《TwilightNotes ― 夜明けに鳴る音》

Scene10 彼の“優しさ”が怖い理由

 ブティックの扉を開けた瞬間、ふわりと柔らかな香水の香りが漂った。
 朝の光がショーウィンドウを透かし、白いマネキンたちが静かに並んでいる。
 まだ営業時間前だというのに、店内にはすでに数名の店員の姿があった。
 
「今朝、オーナーに連絡しておいたから。貸し切りだ」
 
「……え?」
 
 麻里奈は思わず足を止めた。
 けれど光輝は振り返ることもなく、そのまま奥へと進む。
 
 ラックの前で立ち止まり、迷いのない手つきでワンピースを一着取り上げた。
 
「これ、いいな。色も麻里奈くんに合ってる。……ほら、試着してみろよ」
 
「えっ……でも、こんな高そうな……」
 
「いいから」
 
 やわらかな声音。
 それなのに、その一言には“選択肢”がなかった。
 
 手渡された服を抱えた瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
 ――優しく笑いながら、首輪をかけられるような感覚。
 
 試着室のカーテンを閉めた瞬間、麻里奈は小さく息を吐いた。
 
(……これって、私の意思、どこにあるんだろう)
 
 逆らえば、場の空気を壊してしまう。
 でも、従えば従うほど、自分の“境界線”が曖昧になっていく気がした。
 
「どうだ? 似合うか?」
 
 カーテンの外から光輝の声がする。
 
 鏡の中の自分は、確かに綺麗に見えた。
 けれどそれは、“自分らしい姿”ではなかった。
 
 ――彼の理想に合わせて整えられた、誰か。
 
「……ありがとうございます」
 
 そう言って、口元を持ち上げる。
 作った笑顔。それしか、できなかった。
 
 光輝は満足げにうなずく。
 
「よし、じゃあそれ、買っていくぞ。
 今日の仕事もそれで出よう。俺のセンスに間違いはないからな」
 
(まるで……着せ替え人形みたい)
 
 麻里奈は笑顔のまま、心の中で小さく悲鳴を上げた。
 そして――鏡越しに映る自分の瞳が、ほんのわずか揺れていることに気づく。
 
 それが、
 彼の“優しさ”を、怖いと思った理由だった。
< 59 / 73 >

この作品をシェア

pagetop