私の中のもう1人の私が好きな人
プロローグ
昭和20年、初夏ーー
見慣れた景色の中を悲鳴を上げた人々が逃げ惑う。空から聞こえる機械音が焦燥と恐怖感を煽る。
友人の背を追いかけるように必死に走っていたが、私はふと足を止めた。
逃げる意味はあるのだろうかーー
そんな疑問が頭に浮かんだ。
もう帰る家もない。もう、誰もいない。
毎日毎日毎日、死ぬ物狂いで朝から晩まで働いて、絶対にこの戦争に勝つのだと信じてきた。
でも今この瞬間、その全てが無意味に思えてしまった。戦争に勝っても負けてもーー誰も帰って来やしない。
遠くで友人が「文ちゃん‼︎」と叫ぶ声が雑音に混じり聞こえる。まるで他人事のようにそう思った。
家族も彼も、大切人達は皆死んでしまった。
私は何処へ帰ればいいのだろう。
また空から光の雨が降る。
「もう一度、皆でぼたもち食べたかったな」
そう呟いた瞬間、私はその光に焼かれた。
令和7年、梅雨ーー
先週高校では珍しく転入生がやってきた。
都会からやって来た彼は鴉のように真っ黒な艶やかな髪と焦茶の瞳の青年だった。
初対面の筈なのに、何故か酷く懐かしく感じる。
ふと脳裏に浮かんだのは文子の待ち人だった。プロポーズをされたのにその返事は保留にしたまま帰って来なかったずるい人に瓜二つだ。
五月女琴音16歳、高校2年生。
物心ついた頃には既に私の中には文子がいた。いや文子の記憶があるという方が正しいだろう。
たまに断片的なリアルな夢を見る。それは昭和初期から戦争の真っ只中にかけての時代だ。
夢の中の私は文子という16歳の少女だ。ただ彼女が何処の誰かは分からない。名字も分からないし、街並みが変わり過ぎて住んでいた家の場所も分からない。
分かっている事は文子には幼馴染の青年がいて、その彼に淡い恋心を抱いている事くらいだろうか。
今は令和で、もう100年近く昔の話だが、年頃の恋する乙女は何時の時代も変わらないなと漠然と思う。
そんな文子の好きな幼馴染に、今日転校して来た彼はそっくりで驚いてしまった。
梅雨は一体何処へ行ってしまったのか、年々そんな風に感じる中で今年も5月から初夏の陽気が続いていた。
毎日少し汗ばむ中、ようやく6月になり衣替えが出来ると喜んだ。
琴音は軽快な足取りで制服の夏服に着替えて玄関の扉を開ける。
朝特有の爽やかで涼しい空気と日差しを浴びて背伸びをした。
「琴ちゃん、おはよう」
「蓮くん、おはよう」
タイミングよく声を掛けてきた蓮に笑顔で少し語尾のイントネーションが上がり気味で挨拶を返す。昔からの癖だ。
「今日から夏服にしたんだ?」
「うん、もう暑いし。蓮くんも?」
同じく6月に入り早々に衣替えをした蓮をじっくりと観察するように見ながら琴音は言った。
「うん。今日の天気予報で最高気温25°だって言ってたから、暑くなるみたいだし」
「さすが蓮くん、抜かりないねー」
中里蓮、家が隣り同士で同い年の幼馴染。スラリとした体型に整った目鼻立ち、短い癖っ毛の茶髪に透明感のある薄い茶色の瞳。
クールな印象だが、友人から聞いた話では女子からかなりモテるらしい。
「当然だよ」
いつも褒めても喜ぶ訳でもなく淡々と返事をするだけ。慣れていない人だと少し冷たく感じるかも知れないが、物心ついた時からずっと一緒の私はそうじゃないと知っている。
「琴ちゃん、荷物持つよ」
「ありがとう」
蓮は当然のように琴音の右手から手提げを取ると歩き出した。その後を少し遅れて追いかける。
隣を歩く蓮を盗み見る。本当はもっと早く歩けるのに、昔からずっと歩調を合わせてくれている。
やっぱり優しいなとしみじみ思った。