱ぎかけのスーツジャケットが背もたれに掛けられ、その前に立つ大和の襟元を、麻里奈が黙って整えている。
 
 「……動かないで」
 
 指先がネクタイの結び目に触れた。
 布越しに伝わる体温が、思っていたより近い。
 
 「緊張してる?」
 
 少しだけ笑みを含んだ声。
 その穏やかな響きに、大和は息を詰まらせた。
 
 「うん……ちょっと」
 
 「ふふ。昔と変わらないね、大和くん」
 
 「……そんなことないよ。変わったよ、俺」
 
 「そうかな?」
 
 麻里奈が、ほんの少しだけ顔を近づけた、その瞬間。
 ヒールのかかとが床に引っかかる。
 
 「あっ──!」
 
 体が傾いた次の刹那、大和は反射的に腕を伸ばしていた。
 抱きとめた胸元に、ふわりと甘い香りが落ちてくる。
 
 近い。
 息が、触れそうだった。
 
 視線が絡み、心臓の音だけがやけに大きくなる。
 あの日、文化祭のステージで浴びた光が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
 
 「ご、ごめん……」
 
 「……麻里奈」
 
 掠れた声で名前を呼ぶ。
 それだけで、言葉にできなかった時間が滲み出た。
 
 次の瞬間、大和はそっと腕を回した。
 
 強くもなく、弱くもない。
 ただ、触れてはいけない想いだけが、確かにそこにあった。
 
 麻里奈は息を呑む。
 けれど、彼の胸を押し返すことができなかった。
 
 「……あのとき、俺……ずっと言いたかったんだ。駅のホームで──」
 
 乾いた音が、空気を切り裂いた。
 
 ──コン、コン。
 
 「……ごめん、入るよ」
 
 須田光輝の声。
 扉が開き、廊下の明かりが差し込む。
 
 「……須田さん……」
 
 小さく漏れた麻里奈の声と同時に、光輝の視線が二人をとらえた。
 その目に、一瞬だけ鋭い色が宿る。
 
 大和は反射的に腕を離した。
 麻里奈も、気まずさを隠すように視線を落とす。
 
 沈黙。
 
 「もうすぐ再開の時間だよ。準備、できてる?」
 
 穏やかな声。
 けれど、控室の空気は確かに張りつめていた。
 
 「……はい。すぐ行きます」
 
 麻里奈の声は、わずかに震えていた。
 大和も、黙ってうなずく。
 
 さっきまでの温度が、急速に引いていく。
 それでも胸の奥だけは、熱を残したまま。
 
 ――この距離には、もう名前がついてしまった。
 
 触れてしまった感情だけが、
 静かな控室に、確かに残っていた。
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