記憶を失くした御曹司と偽りの妻

契約の終わりに

朝の光は、久遠家の廊下を冷たいほど真っ直ぐに伸ばしていた。
昨日の夜、怜央が口にした「事故の真相」は、光みたいに残酷で、刃みたいに鮮明で――私の胸の奥に、まだ刺さったままだ。

あの人の声、揺れてた……
強いはずなのに……私の前でだけ、少し弱くなるの、ずるい。

起き上がると、窓の外は、嘘みたいに晴れている。
久遠家の朝は、いつも丁寧だ。音ひとつも、無駄がない。
だからこそ、私の胸の中だけが騒がしくて、ひとりだけ取り残されたみたいになる。

「……今日で、終わり」

小さく呟いて、私は左手の薬指を見つめる。
夫婦の証拠品だった指輪は、今朝はやけに重い。

契約満了の日。
妻役は、返却される。

返すだけ。
指輪も、立場も、……優しさも。

それが正しい。
そう思い込まなきゃ、足が動かなくなる。

洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
目の下が少し腫れている。昨夜、泣いたせいだ。
泣く資格があるの?と、心の中の冷たい声が囁く。

私は、契約でここにいる人間。
好きになっていいわけがない。甘えていいわけもない。

でも――怜央の顔が浮かぶ。
昨日の夜、全部を話した後で、それでも私を責めなかった目。

私は身支度を整え、持ってきた荷物だけをまとめた。
部屋を出る前に、もう一度だけ室内を見回す。
整えられたカーテン、花の香り、きっちり揃えられたスリッパ。
ここで過ごした朝も夜も、全部、綺麗すぎるほど綺麗で――だから、余計に嘘みたいだ。

廊下へ出ると、使用人たちが丁寧に頭を下げた。

「おはようございます、奥様」

「……おはようございます」

奥様。
その呼び名が、喉に引っかかる。

今日で、私は奥様じゃなくなる。
いや、最初から本当じゃない。……本当じゃないのに。

礼の深さが、私の胸を締め付ける。

私、ここで――本当に妻みたいに扱われてた。

それは優しさだった。
怜央のための嘘を成立させるための、家全体の優しさ。
でも優しさほど、人を簡単に縛るものはない。

階段を下りる途中、ふと足が止まった。
玄関の方から、かすかに紅茶の香りが流れてくる。
朝食の時間――いつもなら怜央の席に紅茶が置かれて、私は妻らしく笑って、他愛ない会話をしていた。

書斎の前で、御堂慎也が待っていた。
いつも通りの黒いスーツ、いつも通りの無駄のない姿勢。
けれど今日は、目だけが少しだけ柔らかい――そう見えた。

「おはようございます、梨音さん」

「……おはよう、ございます」

最後までこの家は、私を丁寧に扱うのだ。
丁寧だからこそ、離れるのが痛い。

御堂は一歩だけ距離を縮め、手を差し出した。
そこには、薄い革のトレーがある。

「本日で契約期間が満了となります。……指輪を、お預かりしてもよろしいでしょうか」

「……はい」

私は、指輪を外した。
外す瞬間、皮膚が少しだけ引っ張られる。3か月、毎日そこにあったものが、肌から離れていく。

小さな金属音が、やけに大きく響いた。
廊下が静かすぎるせいだ。
それとも、心の中が静かになりすぎたせいだろうか。

御堂は指輪を受け取ると、目を伏せたまま言った。

「梨音さん。怜央様は――今朝、外出されました」

「……そう、ですか」

心臓が、無意味に跳ねた。
会わずに出ていくつもりだった。挨拶をしたら、終われなくなる。
でも、彼が屋敷にいないと聞いた瞬間、胸の奥が薄く冷えて、代わりに別の痛みが浮き上がる。

私、最低だ。会えないと分かったら、安心してるのに、寂しいって思ってる。

「……御堂さん」

「はい」

「怜央に、伝えてください。……ありがとうございましたって」

言葉にした瞬間、涙が出そうになって、私は慌てて目を伏せた。
ありがとうなんて、軽すぎる。
3か月分の気持ちを、そんな一言で片付けられるわけがないのに。

「承知しました。……それと」

「え?」

「車は、玄関に用意しております。目的地は――契約書に記載の住所でよろしいですね」

「……はい」

御堂は一拍置いてから、静かに頷いた。
そして、静かに書斎に入っていった。
書斎のドアが閉まる音を背に、私は玄関へ向かった。

指輪がない左手が、妙に軽くて、頼りない。

薬指が、寒い。

振り返らない。
振り返ったら、きっともう一歩が踏み出せない。
今、ここで止まったら――私は契約満了の正しさを裏切ってしまう気がする。

久遠家の玄関は、いつも通り美しい。
ドアノブに手をかけたようとした、その時。

外から、車のブレーキ音が短く響いた。
続けて、駆ける足音。冬の空気を裂くような、焦った気配。

玄関の扉を開けると、私の呼吸が止まった。

「梨音!」

低くて、確かな声。
その声だけで、身体が勝手に動いてしまう。

怜央が立っていた。
外出先から戻ったばかりで、コートの肩に冷たい空気がまとわりついている。髪が少し乱れて、頬がわずかに赤い。
完璧に整った怜央ではなく、急いで戻ってきた男の怜央。

……息、上がってる。
怜央が、走るなんて。

「……どうして……」

私の声が、情けないほど震える。
会いたかったが混ざってしまいそうで、怖い。

怜央は一歩、また一歩と近づいてきた。
それだけで、玄関の空気が変わる。
静寂が、彼の気配に塗り替えられていく。

「出るところだったな」

「……」

「挨拶もなしに、消える気だった?」

責める声じゃない。
ただ、確かめる声だった。

「……怜央は、いないって聞いて……」

怜央は短く息を吐く。
そして、視線を逸らさずに続けた。

「今日は、契約満了の日だろ」

私は頷くしかなかった。
頷いたら、怜央の目がほんの少しだけ細くなる。

「だから、終わらせに来た」

その言い方が、怖かった。
終わらせる――その言葉は、別れの宣告みたいで。

「……っ」

次の瞬間、怜央は玄関の真ん中で、膝をついた。

「……っ、怜央!?な、何して――」

「静かに。聞いてくれ」

低い声に、私の喉が詰まる。
怜央の手の中に、小さな箱がある。
指輪の箱だと分かった瞬間、私の胸がぎゅっと縮んだ。

「……御堂さんに返したはず……」

怜央は箱を開けた。
指輪は御堂に返したものとは別のデザインだった。
光が、朝の玄関の空気に反射して、きらりと跳ねる。

「契約は終わった」

怜央の声が、落ち着いているのに、どこか震えている。

「だから――本当の妻になってほしい」

世界が止まったみたいに感じた。
嬉しいとか、怖いとか、そんな単純な言葉が追いつかない。
ただ、現実が重すぎて、身体が固まる。

「……む、無理です」

やっと出た声は、息を混ぜたみたいに弱かった。

「私は、あなたの身分とは釣り合わない。普通の人間よ……」

「梨音」

「それに、借金返済のため、あなたをだましていた」

言ってしまった瞬間、心臓が痛んだ。
でも、怜央は目を逸らさなかった。
膝をついたまま、静かに言った。

「君が妻役をやってくれていたのは、俺のためでもあった」

「……でも、私は……」

「自分だけを責めないでほしい」

その言葉が、私の胸の奥に落ちる。
熱いのに、苦しい。

「でも、だからって……」

「君と過ごしていたこの3か月」

怜央の声が、少しだけ柔らかくなる。

「俺が君へ向けた気持ちは、本物だった」

私は唇を噛んだ。
涙が出そうになるのを、必死でこらえる。

「……でも、それは」

声が震える。

「あなたが、私を妻だと信じ込んでいたから……」

怜央は、一瞬だけ目を伏せた。
その仕草は、まるで自分の中の何かを、丁寧に拾い上げているみたいだった。

「それだけじゃない」

顔を上げる。
今度の瞳は、揺らいでいる。
強いのに、弱さを隠していない目。

「数ヶ月前、君は記者として俺を取材してくれたよね?」

私の背筋が、ぞくりと震えた。

「……覚えていたの?」

「事故の前までは覚えていたし、昨夜思い出した」

怜央は、箱を持つ手を強く握りしめた。

「君が書いてくれた記事、今までで一番嬉しかったんだ」

「……」

「俺を褒めるだけじゃない。ちゃんと丁寧に取材して、俺の想いを乗せている記事だった」

私の脳裏に、自分が必死で書いた文章が浮かぶ。
締切に追われながらも、彼の言葉を一語も落としたくなくて、何度も録音を聞き直した夜。
久遠怜央は天才外科医――そんな安い言葉で終わらせたくなかった。
彼の冷静さの奥にある、人の命を救うことへの執念と恐れを、ちゃんと書きたかった。

あの記事を、覚えてくれてた……

「これを書いてくれた記者のこと、思い返したんだ」

怜央の声が、少し掠れる。

「君の笑顔、真摯な仕事姿」

「……」

「思い出したら、気になってしまって……気づいたら、もっと君を知りたいと思ってしまっていた……」

怜央は、自嘲みたいに小さく息を吐いて。

「たぶん……惹かれていたんだと思う」

私の目から、堰が切れたように涙が落ちた。
止めようとしても無理だった。
ぽろぽろ落ちて、頬を伝って、指先まで震える。

「……ずるいよ……」

「何が」

「そんなこと、今言うの……」

怜央は、膝をついたまま、少し笑った。
あの完璧な微笑じゃない。
不器用で、必死で、優しい笑い方。

「今じゃないと、君は逃げるだろ」

「……逃げる……」

「君は、いつも自分を後回しにする。俺のため、久遠家のため、契約のため。……自分の気持ちだけ、置き去りにして」

私は首を振った。
違うと言いたいのに、否定の言葉が出ない。
置き去りにしてきたのは、事実だから。

私の気持ちなんて、最初から数に入れちゃいけないって。
そうやって、全部の気持ちを押し殺してきた。

怜央は、指輪を差し出した。

「梨音。俺は、君に救われた」

「……それは事故の時……」

「それも。……でも、それだけじゃない」

怜央の声が低くなる。

「記憶を失って、俺は怖かった」

「……」

「その中で、君だけが安心をくれた」

私は泣きながら笑ってしまった。
自分の方が、もらっていたのに。
彼の優しさに、何度も救われてきたのに。

「……身分差のことは?」

「久遠家のことは、俺がどうにかする」

私は、震える指で自分の頬の涙を拭った。
拭っても拭っても、落ちてくる。

「……私、怖い」

「何が」

「あなたの人生を、私が壊してしまうんじゃないかって」

「壊れない」

怜央が、はっきり言う。

「君は、俺の人生を壊しに来たんじゃない」

「……」

「君は、俺を生かした。俺はそれを、君に返したい」

返す、じゃない。
重ねる、だ。
その言葉の中に、怜央が選ぶ未来がある。

「梨音。……答えて」

「……」

梨音は、指輪を見つめた。
契約の指輪ではない。
これは妻役の証拠品じゃない。
怜央が、今、私のために差し出したもの。

私、ずっと欲しかったのは。
お金ではなくて、あなたが私を選ぶ言葉だったんだ。

「……私でいいの?」

「君がいい」

即答だった。
迷いのない声。
その迷いのなさが、私の中の逃げ道を全部塞いだ。

罪悪感も、身分差も、全部消えるわけじゃない。
でも――それを理由に逃げるのは、もうやめたい。

声が掠れる。

「私、あなたの妻になる」

怜央の喉が、小さく鳴った。
泣きそうな顔をしながら笑っている。
その表情が、私が好きになった怜央そのものだった。

怜央はゆっくり立ち上がり、私の左手を取る。
指先が温かい。確かに人の体温だ。
指輪が、すっと薬指に収まる。

ああ、冷たくない。
指輪って、こんなに温かいものだったっけ。

「契約じゃない」

怜央が囁く。

「これからは、本物だ」

私は、泣きながら頷いた。
そして、もう一度だけ言った。

「……騙して、ごめんなさい」

「騙されたと思ってない」

「……でも」

「君がくれた3か月が、本物だったから」

怜央は、私の額にそっと触れるように指先を置いて、冗談みたいに小さく言った。

「……うちの顧問弁護士は、契約書より婚姻届の方が書類が軽いって言ってた」

「今、それ言う……?」

「泣いてる君を笑わせたかった」

私は涙のまま、息を漏らして笑った。
泣き笑いで、胸が痛いのに、温かい。

玄関の外では、冬の空が澄んでいる。
契約満了の日。
終わりのはずだった日。

でも、私の左手の薬指が、静かに光っていた。
それは終わりじゃなくて、始まりの印だった。
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