「おまけ令嬢」アイリス・クロフォードは、人生をやり直す
二章 アイリスの決意
(もしかして……。私、あの時死んだ?)
いつのまにか空は茜色に染まり、部屋の中には暗い影が落ちている。
(いやいや、それはないわ。だって、死んだら夢なんて見ないでしょ? 今夢を見てるってことは、私は生きてるってことよ。それより……。夢から覚めたら、あの路地裏にいるってことよね? それはそれで気が重いわ)
小さく伸びをして、夕日が木々の枝葉の間から差し込み、木漏れ日を描く様を眺めた。
(目が覚めたら、住むところと仕事を探さないと)
そんなことを考えていた時、
「アイリスお嬢様」
私を呼ぶマリーの声で我に返る。
温もりのある声で私の名前を呼ぶ唯一の人。
笑うと三日月の形になる、優しげな栗色の瞳が好きだった。
(夢から覚めたら、マリーにはもう会えないのね)
ただ、それだけが悲しかった。
「夕食はどうなさいますか?」
マリーが尋ねる。
(夕食か……)
「部屋で食べるわ。執事長に伝えてちょうだい。それから……。夕食は二人分用意して」
「二人分ですか?」
「そう、二人分。それから、ルーシーとリリカに今日はもう休んでいいと伝えて」
「かしこまりました」
マリーが部屋から出ていくと、私はテーブルのセッティングを始めた。そうして2時間後……。
「まぁ!」
食事を運んできたマリーが、感嘆の声を上げる。
スカーフを敷いて、裏庭で摘んだ花を飾ったテーブルはなかなかいい感じだ。
「座って、マリー」
「いけません、お嬢様。私は使用人です。お嬢様と一緒にテーブルに着くなんて……」
「マリー。この部屋にいるのは私とあなただけ。咎める人なんていないわ。私はね、あなたと食事がしたいのよ」
(あんな家族とじゃなくってね!)
マリーと向い合せに座って、美味しい料理を頂く。
オムレツにサラダ、パンとチーズに温かなスープ。豪華な食事ではないけれど、私には十分すぎるほどだ。
マリーが笑い、私も笑う。
その夜は、私の人生の中で最も素晴らしい夜になった。
(といっても、夢の中なんだけどね)
寝間着に着替え、ベッドに入る。マリーにお休みなさいを言い、静かに目を閉じた。
目が覚めたら、この夢は終わっているだろう。
(色々思うところはあるけど……。何はともあれ、なかなかいい夢だったわ)
そして、そのまま眠りについた。
それなのに…………。
「夢じゃなーーーーーーーーーい!?」
目が覚めても、私の体は夢の中と同じ10歳のままだった。
小さな手、小さな体、夢の中と同じ寝間着にベッド。
鏡に映るのは、薄茶色の髪にペリドットの瞳をした10歳の少女、アイリス・クロフォード。
紛れもなく私だ。
(やっぱり……。あの時、私は死んだんだ)
だとしたら、私はなぜ10歳の姿で生きているのだろうか。
可能性は二つ。
一つ、18歳で死ぬまでの、長い夢を見ていた。
私が自分の人生だと思っていたのは、長い長い夢。
(だけど……。あれは確かに“死”だった)
降り積もる雪、動かない体、遠のく意識、その先にあった完全なる暗闇。
あの日、私は死んだ。夢なんかじゃない。
だとしたら、可能性はもうひとつ。
私は一度死に、10歳の体で目覚めた。
こっちの方が余程しっくりくる。
(なんだって、こんなことになったのよ)
ベッドの上で、まだ慣れない小さな体を丸めて蹲った。
(こんな人生、もう一度やり直すなんて冗談じゃないわよ)
その時、
「お嬢様、大丈夫ですか?」
私の顔を心配そうに覗き込む、マリーの栗色の瞳と視線が混じり合う。
(あぁ、だけど……。マリーが生きてる)
家族にも誰にも愛されなかった私に、ただ一人寄り添い、私のせいで死んでいったマリー。
そのマリーが生きている。人生をやり直すことができる。
マリーが人生をやり直せるなら、巻き戻ったことにも意味があるのかもしれない。
(だけど、今のままじゃダメだ)
16歳になったらルクスは死ぬ。
それは、きっと変わることのない運命。
そしてルクスが死ねば、私はこの屋敷を追われることになる。
マリーは私をひとりぼっちにはしないだろう。私たちは、もう一度二人で生きていくことになるのだ。
だけど………。
今のままでは、私は確実にマリーのお荷物になってしまう。再びマリーを死なせてしまうかもしれない。
(それだけはダメ! そんなことには絶対にさせないんだから!)
そうして、私はある決意を固めた。
「マリー、お父様が帰ったら知らせてほしいと、執事長に伝えてちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様」
父が帰って来たと連絡があったのは、夜の10時を過ぎた頃だった。
こんな時間に訪ねても、門前払いされて終いかもしれない。
だけど、私は今日、絶対に父に会わなければならなかった。
暗く冷たい廊下を渡り、食堂を通り過ぎ、階段を登って、父の書斎にたどり着く。
細やかな細工が施された豪奢なドア。私はこれまで、このドアを開けたことはない。
グランベール伯爵家の当主である父は、王都の西側に広がる領地を治める他に、貿易で財を成していた。
詳しいことはわからないが、暮らしぶりをみるに商売は成功しているのだろう。
ドアをノックしようとした時、中から言い争う声が聞こえてきた。
「あの子のせいで、ルクスは……!」
これは母の声。
「少し落ち着かないか!」
これは父の声。
「あの子が生まれてこなければ、ルクスは健康だったのに! ルクスの健康を奪って生まれてきたあの子が、私は憎くてたまらないのです!」
前世でも、二人のこんな会話を聞いたことがあった。
ちなみに、わけがわからなくなりそうなので、18歳で死んだ過去の人生を前世、10歳で目覚めてからを今世と呼ぶことにした。
(あの時は、ショックを受けて一晩中泣いていたっけ)
だけど、今はもう何も感じない。
どうせ私のことを捨てる人たちだ。
この人たちに何を言われようが、どう思われようが、もうどうだっていい。
(家族からの愛なんて、もういらないのよ)
ドアをノックして、返事を待たずに部屋の中に入る。
母は嫌なものでも見るかのように顔を背け、父は眉の一つも動かさなかった。
「こんな時間に何をしている?」
名前も知らない使用人にかけるような父の無機質な声は、私の手足を冷たくさせる。
だけど、私は怯まない。
「大事な話があります。お時間を下さい」
「話なら明日聞く」
(そんなこと言って、どうせすぐに忘れるくせに)
こちらを一瞥もしない父を無視して、話を続けた。
「お願いがあります。私に家庭教師をつけて下さい」
「家庭教師?」
父の眉がピクリと動く。
それを見逃さなかった私は、畳み掛けるように言葉を発した。
「私は、これまで家庭教師をつけてもらったことがありません。だから、私は字も読めないし、まともなカーテシーもできません」
「なっ……!」
言葉にならない声を発して、父が母を見る。
母は真っ白い能面のような顔をして、その場に立ち尽くしていた。
この国の貴族の子供は、早ければ3歳、遅くても6歳までには家庭教師がつけられる。
学問を教える家庭教師と、礼儀作法を教える家庭教師だ。
幼い子供は、家庭教師から字の読み書きを教わり、挨拶の仕方、食事の仕方などのマナーを教わる。
3歳の時から数人の家庭教師がつけられたルクスとは違い、私の元に家庭教師が訪れることはなかった。
子供の家庭教師の手配をするのは母親の役目だ。
ただし、母は意地悪をしたわけではない。いくらいてもいなくてもどちらでもいい子供だとしても、教育を施されていない子供は家門の恥になる。
母はただ忘れたのだ。
大切な跡取り息子のルクスに夢中で、私に家庭教師をつけることを、ただ忘れた。
6歳の時、ルクスが高熱を出し病気がちになったのも原因の一つだろう。
そうして、私が字を読めず、礼儀作法を学んでいないことを、家族の誰ひとりとして気づくことはなかった。
本当に、彼らにとって私は透明人間だったのだ。
マリーを含めた三人の使用人は、いずれも下級メイドで字が読めなかった。
自分達が当たり前に字を読むことのない世界で生きているのに、字が読めない私に違和感を感じるはずがない。
贈り物で本を贈られたり手紙の一つでも貰うことがあれば、気づいた可能性もあるだろう。
だけど、そんなことは一度だって起きなかった。
そうして私は、字が読めないことを誰にも気づかれないまま、12歳で王立学園に入学した。
最初の授業。
その時の絶望を、言葉で言い表すことができない。
配られた教科書、先生が黒板に書く文字、私はそれを何一つ理解できなかったのだから。
そして、自分以外の生徒全員がそれを理解していることに、恥ずかしさと恐怖を覚えた。
それからというもの、私は学園で息を潜めて過ごした。
何かささいなきっかけで、字が読めないことが白日のもとに晒されるかもしれない。そんなことには耐えられなかった。
誰とも話さず、息を殺し、ただ時間が過ぎ去るのを待つ。
授業で当てられた時は、呆れた先生が「もういいです」と言うまで下を向いてやり過ごした。
そんな私は、クラスメイトたちの格好のいじめの的になった。
馬鹿にされ、笑われ、物を隠される日々。
それでも、下を向いて黙って耐え続けた。
どんなにいじめられようとも、字が読めないことを知られることの方が恐ろしかったから。
だけど、いつまでも隠し通せるわけがない。
入学してから1ヶ月後の最初のテストで、私が字が読めないことが教師達に知られることになった。
「この齢で字も読めないとは……」
「いったい、伯爵家ではどんな教育をしているんだか」
学園に呼び出され、教師たちに責められた母は、怒りから唇を噛み締め、その白く美しい手を震わせていた。
そうして、入学してからたったの1ヶ月で、私は王立学園を退学になった。
貴族の家で、これ程の不名誉はない。
帰りの馬車の中、恥をかかされたと罵倒される覚悟をしていたけれど、母は何も言わなかった。
ただ真っ白い能面のような顔をして、宙を見つめていた。
あの時と同じ表情をした母。
そんな母に、父が唸るような低い声で尋ねる。
「家庭教師がついていないとは……、字が読めないとは……、一体どういうことだ!」
「それは……」
さっきの威勢はどこへやら、母はしどろもどろになりながら目を泳がせた。
その目が私を捉えると、さっと凍てつくような冷たさを宿す。
憎しみと嫌悪が入り混じったいつもの目だ。
(私に対して、少しも悪いと思っていないのね)
「はぁ……」
溜息を吐きながら、少し癖のある薄茶色の髪をかき上げる父。それから、私の方を見ることもなくこう言った。
「家庭教師は手配する。部屋に戻りなさい」
「わかりました。それでは失礼します」
前世では、学園を退学になった後で、父の手配により家庭教師がつけられた。
前世の記憶がある今は、簡単な字の読み書きと基本的なマナーはわかる。
だけど、本来の10歳のアイリスは、字も読めなければまともなカーテシーもできないのだ。
(少しは罪悪感を感じればいいわ)
わざと下手くそなカーテシーをして、部屋を出た。
父も母も私を見ていなかったので、あまり意味はなかったけれど。
「アイリスお嬢様!」
よほど心配だったのか、マリーが迎えに来てくれていた。
「マリー!」
マリーにかけ寄る。
マリーの可愛らしい丸い顔とアーモンド型の瞳を見ると、途端に緊張が解けていくのがわかった。
これで、王立学園を退学になる心配はなくなった。学園できちんと学ぶことができる。
精一杯勉強して、入学するまでに遅れを取り戻そう。
入学したら良い成績を収めて、先生に目をかけてもらおう。
そうすれば、屋敷を追い出された後きっと力になってもらえる。マリー一人だけを働かせなくてもよくなるのだ。
それに、学んだことは絶対に役に立つ。
(今世では、マリーに苦労はさせない。私がマリーを幸せにするからね!)
「マリー、私頑張るわ!」
マリーは不思議そうに首を傾げたけれど、
「はい、お嬢様!」
と言って、栗色の瞳を三日月の形にしてにっこりと笑ったのだった。
新しい家庭教師はすぐに手配がついた。父は余程焦ったのだろう。
授業を受ける場所として充てがわれたのは、普段は使われていない書庫。
ドアを開けたその人物を目にした時、私は心底驚いた。
絹糸の様な銀色の髪に、眼鏡の奥で知的に光る菫色の瞳。
その端正な顔立ちと教え方の上手さから、この国で最も人気が高いと噂されている家庭教師、キース・キャンベル先生だったから。
何処ぞの令嬢の家庭教師をしていたのを、クロフォード家が大枚をはたいて引き抜き、ルクスの家庭教師にしたのは知っていた。だけど……。
(まさか、10歳にもなって字も読めない令嬢の家庭教師を引き受けるなんて……)
一体、クロフォード家はキース先生にいくら支払ったのか、考えだだけで恐ろしくなる。
それにしても……。
10歳まで家庭教師をつけてもらえなかった令嬢が、家族からどれだけ蔑ろにされているか察しても余りあるだろうに、キース先生の表情からは、私に対する侮蔑も、嫌悪も、憐れみすら感じられないのが不思議だ。
もう名前すら忘れてしまったけれど、前世の学問の家庭教師はそれは酷いものだった。
字が読めない12歳の令嬢の指導をすることが余程我慢ならなかったのか、事ある毎に体罰を加え、言葉で蔑んだ。
「クロフォード家の恥」「お前など生きている価値もないのに、勉強して何の意味がある」
そんな罵声を授業の度に浴びせられた私はすっかり勉強が嫌いになって、終いには教科書を開くだけで動悸がするようになった。
簡単な字の読み書きを覚えたところで授業は終わり、すっかり勉強嫌いになった私はその後一切学ぶことをせず、私の知識はそこで止まってしまったのだ。
もしあの時、もっと勉強していれば、私にたくさんの知識があれば、屋敷を追い出された後マリー一人を働かせ、苦労させることもなかったのに……。
私の後悔は、いつもそこに辿り着く。
「ところで……」
キース先生の声で我に返る。
声までいいなんて反則だ。
「これまで家庭教師がついておらず、字の読み書きができないと伺っているのですが、間違いないでしょうか?」
(前世の記憶があるから、簡単な字の読み書きはできる。それをどう説明したものか……)
「それがその……。独学で勉強したので、簡単な字の読み書きはできます」
苦し紛れに適当に答えてみる。すると……。
「ほぉ……!」
キース先生の眼鏡の奥の菫色の瞳が、意味ありげに光った。
それから紳士的な笑みを浮かべて、教科書を開く。
「それでは、授業を始めましょうか」
キース先生の教え方は丁寧で解りやすく、私はどんどん勉強が好きになっていった。
知らなかったことを知る度に、狭くてみすぼらしかった世界がどんどん広がっていくような、自由になっていくような気さえする。
もちろん、学問の授業と並行して礼儀作法の授業にも取り組んだ。
先生は、前世と同じアンナ・クローリー先生。
アンナ先生は無表情で淡々としていたけれど、私を見下したり差別するようなことがなかったので、前世の私は礼儀作法の授業が好きだった。
もっとアンナ先生から学びたかったけれど、父から基本のマナーだけ教えてくれればいいと言われていたアンナ先生は、基本的な礼儀作法を教え終えるとそれきり来なくなってしまった。
またアンナ先生から学べるのは正直嬉しい。だけど……。
(今世では、礼儀作法の勉強はほどほどでいいわ)
ルクスが死ねば、屋敷を追い出され平民同様の生活を送るのだ。マナーなんて何の役にも立たない。
(それより、大事なのは学問よ)
それからというもの、私は殆どの時間を勉強と本を読むことに費やした。
そんなある日のことだ。
唐突にマリーが言った。
「今日は、婚約者のドミニク様がいらっしゃる日です」
「…………婚約者!?」