記憶を失くした御曹司と偽りの妻

真実の影

久遠家本家の廊下は、夜更けになるほど静かになった。
さっきまで人の気配で満ちていたはずの空気が、嘘みたいに引いていく。

私は、客間へ続く曲がり角で立ち止まった。
指先が冷えている。パールのネックレスが、喉のあたりに重たい。

……息がうまくできない。
胸の奥が、まだ会食の残り香みたいにざわついている。

倒れた怜央は、本家のゲストルームに運び込まれた。
医師が呼ばれ、御堂が指示を出し、使用人たちが慣れた手つきで布団を整えていく。
その流れの中で、私だけが場違いな異物みたいに立ち尽くしていた。

「……私、何やってるんだろ」

妻としてここにいるのに、妻じゃない。
奥様と呼ばれて頭を下げられるのに、私は契約書にサインしただけの他人。

左手の薬指が、じくじく疼いた。
指輪は軽い。けれど、罪悪感は重い。

「梨音さん」

低い声に、肩が跳ねる。
御堂慎也が、廊下の陰から姿を現した。相変わらず感情の読めない、端正な顔。
ネクタイもスーツも乱れていないのに、目だけが少し疲れている。

「……怜央は?」

「眠りました。鎮静剤は最低限。脳の検査も問題なし。――ただ、ストレス反応が強い」

ストレス反応。
その原因に、私は心当たりしかない。

「……私、帰ったほうが」

「帰れません」

きっぱり。切り捨てるような言葉。
私は、喉の奥で空気が引っかかるのを感じた。

「怜央様が落ち着くまで、あなたはここにいる必要がある」

「でも、私は……」

妻じゃないと、怜央は知ってしまった。

その言葉が、喉の奥で鋭い魚骨みたいに引っかかる。

御堂はほんの一瞬だけ視線を逸らし、言い直した。

「……あなたにしかできない役割が、まだ残っています」

「それ、契約の話ですか」

「契約の話です」

あまりにも正直で、私は苦笑しかけて、やめた。
笑ったら、涙がこぼれそうだったから。

「今夜は休んでください。あなたが倒れたら、さらに厄介です」

「……厄介って言い方、ひどいですね」

「業務上、正確です」

御堂は冗談を言っているつもりなのか、いないのか。
私は情けなくて、唇を噛んだ。

「……客間、入ってもいいですか」

「今は控えてください。眠りが浅い。起こせば、また心拍が上がります」

「……わかりました」

御堂に返事をして、私は廊下を戻った。
足音が、やけに大きく聞こえる。
絨毯が音を吸ってくれるはずなのに、胸の鼓動が床に落ちるみたいに響く。

本家の夜は、豪奢なのに冷たい。
どこまでも整いすぎていて、嘘をついたまま居場所を与えられている自分が、そこに浮いている気がした。

――偽物の妻。

私は自分の左手薬指を見た。
指輪が、淡い照明を拾って、きれいに光っている。

「……きれい、だね」

本物じゃないのに。
本物みたいに、きれいだ。

……指輪は嘘の証拠品。
でも、怜央がそれを見て安心して笑うたび、嘘が少しずつ現実になっていく気がして――怖かった。

その夜、私は怜央の部屋とは別に、本家屋敷のゲストルームを用意してもらった。
でも、ほとんど眠れなかった。
寝具の柔らかさが、罪悪感を膨らませるだけだった。

枕に顔を埋めても、瞼の裏に浮かぶのは怜央の顔だ。
妻だろ?とまっすぐ見つめた目。
屋敷に来てから、何度も呼ばれた「梨音」の声。
優しい指先。

「……ごめんなさい」

……明日、言おう。
絶対に言おう。
本当のことを。

そう決めても、胸の奥は勝手に弱くなる。
言ったら終わると、子どもみたいに怯えてしまう。

終わるのが怖い。
でも、このまま続ける訳にはいかない。

時計の針が進む音が、やけに鮮明だった。

翌朝。

ノックの音は控えめだったが、私の心臓にはやけに響いた。

「梨音さん。起きていますか」

御堂の声だ。
梨音は上体を起こし、喉を潤す前に返事をした。

「はい……」

「怜央様が目覚めました。落ち着いています。――あなたに会いたいと」

「……会いたい、って」

「正確には『梨音は?』と。二回。三回目で私が止めました」

「止めたんですか」

「ええ。あなたが準備不足のまま行って、倒れたら困ります」

「……私、倒れる前提なんですね」

「業務上、想定は必要です」

会いたい。
それは嬉しい言葉のはずなのに、私には判決みたいに聞こえた。

「……分かりました。すぐ行きます」

鏡の前で髪を整えながら、私は何度も深呼吸した。
指先が震える。
リップを塗ろうとして、手がぶれて口角を汚す。慌てて拭って、また深呼吸。

言わなきゃ。
言わなきゃいけない。

昨日までの彼は、信じていた。
私が妻で、ふたりは夫婦で、幸せな日々が当然のように続くと。

でも今朝の彼は、もう違うかもしれない。
記憶が戻り始めた、と御堂は言った。断片的に、現実が戻り始めた、と。

私は廊下を歩きながら、頭の中でセリフを組み立てる。

「ごめんなさい」

「騙していました」

「私は、あなたの妻じゃない」

――言えるのか。
いや、言わなきゃいけない。

……でも、もし怜央が冷たい目で「出ていけ」と言ったら?
……もし、怒って、傷ついて、二度と笑ってくれなくなったら?

胸がぎゅっと縮む。
それでも、歩く。
逃げない。逃げたら、私が私じゃなくなる。

ゲストルームの前で足が止まった。
扉越しに、静かな気配がある。息遣いが、生きている。

御堂が扉を開けた。

「どうぞ」

私は一歩踏み出す。
部屋の中は朝日が柔らかく、白いカーテンが揺れていた。
昨日の夜の冷たさが嘘みたいに、温かい光。

ベッドに横たわっていた怜央は、上体を起こしていた。
顔色はまだ青白い。でも、目だけははっきりとこちらを捉えている。

――その目。

昨日までの甘さとは違う。
穏やかで、冷静で、それでも温度がある。
その温度が、私の胸を焼く。

「……梨音」

名前を呼ばれて、胸が詰まった。
妻として呼ばれる梨音なのか。
それとも、ただの桐生梨音としてなのか。

「……怜央」

声が震えた。
怜央は、ゆっくりと頷いた。

「来てくれて、ありがとう」

「……御堂さんから、聞きました。落ち着いたって」

「ああ。……少し、戻った」

私は、ベッドの脇に立ったまま、手を握りしめた。
握りすぎて、爪が掌に刺さる。

「……思いだしたんですよね?」

「……何を?」

「私が……あなたの妻ではないと」

空気が止まった。
カーテンの揺れる音だけが、妙に大きい。
怜央の喉が小さく動くのが見えた。

怜央は目を伏せ、短く答えた。

「ああ」

たった一音で、私の中の糸が切れた。
胸の奥に溜めていたものが、雪崩みたいに崩れる。

「……私は、あなたの本当の妻じゃない」

言いながら、涙がこぼれた。

「ごめんなさい。騙していて……契約で……私は、借金の返済のために……っ」

言葉がぐちゃぐちゃになる。
言い訳をしたいのか、謝りたいのか、もう自分でもわからない。

「指輪も……外せなくて……本物じゃないのに、本物みたいに扱われて……私、ずっと、怖くて……」

「……うん」

怜央の短い相槌が、余計に涙を誘う。

「怖かったんです……。あなたが優しいほど、私が最低で……」

「最低じゃない」

「でも――」

「君が最低なら、俺はそれを利用した側だ」

私は息をのんだ。
怜央は、責めるでもなく、苛立つでもなく、ただ静かに言葉を重ねた。

「御堂から、妻役を引き受けてくれた経緯を聞いた」

「……っ」

妻役という言葉が、胸に刺さった。
役。演技。契約。仕事。

そうだ。全部、そうだったはずだ。

怜央は続ける。

「こちらの都合で、振り回して悪かった」

「……え?」

梨音は顔を上げた。
怒られると思っていた。軽蔑されると思っていた。最低だ、と言われると思っていた。

なのに、怜央の口から出たのは謝罪だった。

「……どうして、謝るんですか。私が、騙したのに……それに、あなたは私に……優しくしてくれた……」

「優しくしたのは、俺の意思だ」

「でも、それは……前提が……」

「前提が違っても、俺がそうした事実は消えない」

怜央は視線をまっすぐに向けた。
その目に、記憶喪失の混乱は少ない。
むしろ、整理された痛みだけがあった。

「記憶が断片的に戻った」

「どんな……?」

「仕事のこと。家族のこと。事故にあったこと」

怜央は言葉を探すように、少しだけ視線を宙に泳がせる。

「……それから、俺が沙羅との結婚を控えていたこと」

私の喉が鳴った。
沙羅の顔が浮かぶ。あの場に現れた、完璧な微笑みの女。

怜央は、わずかに眉を寄せる。

「名前は……出てくる。でも、感情がうまく繋がらない」

「感情?」

「好きだったのか、必要だったのか、義務だったのか……そこが、空白だ」

空白。
私の胸は、勝手に痛む。
好きであってほしくない。
でも、好きじゃないとも決めつけられない。
そんな自分が、醜い。

「……君が俺を助けてくれたんだよな……。ありがとう……」

怜央の眉がわずかに寄った。

「……でも、事故の原因は思い出せない。思い出そうとすると、頭が痛む。――ブレーキの感触だけが、変に残ってる」

私は息を止めて、怜央の言葉を聞いていた。

怜央は、しばらく黙っていたが、言葉を選ぶように続けた。

「俺の妻じゃなかったんだな……」

私は唇を噛みしめた。
もう終わりだ。
契約は、終わり。ここにいる理由は、終わり。

「……私、出ていきます」

「待て」

怜央の声が、少しだけ強くなる。
私は動けなくなった。

「契約の期間は、まだ残ってるだろ」

「それは……」

「御堂は、俺の精神安定のために君が必要だったと言った。……でも今は、違う」

「違う、って」

「今は俺の意思で、君にここにいてほしいと思ってる」

私は思わず首を振った。

「……そんな、妻ではないと思い出されたのなら、もうここにいられません」

「都合がいいのは自覚してる」

怜央は即座に言った。

「でも、混乱してる。記憶はまだ欠けてる。君がいない状態で俺がどうなるか、俺自身が一番怖い」

怖い。
その言葉が、私の胸を掴んだ。

「……あなたが、怖いって言うの、ずるいです」

「ずるくていい。今だけは」

怜央は、苦い笑みを浮かべた。

「断っていい」

怜央はすぐに言った。

「拒否する権利は君にある。契約だろうと、そうじゃなかろうと。……ただ、頼みたい」

頼みたい。
妻としてではなく、梨音に。

「昨日、俺は倒れた」

怜央は少し自嘲するように笑った。

「情けないな。医者のくせに」

「情けなくない……!」

私は反射で言い返した。

「あなたは記憶がない中、ずっと事故後のリハビリを頑張っていた……」

「そうか」

「……だから、倒れた時くらい、平気な顔しないでください」

言ってしまってから、私は目を見開いた。

何を言ってるんだ、私は。
妻じゃないのに。
叱る権利なんてないのに。

なのに怜央は、驚いた顔をしたあと、少しだけ目を細めた。

「……君がいるのが、当たり前になった」

怜央は言った。

「――たとえ、それが嘘から始まったことだとしても」

私は、涙を拭うこともできずに立ち尽くした。
胸の奥が熱い。
嬉しいのに、苦しい。

「……怜央」

「ん」

「私、あなたと……もう少し一緒にいてもいいですか?」

言った瞬間、顔が熱くなった。
ここから出ていくと言うつもりだったのに、口が勝手に。
止めたかったのに、止まらなかった。

怜央の目が、ほんのわずかに揺れた。
それは驚きじゃない。痛みと、安堵が混じった揺れ。

「……そうか。ありがとう」

私は、かすれた声で答えた。

「ただし、嘘はもう、つきません。妻役も終わりです」

「それでいい」

怜央は、ほんの少しだけ微笑んだ。
それは、昨日までの甘い笑顔とは違う。
現実を知った男の、静かな笑顔だった。

「失礼いたします」

御堂が入室してきた。
手元にはタブレット。仕事の顔だ。

「怜央様、体調はいかがですか」

「落ち着いた。……御堂、ありがとう。説明も」

「いえ。必要な情報を整理しただけです」

御堂は視線を私に向け、わずかに頷いた。
話は終わったようですね、とでも言いたげに。

怜央が、タブレットに目をやりながら問う。

「事故の件は?」

「再調査を進めています。……一点、気になる情報が出ました」

「何だ」

「まだ確証段階ではありません。ただ、車両の整備履歴と、当日の動きに不自然な点が複数」

私は息を殺した。
怜央の表情が、僅かに引き締まる。

「続けろ」

「はい。――ブレーキ系統に、外的な介入があった可能性が高いです」

「……外的な介入」

「故障ではなく、手を入れられた疑いです」

怜央の瞳が、鋭くなる。
医師の目ではない。
久遠家の人間の目だ。

「つまり、事故は……」

私の声が震えた。
御堂は私を一瞬だけ見てから、淡々と続けた。

「断定はできません。しかし、偶然で片づけるには要素が揃いすぎています」

「犯人の目星は?」

怜央の声は静かだが、空気が変わった。

御堂は一拍置いた。

「……情報の出所を辿ります。確実な証拠を固めてから、ご報告します」

怜央は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
だが、目の奥の光が、もう昨夜までのものではない。

私は思わず左手を握りしめた。
指輪が、きゅっと食い込む。
本物じゃないのに。
でも今は、外すことができなかった。
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