定時退社の主任には秘密がある

3話

 東海林叶という男は、誰が見ても完璧な人間だ。
「課長、頼まれてた資料できてます。あと、渡された既存のファイルに無駄があったので最適化しておきました」
 仕事は頼まれた事以上のことをこなし、周りへの気遣いも十分。この間なんて、上司と対立している別の上司の仲を取り持っていた。
「仕事は終わりました。帰らせていただきます」
 業務は次の日に残さない。鞄を持って颯爽とフロアから出ていく。柚亜の近くを通り過ぎる時、毎回男性向けのウッド系の香水が香る。
 柚亜が近くで見てきた彼は、おおよそそんな様子で欠点などは見つからない。誰が見ても模範的な良くできた会社員だ。柚亜は毎日、退勤する東海林を静かに目線で追っている。
「中村さん、ちょっといいですか?」
 東海林が持ってきたのはいくつかのプレゼンデータと、それに関する資料だった。
「いきなりプレゼン資料作れって言われてもイメージが湧かないと思うので、前回と前々回の資料を持ってきました」
「あ、ありがとうございます」
 資料の束を見た時、柚亜はちょっと身体を引いた。それくらいの圧を感じたのだ。
「前職は医療事務でしたよね、プレゼン資料の基礎的な作り方はわかりますか? まず前提のすり合わせからしなきゃいけないので」
「一応は。というか覚えてくださってたんですね、そんな一番最初の自己紹介」
 東海林は少しだけ気まずそうに頭を掻く。言いづらそうに口を開いた。
「中村さんを最初見た時、本当に入ってきてくれたってびっくりして」
「この会社紹介したの主任じゃないですか」
「懐かしいですね」
 しみじみと言いながら、東海林は手元の資料を開き、モニターを指差す。
「じゃあとりあえず表紙作って目次作ってページ構成考えましょうか。まずここのボタン押してもらって……」
「ここですか?」
 マウスで指したところは想定していたところと違ったらしく「そこじゃなくて」と言われてしまう。ポインタを右往左往させているとマウスを持つ手にひとまわり大きな手のひらが触れた。
「ちょっと失礼しますね。ここです、ここ押すと、自動で目次が作れるようになるので今度から使ってください」
 柚亜が身体を緊張で硬直させているとと東海林は自分の手の下に気がついたようで慌てて手を離す。
「す、すみません! セクハラですね……」
「いや大丈夫です。少しびっくりしただけで」
 柚亜は自分の脳裏に浮かんだ思考を端に押し出した。今は仕事だ。そう言い聞かせ、ゆっくりと瞬きをして切り替える。
「過去の構成を参考にしたいんですが」
「去年僕が担当したのがこれですね。先方は目先の売上より面白さを重視するので、この商品がどれだけ世間で話題になるかとかSNSの反応を引き合いに出したほうがいいです」
 渡された過去の資料を印刷したペラを捲る。
 東海林の作った資料は簡潔でわかりやすく、見ただけで仕事ができる側の人間の作ったものだとわかる。柚亜は無意識に奥歯を噛み締めていた。未経験がいきなりこのレベルになろうなんて驕ったことは言わない。だけど、助けがあるとはいえ去年までこれを見て、おそらくわかりやすかったであろう説明を聞いていた取引先を満足させられるだろうか。
「表情が固くなってますよ。そんなに気張らないでください」
 顔を覗き込まれる。東海林は優しく微笑んだ。
「僕がサポートしますから、絶対大丈夫です」
 これだけ仕事ができる人にそう言われると、不思議と大丈夫なように思えてくる。少しだけ安心して、柚亜は強張っていた肩の力を抜いた。
「とりあえず少しずつ進めましょう。幸い時間はまだありますから」
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