「おまけ令嬢」アイリス・クロフォードは、人生をやり直す

十一章 婚約破棄裁判


 私とドミニクの前に立ったセリーヌは、まずドミニクに視線を向けた。
「ドミニク公爵令息、裁判の簡略化の為、これよりドミニク氏と呼ばせて頂きます。裁判が始まるにあたり、申し開きはありますか?」
「……」
 ドミニクが無言を貫いていると、カスティル公爵の声がダンスホールに響く。
「ドミニク!」
 ドミニクは、私にしか聞こえないくらいの小さな溜め息をついた。
「アイリス・クロフォードと婚約してからの5年間、僕は月に一度クロフォード邸を訪れ、茶会の席を設けていました。そして、それを一度も欠かしたことはありません。僕は、自分が婚約者としての義務を果たしていたと考えます。それから、先日の談話室の件ですが、セーラ・アングラードと抱き合っていたというのは全くの誤解です。転びそうになったセーラを抱きとめただけで、事故のようなものだったのです」
 ドミニクの言葉に軽く頷いたセリーヌは、今度は私に視線を移した。
「それではアイリス伯爵令嬢。ここからはアイリス嬢と呼ばせて頂きます。ドミニク氏の今の発言に対し、あなたの言い分はありますか?」
「ドミニク様が、月に一度、茶会のためにクロフォード邸を訪れていたのは事実です。ですが、ドミニク様は私を待つことなく一人でお茶を飲み、私たちの間に会話らしい会話はありませんでした。それに……、婚約してからただの一度も、私はドミニク様から贈り物を頂いたことがありません」
 私の発言に、ダンスホールにいる生徒たちの間でざわめきが起こる。
「……それは、5年間一度もということですか?」
「はい。5年の婚約期間中一度も、贈り物も、手紙を貰ったことすらありません」
「えっ?」
「はっ!?」
 セリーヌの質問に対する私の答えに、小さな叫び声を漏らす女生徒たち。
「彼が果たしていた婚約者としての義務は、月に一度クロフォード邸を訪れ、数時間、私と向かい合っていたことだけです」
 ざわめきは後方の父兄席まで伝わっていき、こんな声が私の耳に届いた。
「公子がそんな方だったなんて……」
「見た目通りの冷たい方だったのね」
 私に聞こえたのだから、ドミニクにも聞こえているだろう。
「ドミニク氏。アイリス嬢が話したことは事実ですか?」
「くっ……」
 セリーヌの問いかけに、苦悶の声を漏らすドミニク。
 それから、何かを思い出したように顔を上げた。
「……いや、あります! 僕は先日、アイリスに黄色い薔薇を贈りました」
「黄色い薔薇とは、ダンスパーティーのパートナーに渡すあれのことですか?」
「そうです」
「……あれは、果たして贈り物といえるのかしら?」
 独り言のように呟いたセリーヌは、小さく息を吐き話を続ける。
「まあ、いいでしょう。それが贈り物だとして、あなたがアイリス嬢に贈り物をしたのは、その一度きりという事で間違いはないですか?」
「はい、事実です。しかし、先程アイリスが述べた、一度も贈り物を貰っていないという発言は虚偽になります」
「……わかりました。王子殿下、ここで証人を呼び尋問をはじめたいと思います。よろしいでしょうか?」
「うん、はじめ給え。証人は中へ」
 椅子から立ち上がったアレクサンドル王子が合図をすると、ダンスホールの扉が開き、緊張した面持ちの二人の令嬢が姿を現した。
 それは昨日の騒動の折、最初に談話室に駆けつけた二人の女生徒。
 ダンスホールの中央に向かって歩いてきた二人は、セリーヌを挟んで私とドミニクの向かい側に立った。

「まず、お名前を教えて頂けますか?」
「シュリンプトン男爵家次女のモニカ・シュリンプトンと申します」
「同じく、ロッセリーニ男爵家長女のミレーヌ・ロッセリーニです」
 セリーヌに促され、自己紹介をする二人の令嬢。
 セリーヌは質問を続けた。
「昨日の学園祭初日、お二人は、談話室で何を目撃しましたか?」
「私たちは、抱き合うドミニク様とセーラ様のお姿をこの目で見ました」
 ドミニクが、焦ったようにモニカ・シュリンプトンの発言を否定する。
「僕とセーラは抱き合ってなどいない!」
「静粛に! 質問された者以外は発言を控えてください。では、モニカ嬢、ミレーヌ嬢、その時どう思われましたか?」
「とても驚きました。学園内であんな事をするなんて、破廉恥だと思いました」
「私も同じです。とても破廉恥で……、見ていられませんでした」
「ドミニク氏とセーラ・アングラード侯爵令嬢が、談話室に二人きりでいたことに間違いはありませんか?」
「間違いありません。談話室のドアを開けたアイリス様が叫ばれて、近くにいた私達が中を覗くと、お二人が抱き合っていたのです。あっ、だけど、お二人が抱き合っていたことには驚きましたが、談話室に二人きりでいたことには驚きませんでした。私たちは、つい最近までドミニク様とセーラ様が婚約なさっていると思っていましたから」
「私たちだけではありません。学園の殆どの生徒が、お二人を婚約者同士だと認識していました。だってお二人は、どんな時も一緒にいたのですから。ですから、ドミニク様の本当の婚約者が、新入生のアイリス・クロフォード伯爵令嬢だと知った時は本当に驚きました。ドミニク様とアイリス様が親しくされているのを、一度も見たことがありませんでしたから」
「お二人が交流する姿を、見たことがある生徒は一人もいなかったと思います。いつもセーラ様と一緒にいるドミニク様が、他の令嬢と会っていたらそれだけで噂になりますから」
 少し興奮気味なモニカとミレーヌは、そこまで話すと満足したように息を吐いた。
「モニカ嬢、ミレーヌ嬢、ありがとうございました。ではドミニク氏、これに対して何か申し開きはありますか?」
「僕とセーラが、学園内で行動を共にしていたことは事実です。ですが、それは幼馴染のセーラが、人見知りで友達がいないからと僕の側を離れようとしなかったからです。それに、父にもアングラード侯爵にも、セーラの面倒を見るようきつく言われていました。僕が自ら望んだ事ではありません」
「婚約者であるアイリス嬢と、学園内での交流が皆無であったとの証言がありますが、これについてはどうお考えですか?」
「それは……。そもそも、アイリスの方が身分が低いのです。彼女の方から挨拶や機嫌伺いに来るのが筋でしょう」
 ドミニクの発言に、ダンスホールが再びざわめきに包まれる。
「今の聞きました?」
「最低ね!」
 ドミニクは、女生徒たちから最低呼ばわりされるまでになっていた。
「それでは、アイリス嬢の意見も伺いましょう。アイリス嬢、今のドミニク氏の発言に対するあなたの考えを聞かせて頂けますか?」
「私は……。学園に入学してから、何度かドミニク様のところへ挨拶に伺おうとしました。ドミニク様の仰った通り、それが私たちの筋だからです。だけど、声をかけることはできませんでした。ドミニク様の隣に、いつもセーラ様のお姿があったからです。お二人は思い合っているのだと、私はそう思いました。私こそが、お二人を引き裂く邪魔者なのだと。だから、茶会の折にドミニク様に尋ねたのです。好きな人はいないのかと。ドミニク様が打ち明けてくれたら身を引こうと、そう考えていました。けれどもドミニク様は、結局打ち明けては下さらなかったのです」
「まぁ!」
「なんて健気なのでしょう!」
 後方の父兄席から、ご婦人のため息と共にそんな声が聞こえてきた。
 それからセリーヌが、ダンスホールの扉に視線を移す。
「それではここで、次の証人への尋問をはじめたいと思います。証人は前へ」

 新たな証人として現れたのは、セーラ・アングラードだった。おまけにアングラード侯爵までが、さも当然という顔をしてセーラの隣に立っている。
 そしてセリーヌは、そんな侯爵を無視して尋問を始めた。
「お名前を教えて頂けますか?」
「セーラ・アングラードですわ」
「それでは、セーラ・アングラード侯爵令嬢の尋問を始めます。例によってセーラ嬢と呼ばせて頂きますね。セーラ嬢、学園祭初日である昨日、談話室でドミニク氏と抱き合っていたのは事実ですか?」
「はい、事実です」
「セーラ! 嘘を言うな!」
 何の躊躇いもなくそう答えたセーラに、ドミニクが声を荒げる。
 そんなドミニクに負けじと、セーラはこう言い返した。
「嘘ではありません! 私はドミニク様の幼馴染で、婚約者筆頭候補でした。私とドミニク様は、将来を約束する仲だったのです!」
 セーラが話し終えると同時に、アングラード侯爵が口を挟む。
「我が娘セーラとドミニク君は婚約する予定でした。それをクロフォード伯爵家が、何か汚い手を使って妨害し、そこにいるセーラの足元にも及ばない小娘と婚約させたのです」
「それではドミニク氏、これについて……」
 セリーヌの尋問を遮り、アングラード侯爵は言葉を続けた。
「もういいではないか。アイリス・クロフォードは婚約破棄を望んでいる。セーラとドミニク君は想い合っている。どうすべきか明白ではないか。これ以上議論することに何の意味があるのだ。のうセーラ?」
「はい、お父様。私とドミニク様は愛し合っています。そして、それを学園中のみんなが知っています。学園中の生徒が、私たちの愛の証人なのです」
 黄瑪瑙の瞳を輝かせ、自信満々に宣言するセーラ。
 そんなセーラを前に、ドミニクは疲れ果てたように首を項垂れた。あまりに無邪気なセーラの様子に、抵抗する気力も尽きたようだ。

「それでは、最後に当事者二人の言い分を聞きましょう。ドミニク氏、話したいことがあれば話してください」
 最後の力を振り絞るように、頭を上げたドミニクが答える。
「……確かに、僕はアイリスに対して不誠実でした。しかし、婚約破棄のためにこのような騒ぎを起こし、関係のないものまで巻き込むほどのことをしたとは思っていません」
「わかりました。それではアイリス嬢、最後に言いたいことはありますか?」
「私は……、出会った時からある時まで、ドミニク様のことが本当に好きでした。私はただ、ドミニク様ともっと語り合いたかった。他愛のない話をして笑ったり、太陽の下を並んで歩きたかった。贈り物なんてなくてよかった。名前を呼んで笑いかけてくれる。それだけでよかったんです。だけど、それは叶わなかった。これからも叶うことはないでしょう。だから私は、婚約破棄を希望します」
 ドミニクが、今日初めて私の方に視線を向けた。
 だけど、私はドミニクを見なかった。
 真っ直ぐに前だけを見つめていた。
 だから、ドミニクがどんな顔をしていたのか私は知らない。
「僕は……」
 ドミニクが、絞り出すように掠れた声を出す。
「ドミニク!」
 そんなドミニクを見て、来賓席のカスティル公爵が叫んだ。
「僕は……!」
「ドミニク! やめるんだ!」
 立ち上がるカスティル公爵。
 それは、断末魔のような叫びだった。
「ドミニク!」
「僕は、婚約破棄を受け入れます」

 セリーヌが、アレクサンドル王子に体を向ける。
「これで、セリーヌ・クロフォードの尋問を終了します。後は王子殿下の采配にお任せ致します」
「うん。もちろん正式な手続きは踏まねばならないが、ドミニク・カスティルとアイリス・クロフォードの婚約破棄を、第二王子アレクサンドルの名の下、ここに認めよう。このダンスホールにいる皆が証人だ」
 王子殿下の宣言に、ダンスホールにいる人々から溢れんばかりの拍手が起きた。
 その時、
「それでしたら……!」
 ここぞとばかりに身を乗り出すアングラード侯爵。
「いい機会ですので、我が娘セーラとドミニク・カスティル公爵令息の婚約も認めていただきたい」
「いいだろう。後で正式な書類を提出してもらうが、ドミニク・カスティルとセーラ・アングラードの新たな婚約を認めよう」
 王子殿下の返答を聞き、アングラード侯爵が満足気に頬を上気させる。
 その隣に立つセーラは、自分がこの世で一番幸せだと云わんばかりの、恍惚の表情を浮かべていた。

 その時だった。
「宜しいでしょうか?」
 来賓席にいる父が、軽く右手を上げる。
 王子殿下がそれに答えた。
「何だ、クロフォード伯爵。私の采配に文句でもあるのか?」
「いいえ、滅相もございません。ただ、娘の婚約破棄に当たり、解決しなければならない重要な問題があるのです」
 青ざめた顔をして、肩を震わせているカスティル公爵夫妻。
 父はそんな公爵夫妻に視線を向けた。
「我が娘アイリスと公子の婚約が正式に破棄され場合、クロフォード家が肩代わりしたカスティル家の借金はどうなるのでしょうね? カスティル公爵」
「しゃっ、借金!?」
 その瞬間、真っ先に叫んだのはアングラード侯爵だった。
 騒然となる周囲にはお構いなしに、父は話を続ける。
「クロフォード家がカスティル家の借金を肩代わりしたのは、アイリスとドミニク君が婚約し、近い将来、アイリスが公爵家の一員になるという前提があったからです。二人の婚約が破棄されるなら、うちが借金を肩代わりする謂れはない。しめて50億ゴールド、きっちり返済してもらいましょうか、カスティル公爵。それとも、新たに姻戚となるアングラード侯爵家が支払うということでよろしいかな?」
「ごごご、50億ゴールド!?」
 顔を赤黒くしたアングラード侯爵が、目をひん剥きながら必死の形相で叫んだ。
「無効だ! この婚約は無効だ!」
「お父様!!」
 アングラード侯爵が喚き散らし、セーラが金切り声を上げる。
 カスティル公爵が床に這いつくばり、夫人は顔を覆って泣き叫んだ。
 そんな喧騒の中、ドミニクは何も言わず、じっと自分の足元を見つめていた。
 そして私は、その光景を呆然と眺めながら、こんなことを考えていた。
(やっぱり……。最後は地獄絵図なのね)

「金の問題は……、まぁ、当人同士で勝手に話し合うがいい。これにて、婚約破棄裁判を閉廷する!」
 恐らく面倒になったアレクサンドル王子が適当に締めて、婚約破棄裁判は終わりを告げたのだった。

「アイリス!」
 私の名前を呼んで、駆け寄ってくるセリーヌ。
「セリーヌ姉様! 驚いたわ!」
「昨日の夜、急遽ルクスに頼まれたのよ。時間が足りなくて焦ったけれど、無事に終わって良かったわ!」
「セリーヌ姉様のおかげよ! 本当にありがとう!」
 セリーヌに抱きつくと、その後ろで、得意げな笑みを浮かべるルクスの姿が目に入る。
 それから、来賓席から降りてきた父が、私たちの前に立った。
「すまなかったな、アイリス。まさか、お前の婚約者までもがあんな男だったとは。まぁ、借金のことも含めて、カスティル家のことをそう悪いようにはせんから心配するな。それにしても……」
 父が、私とセリーヌの顔を交互に見比べる。
「お前たちは、揃いも揃って男運がないな」
(いやいや、どっちもあなたが充てがったんでしょ!)
 そう言ってやりたかったけど、こんな大騒動を起こしてしまった手前、その言葉はぐっと堪えた。

「あの……」
 おずおずとした様子で近づいてきたエミリーが、イザベルとレイチェルと一緒に声をかけてくる。
「ごめんね、アイリス。何も知らないのに、あんなことを言って……」
「ううん、私こそごめんなさい。伝えようとしなかったのは私の方。黙ってたって何も伝わらないのにね」
「これからは、クラスメイトとして仲良くしましょうね」
「もちろんよ!」
 エミリーとイザベル、レイチェルと順に握手をする。
 そんな私たちを、ケイトとジェレミーが見守っていた。
「アイリス、おめでとう」
「ありがとう、ケイト。ジェレミーも」
 何も言わずに頷くジェレミー。 
 ジェレミーの柔らかなライラック色の瞳を見ていたら、私の脳裏に、いつかのルクスの言葉が浮かんできた。
 
「アイリス、人は誰でも、自分の幸せを一番に考えていいんだから」


幕間 ジェレミーの初恋(ジェレミー・シュナイダー視点)


 自分が国一番の商団を持つ大金持ち、シュナイダー家の一人息子だと自覚したのは7歳の時のことだ。 
 その時初めて、仲間の中で俺一人だけが、家庭教師に見張られて勉強しなければなかなった理由を理解した。
 仲間はみんないいやつで、俺が大金持ちの息子だからと態度を変えたりしない。
 ただ、それまで会っていたやつが急にいなくなったり、どこからか流れてきたやつが新しい仲間になる。そんなことを繰り返していた。
 仲間の中で、字が読めるのは俺だけだった。
 家庭教師なんて金のかかる道楽は、その日食べるのがやっとで生きているやつらには何の足しにもならない。
 一番仲のいいトムは、俺より賢くてみんなに頼りにされていたけれど、字が読めないせいでまともな仕事に有りつけず、今は養鶏場の下働きをしている。
 字の読み書きを教えようか?
 そんなことは仲間を見下している気がして言えなかったし、誰も望んでいなかった。みんな、その日を生きるので精一杯だったんだ。

 俺が10歳になる頃には、殆どの仲間が生活のために働き始めていた。
 商店通りにある親の店を手伝ったり、どこかへ奉公に出たり、兄弟の面倒を見ながら家の仕事をしたり。みんな忙しそうにしていて、遊んでくれる相手がいない。
「俺も早く働きたい! 早く商団の仕事を継いで、仲間をみんな商団で雇うんだ!」
 そう意気込んだ俺に待っていたのは、王立学園への入学だった。
 王立学園なんて貴族の巣窟だ。冗談じゃない。
 親父に文句を言うと、
「学んだことは、いずれ商団を継いだ時に役に立つ。6年間きっちり勉強して来い」
 と叱咤激励された。それから、
「お前を王立学園に通わせる理由はもう一つある。人脈を作ることだ。商団の主な顧客は貴族だ。将来、どの家門がシュナイダー家にとって利になるか、きちんと見極めて人脈を作っておくんだ」
 そう言って手渡されたのは、分厚い貴族名鑑。
 学園の生徒の大半は貴族の子供だ。
 俺は、将来どの家門が手を結ぶに値するか、反対に関わらない方がいい家門はどこか、見極めるため、生徒たちを観察することにした。

 貴族は嫌いだ。
 自分たちが世界の中心にいるような気になって、平民を見下し威張り散らしている。
 貴族の家で下働きをしていた仲間は、よくそこの家の子供に虐められて泣いていた。
 だからこそ、その貴族の金と権力を利用して、商団を更に大きくしてやるんだ。

 クラスで目立っているのは、女生徒たちに金髪の王子様と騒がれているルクス・クロフォード。
 現クロフォード伯爵は、その確かな商才と経営手腕で莫大な富を築いたやり手だ。その才能を受け継いでいれば、商団にとって得難い取引相手になるだろう。
 ただ、幼い頃はかなり体が弱かったそうだ。それも踏まえて、もっと観察が必要だ。
 双子の妹アイリス・クロフォードは、大人しく目立たない地味な令嬢だ。こちらは気にする必要はないだろう。

 女生徒で目立っているのは、ローレンス侯爵家の一人娘、エミリー・ローレンス。
 派手好きで見栄っ張り。家門の力を笠に着て威張っている、俺が最も嫌いなタイプの人間だ。
 兄のシャルル・ローレンスも同じような性格らしい。
(ローレンス家はないな)
 そんなことを考えていると、そのエミリー・ローレンスが、伯爵令嬢のイザベル・ドパルデューと子爵令嬢のレイチェル・ディートリッヒを従えて、ルクス・クロフォードの妹であるアイリス・クロフォードに声をかけているのが目に入った。
(これで、あの子もあいつらの仲間入りか)
 だけど、俺のそんな予想は見事に外れて、「私はいいわ」と言い放ったアイリス・クロフォードは、足早にその場を去っていく。 
 そんな返答が返ってくるとは夢にも思わなかったのだろう。残されたエミリーたち三人の令嬢は、呆然とその場に立ち尽くしていた。
 自分より身分の高いエミリー・ローレンスを袖にして、一体どこへ行くつもりなのかと目で追っていると、俺の三つ前の席に座っている栗色の髪の女生徒に話しかけている。
 貴族名鑑には載っていない生徒、つまり平民だ。
 それからアイリス・クロフォードは、何の迷いもなくその女生徒の隣の席に座った。
(……? 変なやつ)
 それが、アイリスが気になったきっかけだったんだ。


 その日の放課後、渡り廊下を歩いていた俺が見たものは、エミリー・ローレンスたちに囲まれている栗色の髪の女生徒と、その手前で立ち尽くすアイリス・クロフォードの後ろ姿。
(まあ、そうなるよな)
 上位貴族を無下にして平民に話しかけたのだ。
 おまけに、相手は意地悪でプライドの高いエミリー・ローレンス。
 いくら学園が生徒は皆平等なんて理念を掲げていても、こうなることは予測できただろう。

 アイリス・クロフォードは、涙を零すまいと目を見開きながら、その華奢な体を小刻みに震わせていた。
(面倒くさいことになったな)
 正直そう思った。
 だけど、囲まれているのは平民だ。放っては置けない。
「通行の邪魔なんだけど」
 俺の顔を見た途端、顔を見合わせて逃げて行くエミリーたち。
 クラスメイトの殆どが、俺をシュナイダー家の跡取り息子だと認識していた。この目立つ瞳のせいだろう。
 シュナイダー家とはお近づきになりたいが、自分から平民に声を掛けることはしたくない。
 そんな感じで、遠巻きに見られていることはわかっていた。
 
 エミリーたちが去った後、栗色の髪の女生徒がアイリス・クロフォードに向かって歩いて行く。
 そしてこう言った。
「あなたがあの子達と仲良くしない理由がわかったわ。だってあの子達……。香水の匂いで鼻がもげそう!」
 堪えきれずにアイリスが笑うと、その透き通るような黄緑色の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
 きっと、俺がアイリスを好きになったのはその時だ。

「俺のこと知ってる?」
 と聞くと、
「ごめんなさい」
 と答える。
 彼女のことがますます気に入った。
 学園に通うのがあんなに億劫だったのに、朝が来るのが楽しみになった。
 コックに友達と食べるから弁当を作ってくれと頼むと、馬鹿でかい三段重の弁当を渡された。
(さすがにでか過ぎるだろ!)
 だけど、これで昼休みにアイリスを誘う口実ができた。

 昼休みは、アイリスとケイトと一緒に中庭で弁当を食べる。
 二人は自分の弁当を食べながら、俺の弁当のおかずをつまんで満足そうに笑う。
 時々アイリスが自分の弁当のおかずをくれて、俺はもったいない気がしてしばらくそれを眺めている。
 そうこうしているうちに、女の子たちを撒いてきたルクスがやってきて、急いで弁当を平らげるのがいつもの光景になっていた。
 ケイトは、ベアールという町医者の娘だ。
 王都で暮らす平民で、ベアール先生を知らないやつはいないだろう。
 腕が良く、心優しく、困窮しているものからは診療代を受け取らない。そんな医者の鑑のような医者だ。
(……それよりも、ケイトのあの目)
 一度見たら忘れられない、特徴的なローズピンク色の瞳をしている。
(アイリスが気づいていないなら、余計な詮索はやめておこう)

 ある日の昼休み、将来の話になった。
 将来何になりたいか、尋ねられたアイリスはこう話した。
「王立学園の先生じゃないの。小さい子に、最初に字の読み書きを教える先生。平民の中には、学びたいのに学ぶ機会がない子供が沢山いるでしょ? それに貴族にも……。事情があって、本来学ぶべき時に学べない子供がいるかもしれない。そんな子供達のための……。そう、学校! 学校を作りたい。その学校では誰でも学べるの。身分なんて関係なく、字の読み書きを覚えたい子は誰でも! もちろん大人だっていいの。大人になるまで学ぶ機会がなかったけど、字が読めるようになりたい、書けるようになりたい。そんな人たちが堂々と学べる場所。私、そんな学校を作りたい!」
「それ、いいよ!」
 思わず前のめりになると、アイリスは戸惑ったような表情をみせた。
 だけど、アイリスの夢は、俺が実現したかったことと同じだったから。
 その日、俺はアイリスのことがますます好きになったんだ。
 いつか、アイリスと一緒に学校を作りたい。
 だけど、そんな夢心地の気分は、その後すぐに終わりを告げた。

 教室へ戻る道すがら、食堂の前で出くわしたのは、カスティル公爵家の三男、ドミニク・カスティルだった。
 黒い髪、黒い瞳、鉄壁の無表情のいけ好かないやつ。
 何より、父親のカスティル公爵がろくでもない。
 貴族であろうが自分より身分の低い者は皆見下し、平民に至っては家畜同然だと思っている。
 おまけに金にがめつく、極めつけは、自分の商才のなさに全く気がついていないのだ。
 一度カスティル公爵と取り引きした親父は、二度と関わり合いになりたくないと怒りを顕にしていた。
 父親がろくでなしだからといって、息子も同じだとは思っていない。
 だけど、俺とケイトのタイとリボンに宝石がないと気付いた時のあいつの目。
 一瞬で侮蔑の色に染まった、闇夜のように真っ黒い瞳を見た時思った。
 所詮こいつは、カスティル公爵の血を継いだカスティル家の一員なのだと。
(まあ、この先カスティル家と関わることもないだろうし、関係ないか)
 そう思っていたのに……。

「君は僕の婚約者だ!」
(……婚約者?)

 ルクスに聞いた事があった。婚約者はいるのかと。
 そんなものはいないさと答えたルクス。
 跡継ぎである長男のルクスに婚約者がいないのだから、当然アイリスにもいないものと思い込んでいた。

 貴族の世界は身分が全てだ。
 ろくでもない人間が当主だろうと、カスティル公爵家はこの国で王族の次に身分の高い大貴族。
 平民の俺に勝算がないことは、痛い程わかっていた。
 それでも諦めがつかず、最後のチャンスと心に決めて、ダンスパーティーのパートナーを申し込むつもりでいた。
 だけどアイリスは、あいつからの黄色い薔薇をすでに受け取っていた。
 行き場をなくし、ぐしゃぐしゃに握り潰されて、花壇に捨てられた俺の黄色い薔薇。
 放課後、思い直して花壇に戻ると、握り潰された黄色い薔薇はもうどこにも見当たらなかった。
 消えてしまった黄色い薔薇のように、俺の初恋もそこで終わる筈だったんだ。


「婚約破棄裁判!?」
 アイリスとドミニク・カスティルの婚約破棄裁判が開かれることを知ったのは、学園祭最終日の朝だった。
 ダンスホールの真ん中で、生徒や父兄たちの好奇の目に晒されながら、ドミニク・カスティルと並んで立っているアイリス。
 いっそこのままアイリスを攫って、どこか遠くへ行ってしまいたいとさえ思った。
 落ち着きのない俺を見て、ルクスが俺の脇腹を肘で小突く。
「大丈夫だ。ジェレミー」
 その時、父兄席から「よろしいですか?」という声が聞こえてきた。
 軽く右手を上げて立ち上がった女性は、アイリスと同じ薄茶色の髪をしている。
 ルクスが言った。
「あれ、こないだ話した僕たちの上の姉さん。作戦は万全だ。ジェレミー、アイリスは大丈夫だ」
 きっぱりとそう言い放ったルクスを信じて、俺は裁判を見守った。

 婚約破棄裁判は終始アイリスの優勢で進み、アイリスとドミニク・カスティルの婚約はアレクサンドル王子の名の下で破棄された。
 アイリスは屈辱に耐え、望みを叶えたんだ。
 ホッとするも束の間、婦人達のこんな声が耳に届く。
「聡明な長女や美しい次女のことは知っていたけれど、三女があれほど健気で真面目なお嬢さんだったとは。うちの嫁に欲しいくらいだわ」
「お顔立ちも、ジュリア嬢のように派手ではないけれど整っているものね。ああいう子は将来美人になるのよ」
「それに、カスティル家の借金のためにポンと50億ゴールドも出すなんて、さすがはクロフォード家。この騒動が収まったら、うちの二男との婚約を打診しようかしら?」

 そうだ。アイリスは貴族令嬢だ。
 いくら平民の俺やケイトに屈託なく接してくれていても、それは揺らぐことのない事実。
 それに、婚約破棄裁判は大騒動に発展したが、アイリスの名誉に傷はつかなかった。新しい婚約者が決まるのも時間の問題だろう。
 近づいてきたルクスが、耳元で囁く。
「ぼーっとしてていいのかよ。今は地味だけど、アイリスは将来絶対に美人になるぜ」
「……わかってる」

 わかってる。
 それに、アイリスは今も綺麗だ。

 その日、俺はある決心をする。
 そしてその夜、親父の書斎のドアをノックした。
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