記憶を失くした御曹司と偽りの妻

婚約者、現る

久遠本家の屋敷に、夜が降りる。
廊下に灯る間接照明は柔らかいのに、私の胃のあたりだけが、きゅっと固くなっていた。

「……緊張する」

声に出してみても、軽くならない。
鏡の中の自分は、淡いネイビーのワンピースに、控えめなパール。髪もきちんとまとめて、笑顔の練習までしている。

妻らしく。
そう言われれば、たぶん正解に近い。

でも、正解に見せようとするほど、胸の奥が痛む。
だって、これは正解じゃない。

左手の薬指。
指輪は相変わらず、軽いのに重かった。

本物じゃないのに、外せない。
嘘を守るための、証拠品。
借金と引き換えに手に入れた、偽物の未来。

……私、何をしてるんだろう。

その問いを飲み込んだ瞬間。

「梨音」

背後から、落ち着いた声がした。
振り返ると、怜央が立っていた。

退院してからの彼は、日々たしかに回復して、事故前と同じくらい体力や歩行が戻ってきている。
でも、その戻ってきているが、私には怖い。

もしかしたら今夜、記憶も戻ってしまうの?
戻ってきたら――全部、終わる。

「……どう?」

私が尋ねると、怜央は迷いなく視線を彼女に落とした。
じっと、まっすぐ。見られるだけで、喉が熱くなる。

「似合ってる」

その一言が、胸に刺さってしまう。
似合っているのは服じゃなくて、妻役だと言われた気がして。

「ありがとう。……怜央は?ネクタイ、曲がってない?」

私が指を伸ばすと、怜央は自然に身体を寄せてくる。
そこが、いちばん怖い。
彼の距離の詰め方が、当たり前で。

当たり前にしちゃだめなのに……

「大丈夫。……それより、顔が硬い」

「硬くなるよ。あなたのご両親との会食だもの……。まるで面接前の気分」

「面接なら、俺が合格を出す」

平然と言って、怜央は私の手を取った。

「俺がいる。大丈夫だ」

掌の温度に、息が詰まる。優しくされるほど、嘘がつらくなる。
私は笑って頷くしかなかった。

「……うん。そうだね」

「行こう」

「……うん」

廊下を並んで歩く。
怜央の足取りは慎重だが、背筋はまっすぐで、ひとつひとつの動作に無駄がない。天才外科医の肩書が、身体に染みついているみたいだった。

「今日の会食、何をするんだっけ」

怜央がぽつりと言う。

「記憶のリハビリ、って……御堂さんが」

「リハビリか。……俺、何か思い出せるかな」

その言い方は、強がりでも弱音でもなくて、ただ怖いが混じっていた。
私は喉の奥がぎゅっとなる。

「思い出せなくても……大丈夫。焦らなくていい」

励ましながら、自分の胸が締めつけられる。
思い出してほしくない。
でも、そう思ってしまう自分が嫌い。

「梨音」

「な、なに?」

「梨音がいると、落ち着く」

その言葉が、嘘じゃないからこそ苦しい。
私は笑いで誤魔化すしかできない。

「それ、心拍数が安定してるってやつ?医学的に?」

「……そういうことにしておく」

怜央が小さく口元を緩める。
その笑いが、いつまでも続けばいいのに――そんな願いが、胸の奥で折れそうになった。

会食の会場は、本家の屋敷奥のダイニングだった。
長いテーブル。磨かれた銀器。静かなクラシック。料理の香りは上品で、容赦がない。

あの事故の夜以来会っていなかった怜央の両親がそろっていた。

当主で怜央の父親である久遠清貴は、温度のない微笑で私を見る。
隣の怜央の母親・久遠夫人は、優しいのに鋭い眼差しで、怜央の顔色を確かめた。
そして、少し離れた位置に、秘書の御堂慎也が立っている。空気を読み、何かが起きたら即座に動ける姿勢のまま。

私の背筋が伸びる。

「怜央」

清貴が低く呼ぶ。
名前だけで、場の空気が引き締まる。

「無理はするな」

父の声は命令に近い。
怜央は頷いて席につき、私の椅子を引いた。

「座って」

言い方が自然すぎて、私は小さく動揺する。

やめて。そんなふうに扱わないで……

夫人が柔らかく微笑む。

「梨音さん、今日はありがとうね。怜央が家で食事をするの、久しぶりで……」

「いえ、私こそ……お久しぶりです」

御堂が一歩前に出て、落ち着いた声で言った。

「本日は記憶のリハビリを兼ねています。怜央様が負担に感じない範囲で、昔の出来事や写真を見ながら会話を」

「……俺、面接を受けるみたいだな」

怜央がぽつりと呟くと、夫人がふっと笑う。

「面接じゃないわ。思い出しゲームよ、怜央」

「ゲームなら勝つ」

「その自信、昔から変わらないのね」

乾杯の音が静かに響き、会食が始まった。
料理の皿が運ばれ、香りが立つ。
けれど私の舌は、味を拾う余裕がない。

話題は、怜央の過去へと丁寧に誘導されていく。

「あなたが小さい頃、庭の池に落ちたこと、覚えてる?」

夫人が笑う。けれど、その笑いの奥に、思い出せますか?がある。

怜央は一瞬だけ眉を寄せた。
脳が空回りするみたいな間。

「……池」

「そう。あなた、びしょ濡れで、泣きもしないでね。悔しそうな顔だけしてた」

「……俺らしいな」

怜央は薄く笑って、グラスに指を滑らせた。
笑いながら、必死に手がかりを探しているのがわかる。

清貴が淡々と問う。

「学校はどうだ。どこまで覚えている」

「……中学、までは……いや、映像みたいなのがある。制服の……袖の感触」

怜央は自分の腕をさする。
その仕草が、痛々しい。

「高校は?」

「……わからない。頭の中に霧がある」

夫人がそっと声を落とす。

「大丈夫。霧は、いつか晴れるわ。焦らなくていい」

私は笑顔を作りながら、心の中で反芻する。
焦らなくていい――でも、焦るのは梨音の方だ。

記憶が戻ったら、私は……

御堂が、さりげなく一冊のアルバムを差し出した。

「怜央様。こちらを」

写真の端に、少年の怜央。白衣の父に似た凛々しい目。

「ほら、これ。初めてメスを握った日」

夫人の声が少しだけ明るくなる。

怜央は写真を見つめ、指で輪郭をなぞった。
その指先が、少し震える。

「……手が小さい」

「小さかったわよ。だけど、その目だけは今と同じ」

「……目……胸が、変な感じがする。知ってるのに、思い出せない」

怜央は目を閉じ、何かを探すみたいに息を吐いた。

「怜央、無理しなくていいよ」

私が言うと、怜央は視線を向けた。
その目が、優しすぎる。

「お前は、そう言う」

「え?」

「俺が無理してると、嫌なんだろ」

……違う。無理してるあなたを見るのが、怖いんじゃない。
記憶が戻る瞬間が、怖いんだ……
言えない。言えるわけがない。

「嫌っていうか……心配、なの」

私が精一杯の言葉を選ぶと、怜央は小さく頷いた。

「……じゃあ、少しだけ頑張る」

「頑張らなくていいって言ったのに」

「お前が心配する顔、見たくない」

その言葉に、私は一瞬黙る。
妻として言われる言葉が、胸を温めてしまうのが悔しい。

その時だった。

「失礼いたします」

ドアの向こうから、凛とした声。
空気の密度が変わる。音が、一段低くなる。

現れたのは、白いコートを羽織った女性だった。
長い髪。すっと通った鼻筋。薄い笑み。
上品な香りが、侵入者の宣言みたいに広がる。

私は、呼吸を忘れた。

誰?

招待していない女性。
なのに、彼女は当然のように、久遠家のダイニングに立っていた。

「沙羅さん……?」

夫人が声を落とす。
清貴は表情を変えない。御堂が、ほんのわずか足を前に出た。

「どういう用件だ。高嶺沙羅くん。君を招待した覚えはないが?」

清貴の声が冷たい。

沙羅は、にこりと笑って頭を下げた。

「ご無沙汰しております、久遠会長。急に申し訳ございません。ですが――どうしても、確かめたいことがありまして」

そう言って、沙羅は視線を滑らせた。
怜央へ。次に、私へ。
まるで、品物を値踏みするみたいに。

「怜央様。お加減はいかが?」

怜央は沙羅を見て、首を傾げた。

「……すみません。どこかで……お会いしましたか」

その反応が、私の背筋を冷やす。
彼は、彼女を覚えていない。

沙羅の微笑が、わずかに歪んだ。
すぐに整えられる。完璧な笑みへ。

「……やはり。記憶が」

沙羅は一歩、踏み込む。

「失礼。もしかして、こちらの方が梨音さん?」

夫人が息を飲む。空気が張り詰める。
私は口を開こうとして、声が出なかった。

なんで、私のことを知っているの?

代わりに、怜央が言った。

「そう、俺の妻だ」

断言。
迷いがない。信じて疑わない目。

沙羅の瞳が、鋭く光る。

「妻?」

その一語に、嘲りが混じった。

「……おかしいですね。久遠怜央は、私の婚約者です」

凍った。

うそ……
婚約者がいたなんて、聞いてない……

言葉が、皿の上に落ちて割れたみたいに、静かに響いた。

「婚約者……?」

怜央が呟く。
その瞬間、怜央の瞳が揺れた。揺れ方が、危うい。
私はわかってしまう。これは、混乱の前触れだ。

沙羅は、指先で自分の左手を掲げた。
そこには、細いリングが光っている。

「高嶺家と久遠家で正式に取り交わした、政略上の婚約です。覚えていないのなら――こちらをご覧になって」

やめて……

梨音の心の叫びは、音にならない。

沙羅の言葉は丁寧なのに、刃物だった。
怜央にではない。私に向けての刃。

「……知っているのよ。あなた、借金返済のために久遠家に雇われたのでしょう?」

沙羅の声が甘くなる。甘いほど、痛い。

「まさか、本気で怜央様の妻のつもりでここに?」

私の喉が乾く。
目の前の景色が、少しだけ遠のく。
逃げたい。けれど逃げたら、怜央の世界が崩れる。

夫人が、堪えきれないように言った。

「沙羅さん、今日は怜央の――」

「記憶のリハビリ、ですか?」

沙羅が被せる。
笑っているのに、目が笑っていない。

「なら、なおさら。嘘は良くありません。怜央様に妻がいるはずがないんですもの」

怜央が、私を見た。
いつもなら甘いのに、今は困惑が混じっている。

「梨音……?」

名前を呼ばれた瞬間、私の胸が痛くて息が止まる。
その声だけは、嘘じゃない気がしてしまう。

だめ、怜央。そんな目で見ないで……

沙羅が、最後の一押しをする。

「契約でしょう?期間限定の妻役。お金で買われた、偽物。でも、怜央様の記憶が戻ったら、あなたって不要よね?」

私の顔から血の気が引く。
誰もそれを口にしてはいけない言葉だった。
それを、沙羅は平然と――楽しそうに、言った。

「……契約?」

怜央の目が、真っ白になる。

怜央はゆっくり立ち上がろうとして、膝が揺れた。
手がこめかみに触れる。まるで頭蓋の中で、何かが暴れているみたいに。

「待て……待ってくれ……俺は」

息が荒くなる。

「妻……婚約者……事故……」

言葉が途切れ、視線が彷徨う。
断片が、火花みたいに頭の中で弾けている。
病院の白。雨の音。サイレン。金属が潰れる音。
そして――香水。沙羅の匂い。

怜央の喉が鳴った。

「……俺は、誰と……」

沙羅が囁くように言う。

「私です。怜央様。あなたは私のもの――婚約者です」

「……違う」

怜央の口から、かすれた否定が漏れる。
それが沙羅を一瞬だけ苛立たせ、すぐに甘い笑みに戻る。

「違う?では、なぜ皆さんは、梨音さんが妻だと強く言わないのかしら?」

「……う、っ」

怜央の顔色が変わる。
一瞬で、青白くなる。

「怜央!」

私が立ち上がった。

近づこうとした、その瞬間。
怜央の視線が私を捕まえた。

助けを求める目と、裏切られたみたいな目が、同時に宿っている。

「梨音……嘘なのか……?」

私の喉が鳴る。
違う、と言いたい。嘘だ、と言いたい。
でも――嘘じゃない部分があるのが、いちばん残酷だった。

嘘だよ。でも、嘘じゃないよ。
あなたを守りたかった。……お金も必要だった。
言えるわけない……

「……怜央、私は……」

声が割れる。
続きが出てこない。

清貴が低く言った。

「怜央、座れ。深呼吸しろ」

夫人も怜央へ近づこうとして、手を伸ばしかける。

「怜央、お願い、落ち着いて……」

御堂が既に怜央の背後へ回り、支える準備をしていた。

「怜央様、こちらへ。呼吸を整えてください」

怜央はそれらの声を聞いていない。
聞こえていないわけじゃない。
聞こえる音が多すぎて、整理できない。

怜央の唇が震えた。

「……梨音。俺は……お前の夫だろ……?」

その一言が、私の胸を裂く。

「……っ」

答えが、喉で詰まった瞬間。

怜央の身体が、ふっと力を失った。
膝が折れ、その場に崩れ落ちるように倒れる。

「怜央様!」

御堂が即座に支える。
夫人が悲鳴を上げ、使用人が動く音が連鎖する。

私は反射で怜央の上体を抱きとめた。
腕の中の重みが、現実すぎて怖い。

「怜央、しっかりして!ねえ、お願い……!」

怜央の額は冷たく、呼吸は浅い。
私の指先が震えながら、彼の頬を撫でる。

私のせいだ……
私が、嘘をついたから……

怜央の唇が動く。
かすれた声が、梨音の耳にだけ落ちた。

「……梨音……」

その名前だけを残して、怜央の意識は沈んだ。

「医師を!至急だ!」

清貴の声が響く。
御堂が指示を飛ばし、誰かが走っていく。

「救急バッグを。いつもの先生へ連絡を」

「はい!」

テーブルの上の料理が、手つかずのまま冷えていく。
さっきまでの家族の食卓が、いきなり救護の現場に変わってしまった。

私は怜央を抱えたまま、唇を噛む。
噛んだところで、どうにもならない。

……私が、壊した。

胸の奥で、声にならない声がした。

その時、沙羅が小さく息を吐いた。
まるで、狙い通りだと言うみたいに。

「……お騒がせしてしまいましたね」

夫人が振り向き、初めて怒りを露わにする。

「沙羅さん、出て行って」

沙羅は微笑んだまま、視線を私に向けた。
勝者の目。奪う者の目。

「妻役は、これで終わりです」

私は返せない。
返したら、今度こそ怜央の呼吸が止まってしまいそうで。

御堂が沙羅の前に立ち、低く告げた。

「――こちらへ」

沙羅は肩をすくめるようにして、ゆっくりと踵を返す。
去り際に、ふっと言った。

「怜央様が正気に戻ったら……誰が本物か、わかりますわ」

残った香りが、いつまでも消えない。

御堂が冷静に言う。

「怜央様を寝室へ運びます。梨音さん、手を離さないでください。怜央様はあなたの声に反応します」

その一言が、私を縛る。
妻としての役目。契約の役目。
どれも、今は怜央の命の前で言い訳にならない。

私は怜央の頬に触れた。
冷たい。
さっきまで笑っていた人の体温が、消えかけている。

「怜央……お願い、戻ってきて」

祈りが震える。

私の声が必要なら、私は……ここにいなきゃ。
でも、ここにいる資格は……

「……どうしたらいいの」

答えは、どこにもない。
ただ、怜央の呼吸の音だけが、闇の中で細く続いていた。
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