記憶を失くした御曹司と偽りの妻

あなたの隣で

久遠グループ本社ビルの広報フロア。
フリーアドレスの島に、キーボードの音と、淹れたてのコーヒーの香りが混ざる。

私は、自分のデスクに座り直して、インタビューの質問票をもう一度だけ見直した。

……落ち着け、私。今日は妻じゃなくて、広報。

そう言い聞かせたのに、胸の奥がふわ、と軽く浮く。
だって、取材相手の名前が、そこに印字されているからだ。

久遠怜央。
久遠ホールディングス御曹司。天才外科医。——そして、私の夫。

「夫」って、まだ口の中で転がして確かめたくなる言葉だ。
契約だったはずの関係が、今は戸籍にも、指輪にも、日々の習慣にも刻まれている。

今朝だって、家を出る直前に。

『ネックレス、絡まってる』

背中側で留め具を探していた私の手を、怜央の指がするりと奪って。
鏡越しに、彼の真剣な横顔が見えた。

『……ほら。できた』

『ありがと……』

『礼は、帰ってから』

冗談めかした声。なのに、最後に額へ落とされた軽いキスは、本気で。
その瞬間、私は毎回——自分の「現実」に慣れなくて、困ってしまう。

……だめだ。思い出したら、顔がにやける。

慌てて画面に視線を戻したとき、隣の席から先輩が顔を出した。

「梨音さん、今日の社内報の取材、段取りもう大丈夫?」

私は反射的に背筋を伸ばす。

「はい。質問票も承認済みで、撮影も同席してもらえることになってます。会議室は医療本部の応接で押さえました」

「完璧!最初いろいろ言う人もいたけどさ『奥様が広報って大丈夫なんですか』って」

私は、笑顔のまま小さく息を吐いた。
奥様という呼び名は、今でも少しだけ照れる。

奥様、か。……でも、私はちゃんとここで働いて、ちゃんと記事を書いて、ちゃんと結果を出したい。

「大丈夫です。線引きは、ちゃんとします」

逃げないと決めている。
あの日、怜央の命に手を伸ばしたみたいに。

「じゃ、撮影班、先に向かわせるね。怜央様のスケジュール、きっちりだから、開始5分前には着いときなよ」

「はい」

私は資料を抱えて立ち上がった。
エレベーターへ向かう通路で、窓に映った自分の姿をちらりと確認する。

シンプルなジャケット。淡い色のブラウス。社員証。
左手の薬指には——もう偽物じゃない指輪。

光を受けると、控えめにきらり、と返す。
あの頃は嘘の証拠品みたいで怖かったのに、今は戻る場所みたいに思えるから不思議だ。

「……よし、頑張るぞ」

そう呟いて、私は医療本部のフロアへ向かった。



応接会議室の前では、撮影担当のカメラマンが機材を整えていた。
照明の角度を確認しながら、私に軽く会釈する。

「梨音さん、よろしくお願いします。今日は社内報用なので、柔らかめのトーンで撮りますね」

「お願いします」

その時、扉が静かに開いた。
先に入ってきたのは、怜央の秘書——御堂慎也。相変わらず無駄がない。

「梨音さん。お待たせしました。まもなく怜央様がいらっしゃいます」

「御堂さん、ありがとうございます」

「本日の取材は20分。撮影が10分。押しは許容3分までです」

「……秒で終わらせます」

「秒ではなく、分でお願いします」

真顔で言われて、梨音は小さく頷いた。

そして——

足音。
空気が、少しだけ変わる。

怜央が入ってきた。
端正なスーツに、落ち着いた歩幅。視線はまっすぐ。場の中心に立つだけで静かな圧が生まれる。

でも、その目が私を見つけた瞬間、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「おはよう、梨音」

名前で呼ばれるだけで、心臓が一回、余計に跳ねた。
職場なのに、それだけで世界が甘くなるの、ずるい。

それでも私は広報の顔で笑う。

「おはようございます。本日は社内広報誌『KUON INSIDE』のインタビュー、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ。……ずいぶん仕事の声だな」

「仕事なので」

「夫としては、少し寂しい」

「夫は、後で回収してください」

言い返したつもりなのに、頬が熱い。
怜央の口元が楽しそうに上がる。

「回収、了解」

「……了解しないでください」

御堂が咳払いを一つした。
怜央は小さく肩をすくめて、椅子に座る。

「では、始めようか」

私はレコーダーを置き、質問票を開いた。
指が震えないように、ペンを持つ。

落ち着け。私は、広報。私は、仕事ができる人。……できる、はず。

「今回の特集は、『医療の信頼と再発防止——久遠メディカルの次の一手』です。まず、怜央様ご自身が今、最も重視されているテーマを教えてください」

怜央の表情が、仕事のそれになる。
だけど冷たくはない。精密で、誠実で、迷いがない。

「透明性だ。医療は、技術だけでは成り立たない。説明責任と、検証可能性。……そして、患者とその家族が信じられる仕組みを、組織として用意する」

私は頷きながら、言葉を拾う。

質問は続く。
新設センターの構想。若手育成。現場の負担軽減。
怜央は端的に、でも丁寧に答える。

夫として隣にいるときの甘さも知っているのに、こうして久遠怜央として語る姿を見ると、胸がいっぱいになる。
誇らしい。
同時に、ほんの少しだけ——遠い。

「怜央様から最後に伝えたいことはありますか」

ほんの一瞬。怜央の目が私を見た。
そして、正面を向いて、はっきりと言った。

「——感謝している」

その一言だけで、会議室の空気が静まる。

「この命を救ってくれた妻に感謝します」

私の呼吸が止まりかけた。
社内報のインタビューなのに、今、確実に私に向けた言葉だった。

だめ……ここで泣いたら、広報失格。

なのに目の奥が熱い。
ペン先が、ほんの少し震えた。

怜央は続ける。落ち着いた声で、けれど少しだけ優しい熱を含んで。

「彼女があの夜、手を伸ばしてくれなければ、私はここにいない。そして、あの時の私を救ったのは、医療の力だけじゃない。——人の意思だ。だから、社員の皆さんにも伝えたい。私たちは、技術者である前に、人の命に手を伸ばす人であることを忘れないでほしい」

梨音は視線を落としそうになるのをこらえて、笑った。
広報として、記事にするために。
そして、妻として、泣きそうにならないために。

私が手を伸ばしたのは、ただ必死だったから。あなたが……あなたが、ここまで私を連れてきてくれた。

胸の奥が、やさしく締め付けられる。

「……ありがとうございます。今のお言葉、見出しにしたいくらいです」

「見出しにしていい。社内報は盛っていいだろ」

「盛ると怒られます。監修が御堂さんなので」

御堂が無言で頷いた。
怜央が小さく笑って、私の緊張が少しだけ溶ける。

「——以上です。本日はありがとうございました」

私がレコーダーを止めると、怜央はふっと息を吐いた。

「お疲れさま。……取材、上手いな」

「元記者ですから」

カメラマンが声をかける。

「では、撮影に移ります。怜央様、窓際にお願いします。背景、ロゴが入る位置でいきますね」

怜央が立ち上がり、ジャケットの襟を軽く整える。
その動作だけで絵になる。

私は少し離れた位置から、撮影の邪魔にならないように立っていた。
仕事の顔。トップの顔。未来を語る顔。
シャッター音が、淡々と記録を積み重ねていく。

……こうして見ると、本当に遠い人みたい。
同じ家で眠って、同じ食卓で笑っているのに。

例えば今朝だって、靴下の片方が見つからなくて私が慌てたら、怜央がベッドの下から見つけて、得意げに差し出した。

『ほら。俺、名医だから』

『名医、靴下の診断もするんだ』

『君が困る病気なら何でも診る』

……そんなことを言う人なのに。
ここに立つ怜央は、組織の象徴だ。

「はい、いいですね。目線、もう少しだけ右に。——OKです、ありがとうございます」

カメラマンがモニターを確認し、にこやかに言った。

「では、これで撮影終了で」

その瞬間だった。

怜央が、少しだけ首を傾げる。
そして、当たり前みたいな口調で言った。

「妻との写真を撮ってくれませんか?」

空気が、ぴし、と固まる。
カメラマンが一瞬フリーズして、御堂が目を細めて、私は心の中で盛大に転んだ。

「れ、怜央様……?」

慌てて言うと、怜央は穏やかに笑う。

「社員に、伝えたい。今、俺がここにいるのは、彼女のおかげだって」

言葉が、胸のいちばん柔らかいところに刺さる。
刺さるのに痛くなくて、あたたかい。

カメラマンが「もちろんです!」と急にプロのスイッチを入れた声で言う。

「梨音さん、こちらへ。怜央様の隣、少しだけ寄ってください。はい、そう。肩のライン綺麗です」

肩のラインを褒められても、今は困る。
私は恐る恐る怜央の隣に立った。

近い。
香水じゃない、怜央自身の匂いがする。清潔で、落ち着く匂い。
それだけで、笑い方を忘れそうになる。

「緊張してる?」

怜央が小声で囁いた。

「……してます」

「俺も」

「嘘」

「嘘じゃない。手術より緊張する」

「それは言い過ぎです」

「言い過ぎのほうが、伝わるだろ」

怜央が、ほんの少しだけ私の背中に手を添えた。
支えるというより、ここにいてという合図みたいに。

……ああ、だめ。安心しちゃう。

ここが職場でも、誰かに見られていても。
彼の手が触れると、私の心が「帰ってきた」みたいになる。

カメラマンが声をかける。

「いきます。お二人とも、こちらに目線。——はい、笑って。そう、そのまま。……3、2、1」

シャッターが切られる。
その音が、なぜか胸に沁みた。

記憶は、曖昧になる。
でも、記録は残る。
残したい。あなたと一緒に、今を。

「ありがとうございました!最高です。とてもいい表情です」

カメラマンが満足そうに言う。
私は、ようやく息を吐いた。

「……怜央、どうして突然……」

小声で問うと、怜央は、誰にも聞こえないくらいの距離で答えた。

「君が俺を見つめるたびに、思い出す。あの夜のことも、君が手を伸ばしてくれたことも」

「……」

「この笑顔を忘れたくない。これからは一緒に記憶も記録も残していこう」

私は、言葉が喉に詰まって、笑うしかできなかった。
——忘れたくない、なんて。
この人は、いちばん刺さることを、平然と言ってくる。

「……うん」

たったそれだけ返すと、怜央が少しだけ目を細めた。
「それで十分」と言うみたいに。

そして、ほんの一瞬だけ——誰にも見えない角度で、怜央が私の薬指の指輪に視線を落とした。

「……光るな」

「え?」

「指輪をつけた君の手、好きだ」

「……職場です」

「知ってる。だから我慢してる」

それがあまりにも真面目な顔だったから、私は笑ってしまった。
笑いながら、目の奥がまた熱くなる。

御堂が、わずかに視線を逸らしながら言った。

「……社内報の体裁は、こちらで調整します」

私は思わず吹き出した。
その瞬間、怜央も小さく笑った。

——ああ、これだ。
私が好きになった人の笑い方。
私が、嘘をついてでも壊したくなかった笑顔。



撮影機材が片付けられ、会議室の扉が閉まる。
私は資料を抱え直して、仕事のスイッチを入れようとした。

「では、記事は明日初稿を回します。確認、お願いしますね」

「了解。……梨音」

「はい?」

「今日の取材、楽しかった」

その言い方が、夫の声だった。
私は、少しだけ眉を上げる。

「それ、広報への評価ですか?妻への評価ですか?」

「両方」

私は、指輪の上から自分の指をぎゅっと握った。

「あなたの言葉が、まっすぐ届くような記事にしますね」

怜央が、少しだけ驚いた顔をして。
それから、ゆっくり笑った。

「頼もしいな。……俺の妻」

「……今日の取材相手が手強すぎます」

「君のせいだよ。君が真剣だから、俺も真剣になる」

その言葉に、胸が静かに満ちていく。

あの日、雨の中で助けた命が、今、こうして隣で笑っている。
契約でも、嘘でもなく。
仕事だけでも、家庭だけでもなく。
その両方として、ここにいる。

記憶は、抱きしめる。
記録は、未来に渡す。

——これからは、一緒に。
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