雨の日に、後輩と

第4話 キスと

 浴室の外に畳んで用意してあったのは、生地が厚めのグレーのスウェットパーカーに黒のジャージで、体の線が出ないのが凛にはありがたかった。
 洗濯機がまわる音を聞きながら、部屋へと続くドアに手をかけてしばらく考えていたら、内側からガチャッと開けられて目が合った。

「こちらにどうぞ。コーヒー飲みます?」
「まさか、すごいこだわりコーヒーが出てきたりしませんか」

 この上また出来る男ぶりを見せつけてくる気かと構えてしまったが、返答はそっけない。

「べつに『丁寧な暮らし』をしているわけでもないので、インスタントもありますけど。今日はお客さんがいるのでドリップコーヒーくらい淹れようかと思っていましたが」
「そんな」

 気を遣わなくても、と言おうとしたが、大きな掌が凛の唇の前を触れない距離から塞いだ。

「俺がしたいからすることを、何も考えず簡単に拒否しないで欲しいんですが。インスタントもドリップも大した違いがありません。それとも、佐伯さんは何か根拠があって拒否してますか」

 そこで掌が遠のいていく。
 迫力に気圧されながら「根拠はないですね」と素直に認めた。

「それでは座って待っていてください。コーヒー淹れる程度で恩に着せようとか、感謝されようなんて思ってませんから。自分も飲みたいですし」

「何もかも……感謝してます。困ったな。どうお返しすれば良いんだろうこれ」

 大きすぎるパーカーの袖に埋もれた手に視線を落として呟くと、頭上でくすりと笑われてしまう。

「佐伯さんって、思ったこと声に出ちゃうんですね。そんなに困るほど借りに感じているなら、返してもらっても良いですか」
「良いですよ、何?」
「キス」

 笑った形の唇が近づいてきて、なんだろうと思っているうちに唇に重ねられていた。
 ものすごく近い位置に、伏せられた長い睫毛が見えて、すぐに離れて行った。

「……えっ」

 我に返って口元に手を当てると、「拭われたら凹むので後ろ向いてからにしてください」と軽く肩を押されて回れ右させられた。

 人を駄目にする系のビーズクッションや、黒光りするちゃぶ台、大きなテレビが壁際に置かれた程度の、片付いた部屋に足を踏み入れてから考える。隅にはしごがあり、見上げるとロフトになっていた。ベッドはないので寝るのは上なのかな、なんてしばらく関係ないことを考えてから「ええっ」ともう一度びっくりしてしまった。

 キスを……してしまった。

 * * *

 洗濯と乾燥が終わるのを待つ間、二人でとりとめなく話していた。
 会社の知り合いだけに、共通の話題は社内の噂話くらいかなと思っていたが、意外にも本や海外ドラマの趣味が合うようで仕事の話はほとんどしなかった。
 出会ったタイミングが、バーベキューに向けた朝の待ち合わせ時間だっただけに、話しているうちに昼になった。ごく自然に家主の時任がパスタを茹でて、レトルトのボロネーゼソースに粉チーズをたくさん振りかけて食べた。凛はフォークだけで食べていたが、時任はスプーンとフォークを使っており、仕草が嫌味なく優雅に映えていた。

「服が乾いたら……」

 食事の後に、時任が意を決したように切り出してきた。

「外に、飲みに出ませんか。オープンが十七時なのでまだ時間があるんですけど、料理の美味しい店があって。この近くです」

 どこか躊躇いがあるようにも見えたが、この時間に名残惜しさを感じていたのは凛も同じで、提案に乗ることにした。

「良いですね! 行きたいです!」

(そこの支払いを持たせてもらったら、今日の埋め合わせくらいにはなるかも?)

 誘いに乗る言い訳も、抜かりなく用意して。
 食後のコーヒーの入った飾り気ないマグカップを両手で包み込みながら、時任は笑みをこぼした。

「昼はごめんなさい、うちにたいしたものがなかったから」

 申し訳なさそうに付け足されて、凛はどうぞと譲られていた大型ビーズクッションから勢いこんで身を乗り出した。

「いえいえ、十分でしたよ、パスタ美味しかったです。このコーヒーも美味しいですし。なんか家みたいに寛いじゃって……」
「また来ます?」

 目が合うと、滲むように淡く微笑まれる。見ているだけで、胸がしめつけられる感覚があった。

「……そういうことを言ってもらえる人生、憧れます」
「ん?」
「いえ、私のようにモテようとしなかったり、仕事でも特に可愛げがないと『愛され』って無縁なので。時任さんのような人に、プライベートでそういうこと言われる人生良いなあって」
「……うん?」

 時任が困ったような微笑で首を傾げていて、ハッと我に返った。

「すみません、突然。私はもうその辺諦めついているつもりだったんですけど、時任さんにこれからそれを言われる誰かが、羨ましいなって、思ってしまって」
「うん。何を言っているのかよくわからない」
「わからない……」

 それは、私の妄想だから、そうですね。
 言い訳を重ねるべきか悩んでいる間に、時任が視線を流してきた。

「俺、いま体良く振られたのかな? それともまだ望みがあるんですか」
「振られた? 望み?」

 反復してから、口をつぐむ。
 自分はそれほど察しが悪いわけではない「つもり」なので、反応としてはやや鈍くなったが、ここにきてようやく聞かれた内容くらいは理解した。

「私……こう……恋愛経験なるものがろくになくてですね……。いまの、告白なんですか」

 震えそうになりながら聞いてしまう。
 時任はしれっとした表情で「はい」と答えてから、立て板に水の如く続けた。

「わかりにくかったみたいなのでストレートに言いますけど、俺は佐伯さんのことが好きです。結構前からですね。眼中に無いみたいだったので、まずは知り合いになるのが目標でしたが。いきなり、休日に、自分の部屋で湯上りで俺の服着て美味しそうにご飯食べていたら言いますよ。むしろ今言わないでどうする、って」

 状況を説明されると、説得力がある。

「確かに、突発的な偶然で疑似的なシチュエーションとはいえ、ここだけ取り出してみるとかなり私たちの関係が進展した状態ですよね。キスも……」

 言いかけて、口をつぐむ。

(キス、してるし。いや、さっきのはなんだったんだろうって思っていたけど、その後普通だったから流しちゃっていて……。流すところじゃないのはわかっていたけど話題にできなくて……!!)

 無意識に、袖から少しだけ出た指で、唇をなぞる。
 時任の視線を感じた。
 目が合うと、こちらの気まずさを吹き飛ばすように明るくにっこりと笑われた。

「あんまり言われたくなかったらごめんなさい。今の、かなりあざと可愛かったです」
「あざと」

 それこそ私とは無縁では? と反論したかったが、時任は言うだけ言ってあぐらをかいた姿勢のままちゃぶ台に額をぶつけるように突っ伏してしまった。

「ちょっと今目に焼き付けているんで。可愛かったな~……」
「ええええええ、そういうの、恥ずかしいというか、結構ひいちゃうんで、やめてください!」
「いやいや。心の中は自由ですよ。この後は許可がない限りは指一本触れませんけど、頭の中で何考えても許しください」
「ちょっと待ってください、そ、それは……!」

 さらに身を乗り出したら、ぶかぶかのスウェト生地がマグカップをひっかけてしまった。こぼす、と肩をびくつかせて固まってしまったが、ひょいっと伸びてきた時任の手がマグカップをとらえていた。大き目のカップだったのに、それを包み込むような指の長さに、どきりと胸がはねた。

「慌てなくて大丈夫ですよ。さすがに今日の今日でどうにかしようなんて考えていません。欲を言えば明日の日曜日も会って欲しいなとか、佐伯さんの来週の予定はどうなのかななんて考えていますけど。俺は平日もいけます」

 ちゃぶ台すれすれの位置から見上げられて、言葉に詰まる。
 ややして、絞り出すように言った。

「明日の日曜日は。特に予定はありません」
「あ。待ってください。今それ聞くべきじゃなかった」
「どういう意味です?」

 なんだろうと思ったら、苦笑を滲ませた時任が何かを観念したかのように白状した。

「帰してから、『家に無事につきました?』なんて連絡がてら聞くべきでした。今聞いてしまうと……、帰したくなくなります」

 いや、でも私は大人なので。
 帰さないと言われても帰るときは帰ります。
 言うべき言葉は頭の中にあったし、言おうと思えば言えそうだったのに、どうしても喉から出てこなかった。
 あまりにもこの家で過ごしているいまこのときが居心地が良すぎたせいだ。
 帰りたくないと、もう、思ってしまっている。

(帰らないとしたら……どうする?)

 時任が、待っている。
 思い切るには少し心が弱すぎて、結論を先延ばしに、逃げた。

「その……、お酒を飲んでもっとゆっくり話してみましょう。それからでも遅くないです」
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