落とされる気なんてなかったのに

《第2話 俺様アイドルの落としゲーム開始》

 朝から胸がざわざわしていた。

 昨日――あの壁ドン事件。
「落ちるようにしてやる」と宣言してきた一ノ瀬玲央。

(あれ、絶対からかってるだけ……だよね?)

 そう何度も自分に言い聞かせながら事務所の廊下を歩く。

 でも。

 心臓がまだ、落ち着いてくれない。

「おはよー、七海!」

 控え室に入ると同時に、明るい声が飛んできた。
 昨日あんなことを言ってきた本人が、にっこり笑ってそこにいる。

「おはよう、ございます……」

「なんだよそのテンション」
 玲央はわざとらしく笑う。
「昨日、あんなにドキドキしてたのに?」

「っ……! し、してません!」

「はいはい。嘘下手だな」

 いつも通りの毒舌だ。
 だけど今日は“あざとさ”が明らかに増している気がする。

「ほら、これ。渡せよ」

 玲央が差し出したのは、今日の撮影スケジュール表。
 その手が、わざわざ私の手の甲に触れるくらい近づけられていて――

(え、なんでそんな近いの……?)

「……?」

「手ぇ震えてんぞ。かわいー」

「かわいくない!!」

「声、でかい」

 軽く笑われて、耳まで熱くなった。

***

 撮影のため移動したスタジオでは、
 スタッフさんたちが慌ただしく準備していた。

「一ノ瀬くん、立ち位置確認お願いしまーす!」

「はーい!」

 玲央がステージに向かう前、ふいに振り返って私を呼ぶ。

「七海、これ落ちそうだから持っとけ」

「え? あ、はい……!」

 彼の上着だ。

(なんで私に……?)

 普通ならスタッフに預けるはずなのに。

「……落としゲーム」
(まさか、その一環……?)

 そんなこと考えていたら――。

「……七海」

「え?」

 ステージに向かいかけていた玲央が戻ってきて、
 私の髪の横にそっと手を伸ばした。

(な、なに!?)

「ここ」

 玲央の指先が、私のこめかみ近くに触れた。
 髪が一束、乱れていたらしい。

「外は寒かったろ? 髪、静電気で立ってた」

「っ……!」

「……こういうとこ、気ぃつけとけよ」

 触れた指が離れた瞬間、
 その距離の近さに呼吸が乱れそうになる。

(なに今の……!?
 絶対、わざとでしょ……!!)

 私が固まっていると、玲央はニヤッと笑い、
「じゃ、撮影行ってくるわ」と軽く手を振ってステージへ向かった。

 その背中を見送りながら、私は胸を押さえる。

(……落とす気満々じゃん……)

***

 撮影が始まると、玲央は瞬時に“王子モード”に変身した。

『君が笑ってくれるなら、俺は何度でもここに戻ってくるよ』

 柔らかい声と表情に、スタッフの女性たちが一斉に小さく悲鳴をあげる。

『そんな顔すんなよ。守りたいと思わせんな』

『俺がいんだろ? なぁ、こっち向けって』

 甘すぎて耳が溶けそうなセリフが続く。

(……すご。こんな甘い言葉、恥ずかしげもなく言えるんだ……)

 そう思っていたら、
 玲央の視線がふと、ステージ袖の私のほうに向く。

 まっすぐに。

(……え?)

 ほんの一瞬のこと。
 でもそれは、明らかに“わざと”だと直感した。

(こ、これも……ゲームの一部!?)

 心臓が跳ね続けている。

***

「……七海」

「っ……はい!」

 撮影を終え、控え室に戻ってきた玲央が、
 わざわざ近くまで歩いてきて、小さな声で言う。

「さっきの、見てた?」

「え、その……見てましたけど……」

「どうだった?」

「ど、どうって……」

「俺の甘いセリフ」

「~~っ!! べつに!!」

「なんだよその顔。
 なに、照れてんの?」

「照れてない!!」

「じゃあ見せろよ。顔」

 顎を軽くつままれ、上を向かされそうになる。

「ちょっ、ちょっと!? いきなり触らないで!」

「触ったくらいで騒ぐなよ。
 ……ほら、熱いじゃん」

「っ!!」

「なに、撮影見てドキッとした?」

「しっ……してない!!」

「ふーん。
 ……じゃあ、してるように見える俺の勘、当たってんだな」

(ああもう!! なんなのこの人……!!)

 完全にからかわれてるのに、
 心臓だけは勝手に反応してしまう。

「それと――」

 玲央は突然私の耳元に顔を寄せ、
 低い声でささやいた。

「お前は俺の“落としゲーム”、避けられないからな」

「!!?」

「楽しみにしとけよ。明日も」

 そう言って、玲央は満足そうに笑い、
 そのまま控え室を出ていった。

(……避けられないって……なにそれ……!!)

 胸の中で叫んでも、誰にも届かない。

 ただひとつだけ、はっきりしていたこと。

 ――一ノ瀬玲央の“本気の遊び”が、完全に始まった。

撮影が終わったあと、控え室にはほんのり甘い香りが漂っていた。
 差し入れのパンケーキ。
 ふわふわの生地の上にホイップとベリーが乗っていて、
 見ているだけで幸せになりそう。

「七海、こっち。座れよ」

 玲央がソファをぽんぽん叩いてくる。

「わ、私は別にここで大丈夫です……!」

「いいから来いって。
 ほら、そんな遠くにいんの、なんかムカつく」

(ムカつく要素どこ……!?)

「お前、俺に近づくのそんなに嫌?」

「嫌じゃ……なくて……ただ、近いし……」

「近いの嫌なの?」

「っ……いや、それは……」

「じゃあ問題ねぇじゃん。ほら」

 玲央は当たり前みたいに私の腕を軽く引いて、隣に座らせた。
 距離、ゼロに等しい。

(ち、近すぎる……! 腕が触れそう……!)

「これ、食べんの?」

「えっ?」

「パンケーキ。
 甘いの好きなんだろ?」

「ど、どうして……」

「昨日、差し入れのクッキーじっと見てただろ」

(見られてた……!?)

「べつに……甘いもの好きなのは普通じゃ……」

「じゃ、食えよ」

 玲央はフォークをとって、
 無造作にパンケーキを一口ちぎって私の口の前に持ってくる。

「ほら」

「えっ……!?」

「食べろって言ってんの」

「い、いらないっ……! 自分で食べれる……!」

「七海、俺の手、無視すんな。
 俺、“無視”嫌い」

(ああもう、この人は……!!)

「ほら。口、開けろ」

「む、無理……!」

「なら俺が食わせる」

「っ!?!? ちょっ、ちょっと!!」

 玲央は、パンケーキを私の唇にそっとあてる。
 甘い匂いがふわりと漂ってきて、心臓が跳ねる。

「……ほら。食えよ。
 これくらい普通だろ? 相手は俺だぞ」

(普通じゃないよ……!!)

 抵抗する隙もなく、
 自然と口が開いてしまう。

「あ……」

 口に入った瞬間、甘さが広がる。

「……甘い」

「だろ。
 ――で、俺のほうが甘い?」

「は!? な、なんで比較対象が……!」

「知らねーよ。
 勝手に思っただけ」

 玲央は面白そうに笑いながら、もう一口食べさせようとする。

「自分で食べます!!」

「だめ。
 俺が食わせる」

「なんで……!」

「昨日言っただろ?
 ――落とすって」

「っ……!」

 パンケーキの甘さより、
 玲央の声のほうが甘くて毒が強い。

***

「そうだ。七海」

「……な、なに」

「これ、つけてやる」

 玲央は小さなヘアピンを取り出し、私の髪にそっと触れる。

「え、なにこれ……」

「照明で髪が顔にかかると危ねぇから。
 ……それに」

「それに?」

「顔、ちゃんと見えねぇと嫌だから」

「っ……っ!?」

 髪に触れる指先がやけに優しくて、
 呼吸が苦しくなる。

「いい子だな、七海って」

「い……よくない……」

「よくなくても、いい子だよ」

「……っ」

 まっすぐ見つめられると、
 逃げ出したくなるのに、逃げられない。

(こんなの……反則……)

 
 ふいに、廊下の方から他のスタッフの話し声が聞こえてきた。

『あの新しい子、可愛いよね』『玲央くんと相性良さそうじゃない?』

「……」

 玲央の表情が、一瞬だけ陰った。

「……は?」

 低く呟くような声。

「誰が……相性良さそうだって?」

「え、玲央くん……?」

 玲央は私と視線が合うと、
 なぜか不機嫌そうに眉を寄せた。

「……なんかムカつく」

「え!? なんで!?」

「知らね。
 でもムカついた。以上」

(理由になってない……!)

「七海は?
 ああいうの、どう思ったわけ?」

「ど、どうって……別に……」

「別に、ね」

 玲央はすっと私の顎に指を添え、
 顔を近づけてくる。

(ま、また近い……!!)

「変なヤツに見られんの、嫌なんだけど」

「へ……?」

「七海は俺が落とす。
 他の男がどうとか、いらねぇだろ」

「な、なんでそんな偉そう……!」

「俺様だから?」

「っ……!」

「ほら。顔、赤くなってる」

「なってない!!」

「なってんだよ」

 玲央は満足そうに微笑んだ。

「明日も仕事あるから、ちゃんと寝ろよ。
 ……夢に俺出たらどうしよっかな」

「で、出ません!!」

「そういうこと言うと出るんだよ、俺」

「出ない!!」

「かわいー」

 玲央は軽く頭をぽんと撫でて、
 私を置いて先に控え室から出ていった。

 残された私は、
 心臓が壊れそうなのを押さえながら深呼吸する。

(……落としゲームって、こんなに心臓に悪いの?)

(それに……あの一瞬見せた顔……なんだろ)

 胸がずっとざわざわしていた。
< 3 / 43 >

この作品をシェア

pagetop