「おまけ令嬢」アイリス・クロフォードは、人生をやり直す

四章 ルクスとアイリス



「お嬢様、久しぶりに森へ行ってはいかがですか?」
 ジュリアの言葉で私が傷付いたと思ったのか、マリーが気遣うような素振りを見せる。

 “森”とは、屋敷の裏庭を突っ切った向こうに広がる小さな森だ。
 その森までが、クロフォード伯爵邸の敷地になっている。
 字が読めなかった頃は、部屋にいるのがあまりに退屈で、よく一人で森に行っていた。
 本の一つも読めなければ(そもそも本という存在を認識していない)、遊び道具もなく、マリーも常に私の相手をしていられるわけではない。
 屋敷を歩けば使用人に陰口を囁かれ、家族には無視される。
 退屈しのぎに裏庭で草をむしったりしながら遊んでいるうちに、森の中へ入るようになったのだ。
 
「そうね。久しぶりに行ってみようかしら」
 ジュリアにドレスを投げつけたせいで下着姿の私は、クローゼットの中の数少ない洋服の中から動きやすいワンピースを選び、それを着て森へ向かった。
 裏庭を突っ切り、いつもの小道から森の中に入る。
 小道を進むと小さな川があって、さらに進むとぽっかりと開けた場所にたどり着く。
 そこには大きな岩があって、その岩の上に寝そべると、丸い形に切り取られた空が見える。
 天気のいい日はそこから陽光が差し込み、空と大地を繋ぐ光の柱が、岩ごと私を包みこんでくれるのだ。
 暖かく神聖な、私だけが知るお気に入りの場所。
 だけど今日は、そのお気に入りの場所に先客がいた。
(誰……?)
 柔らかそうな金色の髪が風に揺れる度、纏った光がキラキラと煌めいている。
「……ルクス?」
 そこにいたのは、私の双子の兄ルクスだった。

 光を弄ぶ金色の髪、透き通るようなペリドットの瞳。
 だけど、その青白い顔に生気はない。
 体は小さく痩せていて、少し苦しそうに肩で息をしていた。
「アイリス……?」
 名前を呼ばれてどきりとする。
「私の名前、知ってるんだ……」
 口に出すつもりはなかったのに、言葉はするりと零れ落ちた。
 私の言葉を聞いたルクスは、
「当たり前じゃないか」
 と言って、ムッとしたように口を尖らせる。
(ああ、ルクスってこんな声よね)
 私たちは双子の兄と妹だが、言葉を交わしたことは殆どない。
 ルクスの周りには常に母やメイドがいて、私が近付こうものなら、ばい菌でも見るかのような目で見られ遠ざけられたから。

 私のお気に入りの場所を陣取ったルクスは、それを知ってか知らずか退く気配はない。
 仕方がないので、小さめの岩を見つけてそこに腰を下ろした。
(お母様やメイドを撒いてくるなんて、なかなかやるじゃない)
 だけど、屋敷は今ごろ大騒ぎだろう。
「みんな、血相変えて探してるんじゃない?」
「…………」
 話しかけてみるも、ルクスは答えない。
「帰った方がいいんじゃない?」
 不機嫌そうに口を尖らせながら、ルクスは独り言のように呟いた。
「……僕だって、一人になりたい時があるんだ」
 それから、急に早口で喋り始める。
「外は危険だらと部屋に閉じ込められて、いつも誰かに見張られている。部屋にいたって、熱が出るかもしれないからと何もさせてもらえない。授業以外の時間は、ベッドの上か人形みたいに椅子に座っているんだ。口に入れるものも食べる順番も決めるのはお母様。僕には何ひとつ自由なんてない。アイリス、君がうらやましいよ」
「うらやましい?」
 それは、さすがに聞き捨てならなかった。
「あなたのお皿に載っているのが新鮮な野菜で、私のお皿に載っているのが萎びた野菜でも? 私は家庭教師をつけることを忘れられて、この間まで字が読めなかった。それでもうらやましいと思う?」
 私の言葉を聞いたルクスの、透き通るような薄緑色の瞳が激しく揺らめく。それから、
「……ごめん」
 と呟くと、しょげたように肩を窄めた。

 その時、ルクスに降り注いでいた陽光が消え、一瞬で辺りが暗くなる。分厚い雲が太陽を覆い隠したのだ。
「雨が降るかもしれない。帰った方がいいわ」
 声をかけると、重たい体を引きずるようにして、ゆっくりと岩から降りるルクス。それだけで、さっきより呼吸が荒くなっている。
 乱れた呼吸を整えるように小さく深呼吸したルクスは、私に視線を移した。
「君はどうするの?」
「私はもう少しここにいるわ。今来たばかりだし」
「…………」
 何か言いたげな表情で、再び口を尖らせるルクス。
 どうやら、それが癖のようだ。
「仕方がないわね。送ってあげる」
 
 それから、先頭を切って歩く私をルクスが追いかける形で、もと来た道を森の入り口に向かって進んだ。
 ルクスの歩調に合わせて、一歩一歩、時間をかけて歩いていく。
 森から出ると、ルクスの名前を呼ぶ使用人たちの必死な声が、屋敷の方角から聞こえてきた。
「行って」
「一緒に戻らないの?」
 不思議そうに尋ねるルクスに、溜め息が出そうになるのをぐっと堪える。
「私と一緒にいるのを見られたら、お母様に何を言われるかわからないわよ」
 少しの間考え込んだ後、コクリと頷くルクス。
 それから、私に背を向けて屋敷の方角へと歩いていった。
 私はただ、遠ざかっていくルクスの金色の髪が風に揺れるのを、身動ぎもせずに眺めていたのだった。


 青白い顔、重たい体、上がる息。
 あの日以来、ルクスの姿を何度も思い返していた。
(あの子も思っているのかな? 自分が病弱になったのは私のせいだって)

 ルクスは死ぬ。
 16歳の夏に、何日も高熱で苦しんだ末に息を引き取る。
 後のことは知らない。屋敷を追い出されたから。
 クロフォード家の家督は、セリーヌの婚約者が継ぐだろう。
 母は死ぬまで嘆き悲しんだかもしれない。
 だけど、私には関係のないことだ。
 私と家族の縁は、前世のあの日に切れたのだから。
「お前が死ねばよかったのに」
 そう言われ、屋敷を追われたあの日に。

(だけど、このままでいいの?)
 初めてルクスと顔を突き合わせ、まともに会話をしたからか、いずれ来るルクスの死が私の心をざわつかせていた。
 私は思う。
(何か、私に出来ることはないのだろうか?)

 それから数日後の授業の日、私は言った。
「キース先生、お願いがあります」
 授業を終え、帰り支度をしていたキース先生が、眼鏡のブリッジを上げながら私を見返す。
「何でしょう? アイリス様」
「屋敷の庭園の奥にガゼボがあります。ルクスの授業、そのガゼボでやって欲しいんです」
 キース先生の菫色の瞳が、不思議なものでも見るかのように瞬きを繰り返す。私は話を続けた。
「屋敷から少し距離はありますが、ガゼボまでの道はきちんと舗装されています。キース先生の授業がある週4日、あの道を往復したらいい運動になると思うんです。それに……」
「それに?」
 聞き返すキース先生。その声はとても優しい。
「庭園は日当たりがいいでしょ? 日に当たりすぎるのは良くないけれど、適度な日光浴は体に良いと、最近読んだ本に書いてあったんです」
 そこまで話すと、キース先生は全てを理解したように頷いた。
「わかりました。アイリス様のご期待に沿えるよう、努力してみましょう」
 私はほっと胸を撫で下ろす。
 キース先生に断られていたら、この計画はそこでお終いだったから。
 他の誰が頼んても、母は決して許しはしないだろう。
 外は危険だからとルクスを部屋に閉じ込め、監視しているくらいだ。
 だけど、この国で最も人気のある家庭教師、キース・キャンベルに頼まれたなら話は別だ。
 機嫌を損ねて屋敷を鞍替えされては困るし、他の貴族の屋敷でクロフォード家の悪口を言われては困る。
(キース先生なら、きっと上手くやってくれるわ)
 もちろん、これでルクスが健康になるとは思っていない。きっと気休めにもならないだろう。
(だけど、何もしないよりはマシよ)
 ルクスの授業をガゼボで行うことが決まったのは、それから2週間後のことだった。
(そうと決まれば、重要なことがもうひとつ)
「マリー、お願いがあるの。マリーにしかできないことよ」


 ルクスの授業が初めてガゼボで行われる日、私はこっそり様子を見に行った。
 屋敷を出て、手入れの行き届いた庭園を15分ほど歩くと、美しい装飾が施された白いガゼボが見えてくる。
 赤いつるバラの咲くパイプアーチの影から覗くと、キース先生のすらりとした背中越しに、ルクスの姿を発見した。 
(少し肩で息をしているけど、大丈夫そうね)
 母やメイドに見張られながらの授業になると思っていたけれど、母の姿はなく、メイドが一人いるだけだった。
 そのメイドも、ガゼボから少し離れた場所に立っている。キース先生が説得してくれたのだろう。

 ふいにこちらを見たルクスと目が合うと、ルクスがメイドに向かって、
「そろそろ休憩にするから、お茶を用意して」
 と声をかけた。
(なかなか察しがいいじゃない)
 メイドが背中を向けたのを確認して、ガゼボに向かう。
 ガゼボの短い階段を登り、ルクスの隣の椅子に腰を下ろすと、向かい側に座るキース先生が驚いたように声を上げた。
「これはこれはアイリス様、どうされました?」
「実は、ルクスに渡したい物がありまして……」
 持ってきた“あるもの”をテーブルの上に置いて、包み紙を開ける。
「これは、一体何なのでしょうか?」
 眼鏡の縁を摘んでくいくいと動かしながら、“あるもの”を凝視するキース先生。
 私はキース先生の質問に答えた。
「これは、卵パンです」
「卵パン?」

 それは、マリーお手製の卵パン。
「お嬢様、このパンには砂糖と牛乳と卵が入っているので、とても栄養があるんですよ」
 そう言って、ジュリアや使用人たちの嫌がらせでまともな食事ができなかった私の為に、マリーが夜な夜な厨房に忍び込んで作ってくれた私の栄養源。
 私が健康に育ったのは、マリーとこの卵パンのおかげといっていいだろう。
 マリーにお願いして、昨日の夜に作ってもらっていたのだ。

「あなた、野菜しか食べてないでしょ? これを食べてみて」
「野菜しか食べていない?」
 ルクスに向けて放った私の言葉に、キース先生が訝しげに目を細める。
「そうなのですか?」
「はい。母の方針で……」
 弱々しい声で答えるルクス。
 母のお抱え栄養学士の、オススメの健康法らしい。
「そして、これは卵パン」
 キース先生が、再びテーブルの上の卵パンに視線を移し、指さし確認のような動作で人さし指を向ける。
「はい。砂糖と牛乳と卵が入っていて栄養があると、萎びた野菜と具のないスープしか食べていない私の為に、メイドのマリーが作ってくれたものなんです」
「萎びた……野菜?」
 本格的に険しくなったキース先生の表情を見た私は、
「もちろん、今はちゃんとした食事をしています」
 と慌てて付け加えた。
「確かに、砂糖も牛乳も卵も滋養がありますから、ルクス君には必要な食べ物かもしれませんね」
 キース先生の言葉に、ルクスが不思議そうに瞬きを繰り返す。
「キース先生、卵や牛乳や砂糖は、体に良い食べ物なのですか?」
「どんなものでも摂り過ぎは毒になりますが、卵と牛乳はたんぱく質が豊富で、砂糖はエネルギーになるのですよ」
「野菜よりも、体に良いということでしょうか?」
「もちろん、野菜も体に良い食べ物です。食べ物には、それぞれ異なった栄養素が含まれていますから。大切なのは、バランス良く食べることなのですよ」
「先生は、そのようなことにも詳しいのですね」
 尋ねる私に、何かを思い出したように軽く微笑んだキース先生は、
「私の姉は王宮に勤める栄養学士なのです。早くに両親を亡くし、姉に育てられたようなものなので、いつも口酸っぱく言われてきました。食べた物が人の体を作るのだと」
 と答えてくれた。
 その時、ティーセットを抱えたメイドが、こちらに向かって歩いてくるのが目に入る。
(お母様に告げ口されたら面倒ね)
「とにかく、このパン絶対に食べるのよ!」
 そう言い残し、私は逃げるようにガゼボを後にした。       

 屋敷に向かって足早に歩いていると、庭園の入口に、私を待つマリーの姿を見つける。
「マリー、卵パンありがとう」
「いいえ、お嬢様。あの卵パンは、ルクス坊ちゃまに差し上げるものだったんですね」
「実はそうだったんだ」
 そう答えると、
「お嬢様はお優しいですね」
 と言って、満足気に微笑むマリー。
 私は思う。
 優しくなんかない。
 ただ、知っているだけだ。
 ルクスが死んでしまう未来を。

「優しくなんかないよ」
 と否定すると、静かに首を振ったマリーは、
「いいえ、お優しいです」
 と言ってもう一度微笑む。
 マリーに言われると、本当のことのような気がしてくるから不思議だ。
 そうして私の胸の奥は、少しだけくすぐったくなるのだった。


 
幕間 父の後悔(クロフォード伯爵視点)
 
 男爵令嬢マリアンヌ・カザレスと結婚したのは、父から家督を譲り受けてすぐの頃のことだ。
 豊かな金色の髪と美しく輝く青い瞳。
 爵位は低いが、私の両親がその美しさを見初め、私の婚約者にしたのだった。
 真面目で責任感が強く、伯爵夫人としての仕事に一切の手を抜かない。
「もう少し、肩の力を抜いてはどうだろうか?」
 一度でもそんな風に声をかけていたら、今とは違う未来があったのだろうか。

 貴族夫人の第一の務めは、跡取りとなる健康な男子を生むこと。
 結婚から半年後、彼女は第一子を身籠ったが、生まれてきたのは女の子だった。
 多少がっかりしたが、何ということはない。次は男子が生まれるだろう。
 クロフォード家の長女として恥ずかしくないよう、次に生まれてくる男子の良き見本となるよう、厳しく育てようと決めた。
 しかし、皆が男子の誕生を期待する中、生まれてきた第二子もまた女の子であった。
 その時私は、私の人生で最大の過ちを犯した。
「チッ。また女か」
 反射的に出た舌打ちと、思わず口から零れ落ちた言葉だった。
 誰にも聞かれていなければいい。
 しかし、次に私が見たのものは、その海のように煌めく碧眼を絶望で歪ませながら、私を見返すマリアンヌの血の気を失った顔だった。

 その日から、彼女は変わった。
 食せば男子を産む確率が上がる食べ物があると聞けばそれを食べ続け、祈れば男子が生まれると評判の寺院の噂を聞けば、地の果てまででも足を運んだ。
 しかし、男子どころか妊娠の兆しすら見られない。
 彼女は追い詰められていった。
 側室を持つよう何人にも勧められたが、そんな気にはならなかった。その度に、あの日見た絶望に歪んだ青い瞳を思い出した。

 3年を過ぎた頃には、マリアンヌは諦めたように、それまで必死になって取り組んでいた男子を産む努力をしなくなった。 
 何も見えていないような虚ろな目で、乳母の手ですくすくと育っていく長女と次女を眺めている。
 幼い頃から何人もの家庭教師がつけられ、厳しく育てられてきた長女は、どこに出しても恥ずかしくないくらい優秀に育ったが、勉強にしか興味がない感情表現の乏しい子になった。
 次女に対しても同じような教育を施すものとばかり考えていたが、マリアンヌはそうしなかった。最低限の家庭教師をつけただけで、後は好きに遊ばせている。
 叱りもしなければ褒めもしない。
 それはまるで、男子がいないのなら、他の何にも意味がないとでもいうような態度だった。 
 母親の美しい容姿を受け継いだ次女は、使用人達に蝶よ花よと甘やかされ、我儘な気質に育っていった。

 そんなある日、伯爵家お抱えの医者にこう告げられた。
「奥様は精神的な疾患を患っています。すぐに治療を始めた方がいいでしょう」
 と。
 マリアンヌに治療を薦めると、彼女は美しい顔を歪ませながら激しく拒絶した。
 そんな必要はない。自分はまともであると。
 マリアンヌの強い拒否に加えて、伯爵家の夫人が精神疾患の治療を受けるという外聞の悪さ。
 私は医者に金を握らせて、何も聞かなかったことにした。

 それから数年が過ぎ、あれは次女が5歳の頃だっただろうか。
 屋敷に閉じこもり、窓の外ばかり眺めているマリアンヌに、気晴らしに婦人同士の茶会にでも参加してはどうかと薦めた。
 数日後、茶会に行くための馬車に向かっていたマリアンヌは、母を見つけて纏わりついてくる次女を気まぐれに連れて行った。
 二人を見たご婦人たちは、口々にこう褒め称えたそうだ。
「なんてよく似た美しい母子でしょう」
「まるで絵画から抜け出たようだわ」
「この子は将来、夫人と同じくらい美しくなるでしょうね」
 これに気を良くしたマリアンヌは、少しばかり元気を取り戻し、着飾らせたジュリアを連れて頻繁に茶会に出掛けるようになった。
 そうして1年が過ぎた頃、奇跡が起きた。
 マリアンヌが懐妊したのだ。
 今度こそ男子に違いない。私は期待に胸を膨らませた。
 しかし、マリアンヌが身籠ったのは双子の胎児だった。
 
 この国では、双子は不吉とされていた。
 どちらか、もしくはどちらもが、病弱になり早世すると言い伝えられてきたのだ。
 間引いてはどうかと医者に勧められたが、万一間引いたのが男子であれば取り返しがつかない。それに、伯爵家の当主たる者が、ただの迷信に振り回される姿を晒すことなどできなかった。

 そして、その日がやってきた。
 赤子を取り上げた産婆が「男子です」と告げた時、どれほど神に感謝したかわからない。 
 『ルクス』と名付けられたその子は、クロフォード家の『光』となった。

 次の赤子を取り上げた産婆が、「女の子です」と告げた。
 その瞬間、親族たちはその赤子から視線を逸らし、ルクスだけを見た。
 生まれた瞬間に忘れ去られた子。
 産婆が乳母に赤子を渡すと、乳母が恐る恐るといった様子で私に尋ねる。
「旦那様、こちらのお嬢様は何というお名前でしょうか?」
 その時、窓辺に飾られた花瓶の中の、小さな紫色の花が目に入った。
「アイリス」
 
 そう、アイリス。
 それがあの子の名前だ。

 双子の誕生を見届けた後、私はすぐに仕事に戻った。
 クロフォード伯爵家は広大な領地を有しているが、全ての土地が肥沃なわけではない。
 日照りが続けば干ばつが起き、長雨が続けば農作物は病気になる。
 領地から入る税収はその土地の為に使っていたが、不足分は貿易で得た利益から補填していた。つまり、私の手掛ける事業が傾けば、民の生活にも影響が及ぶ。
 そして、この世界は魑魅魍魎。気を抜けば商売敵に足を引っ張られ、這い上がれなくなってしまうのだ。
 そうなれば、屋敷の使用人や領地の民、多くの者が路頭に迷うことになる。
 私の肩に、領地で暮らす全ての民の生活が重くのしかかっていた。

 ある日屋敷に戻ると、乳母がアイリスをぞんざいに扱っている場面に出くわした。
 私は乳母を叱責したが、乳母は不満気な態度を隠そうともしなかった。
 誰にも見向きもされない子供を任せられ、更に私に叱責された乳母の不満や憤りは、やがて他の使用人に伝染し、アイリスは全ての使用人から見下さるようになった。
 しかし、私には屋敷内の問題に介入する時間も権限もない。屋敷で起こる全ての事柄に対する采配は、女主人であるマリアンヌの仕事だったからだ。
 当のマリアンヌは、やっと誕生した跡取り息子のルクスに夢中で、アイリスの問題を解決しようという素振りはない。
 幸いにもルクスが生まれたことで、マリアンヌの精神は日に日に安定していっているように見えた。使用人たちを正しい方向へ導くのも時間の問題だろう。
 それに、アイリスはまだ何もわからない赤子なのだ。物事が理解できるようになるまでに解決できればいい。
 そんな甘い考えを抱いた私は、高を括り、見て見ぬふりをした。
 しかし、物事は私の思惑通りにはならなかった。

 あれは、ルクスが5歳になってすぐの頃。
 高熱を出し生死の境をさまよったルクスは、それ以降頻繁に熱を出し、多くの時間をベッドの上で過ごさなければならなくなった。
「双子の呪いだ」
 誰もがそう考えた。
「生まれてくるのはルクスだけでよかったのに! あの子が一緒に生まれてきたせいで!」
 マリアンヌはアイリスを憎んだ。
 他の家族や使用人の前では平静を保っていたが、私と二人きりになると、いつもそんな風に嘆き、悲しみにくれていた。
 誰かのせいにしなければ、正気を保っていられなかったのだろう。
 そんなマリアンヌの姿を、私はただ眺めていることしかできなかった。
 いっそマリアンヌのように、アイリスを憎むことができればどれ程楽だっただろうか。
 
 私が選択したのは無関心。
 そう、徹底的な無関心だ。
 
 それは、私の後ろめたさによるものだった。
 私には、マリアンヌに対して常に後ろめたさがあった。あの日、マリアンヌを絶望の淵に突き落とした私の最大の罪。
 その後ろめたさのせいで、マリアンヌを咎め立てするのが躊躇われた。
 同時に、マリアンヌの精神はぎりぎりのように見えた。
 アイリスを憎むことで、全てをアイリスのせいにすることで、マリアンヌの精神はぎりぎりの均衡を保っていたのだ。
 私がマリアンヌを責めアイリスを庇い立てれば、彼女の精神は崩壊するだろう。
(アイリスを憎むことで、マリアンヌの精神が保たれるのなら……)
 私は父親として、最悪の選択をしたのだ。

 マリアンヌを咎めることも、アイリスを庇うことも出来ない。そして私には、アイリスを憎むことも出来なかった。
 私と同じ薄茶色の髪に、私と同じペリドット色の瞳をした、私の娘アイリス・クロフォード。
 だから私は選んだのだ。無関心の仮面を被ることを。
 そしていつしか、その無関心が当たり前のようになっていった。
 仮面は私の顔にぴったりと張り付き、もはや私の一部になっていたのだから。
 母に憎まれ、家族に疎まれ、使用人にまで馬鹿にされ、萎びた野菜と具のないスープと固いパンを文句も言わずに食べている幼い娘。
 そんな姿を見ても、何も感じなくなっていたのだ。

 そんなアイリスが、ある日食事の席を途中で退席すると、それきり食堂に来なくなった。
 あれは、そのあくる日のことだ。
「私は字が読めないし、カーテシーも出来ません」
 執務室にやって来たアイリスは、真っ直ぐに私を見据えてそう言った。
 貴族の令嬢が、家庭教師を一人も付けられず、字も読めないなどあってはならない。
 そして何より問題なのは、その事実に誰も気がついていなかったということだ。
 字も読めず、誰にも気に掛けてもらえず、誰からも愛されない。
 そんな世界で、あの子はひとり、何を思っていたのか。

 私の娘、アイリス。
 私は、何処で間違ったのだろうか。
< 4 / 14 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop