「おまけ令嬢」アイリス・クロフォードは、人生をやり直す

五章 クロフォード家の三姉妹と婚約者の再訪


 ある日の夕方、私の部屋を訪ねて来た執事長が告げた。
「旦那様が、久しぶりに食堂で食事をされてはどうかと仰っています」

 気がつけば、食堂で食事をしなくなって3ヶ月が過ぎていた。
 つまり、10歳の体で目覚めてから3ヶ月が経過したということ。
(今まで何も言ってこなかったくせに、今さら何だっていうのよ)
 どう返事をしたものか考えあぐねていると、
「本日はルクス坊ちゃまの体調が優れず、奥様と坊ちゃまは食堂へはいらっしゃいません」
 と、執事長が付け加えた。
(ルクス……、また熱を出したのね)
 ルクスの事は気になったが、私にはどうすることも出来ない。
「わかりました。行くと伝えて下さい」
 そう返事をして、支度に取り掛かった。

 身支度を整えて、食堂へ向かう。
 廊下は冷たくて暗く、食堂のドアは相変わらず重い。
 父とセリーヌとジュリアが自分の席に着いていたが、まだ食事を始めていなかった。
(まさか私を待っていたの? こんなこと、今まで一度もなかったのに……)
 セリーヌの左隣、ジュリアの真向かいが私の席だ。
 椅子に座ると、待ち構えていたように食事が運ばれてくる。
(どうせ、萎びた野菜と具のないスープでしょ)
 そう思っていたけれど、運ばれてきたのはみんなと同じまともな料理だった。
 悔しそうに顔を歪め、こちらを睨みつけているジュリア。
(私が食堂に来ることを知らなくて、前もって使用人に指示を出せなかったのね)

 カチャリ……カチャリ……
 カトラリーの音だけが、無駄に広く豪奢な設えの食堂に響く。
 はっきり言って気まずい。
(こんなに気まずいなら、大人しく部屋で食事をすればよかった)
 その時、執事長がやって来て父に耳打ちをした。
 ナプキンを無造作にテーブルに置き、席を立つ父。それから、
「仕事で席を外す。お前たちは食事を続けなさい」
 と言って、食堂を出ていった。
(呼び出しておいて、一体何なのよ!)
 父の背中に向けて、心の中で文句を言う。
 それより……。
 父がいなくなれば、ジュリアが何をしてくるかわかったものではない。  
(面倒な事になる前に、席を立ったほうがよさそうね)
 だけど、一足遅かった。
「あんた、キース先生の授業を受けているんですってね。この間まで字も読めなかったくせに、随分生意気になったじゃない」
 久しぶりに私を痛めつけられるのが余程嬉しいのか、ジュリアの顔は火照ったように薄紅色に染まり、恍惚と輝いている。その時、
「えっ?」
 という声を発して、セリーヌが食事をする手を止めた。
「それはどういうこと?」
 ジュリアが、よくぞ聞いてくれたといわんばかりに捲し立てる。
「この子ってば、お母様に家庭教師をつけるのを忘れられて、この間まで字も読めなければまともなカーテシーもできなかったのよ。とんだ落ちこぼれ! クロフォード家の恥よ! お姉様もそう思うでしょ?」
 カトラリーを置いてナプキンで口を拭ったセリーヌが、淡々とした口調でジュリアに語りかけた。
「教える者がいないせいで字が読めずマナーを知らないなら、それはそういう環境を作った人間が悪いのであって、この子が落ちこぼれだというのは筋違いというものね」
 そんなセリーヌの言葉を、鼻先で笑うジュリア。
「お姉様ってば、そんなに固いことばかり言って! そんなだからアラン様に愛想を尽かされるんですよ!」
 眉一つ動かさないセリーヌは、代わりに小さなため息をつく。   
 アランとは、セリーヌの婚約者である、サルバドール子爵家の令息アラン・サルバドールのことだ。
「ジュリア、あなたの話していることは今の会話とは無関係よ。それよりアイリス」
 こちらに視線を移し、私の名前を呼ぶセリーヌ。
 名前を呼ばれてハッとする。
 前世まで思い返してみても、セリーヌに名前を呼ばれたのも話しかけられたも、憶えている限り初めてのことだったから。
「今、キース先生に何を習っているの?」
「今は、歴史とボードルーの詩を習っています。暗唱が課題で……」
 そう答えると、ジュリアがすかさず口を挟む。
「この間まで字も読めなかった分際で、何が暗唱よ! あんたなんかにできるわけないじゃない!」
 これには流石にカチンときた。
「できるかできないか、お姉様が確かめて下さい」
 ひとつ深呼吸をして、覚えたてのボードルーの詩を暗唱する。

『君は見たか? 空と海が交わる瞬間を 青と青が溶け合う瞬間を 私は見た 海と太陽が交わる瞬間を 青と赤が溶け合う瞬間を―――――――――――――――』

「素晴らしいわ」
 そう言って、僅かばかり口角を上げるセリーヌ。
 表情はさほど変わらないが、その声色から本心であることがわかった。
 目の前のジュリアは、悔しそうに顔を歪め、小刻みに唇を震わせる。
 ジュリアのことだ。これ以上ここにいればもっと面倒なことになるだろう。
(こんな時は、逃げるが勝ちよ!)
「もうお腹がいっぱいなので、これで失礼します」
 そう言って席を立ち、逃げるように食堂を後にした。


 セリーヌが私を訪ねてきたのは、翌日の夕暮れ時だった。
 屋敷の外れにあるこの部屋まで足を運ぶなんて、余程の事だろう。
 何事かと心配していると、セリーヌは私に1冊の本を差し出した。
 紺地に銀色の刺繍が光る、美しい装丁の本。
「私のお気に入りの詩集よ。読んでみて」
「……貸してくれるのですか?」
「ええ。気に入ってくれるといいのだけれど……」
「あっ、ありがとうございます」
 恐る恐る、差し出された本を受け取る。
 これまで、私に本を贈ってくれたり、貸してくれる人は一人もいなかった。
(本の貸し借りをするって、こんなに素敵な気分なのね)
 その時、セリーヌが躊躇いがちに口を開く。
「アイリス。私はあなたを、少しも理解していなかったのね」
「えっ?」
「……何でもないの。それより、今度ボードルーの詩について語り合いましょう」
 そう言い残し、セリーヌは去って行った。

 一人きりになった私は、前世でのセリーヌとの記憶を呼び起こす。
 だけど、これといった思い出はなかった。
 思い出すことといえば、食堂で隣の席に座るセリーヌの、凛とした横顔だけ。 
 父譲りの薄茶色の髪をきっちりと結い上げ、母譲りの海の色をした瞳で真っ直ぐに前を見つめていた。
 セリーヌは、私の名前を呼ぶことも話しかけてくることもなかった。
 だけど、それは他の誰に対しても同じだった。
 話しかけられれば答えたけれど、余程のことがなければ自分から話しかけることはない。
(もしかして……。無視されていたわけじゃなかったの?)
 私に対しても、他の人と同じ様に接していただけなのかもしれない。
(話しかけていれば、答えてくれていた?)
 今となってはわからない。
 だけど、何だか心が温かかった。

 その時、セリーヌが貸してくれた本に、何かが挟まっていることに気がつく。
(手紙?)
 檸檬色の美しい封筒の中に、一通の手紙が入っていた。


親愛なるアイリス

私はあなたのことを何も理解していなかった
これまでずっと、あなたがマナーを知らず品位に欠けた振る舞いをするのは、あなたが学ぶことを軽んじているせいだと考えていたの
授業を真剣に聞かず、勉強を疎かにして遊んでばかりいると 全てはあなたの怠慢のせいだと
だから、あなたの置かれた状況は、あなたの自業自得だと思っていた
まさか、学ぶ機会すら与えられていなかったなんて
自分のことで精一杯で、私は何も見えていなかった いいえ、見ようとしていなかったのね
アイリス、どうか愚かな姉を許して
そして、私にもう一度機会を与えてちょうだい あなたの姉になる機会を
     
                          セリーヌ


 その夜、私はその手紙を抱きしめて眠った。
 その手紙は、私の宝物になったのだ。

  
  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「お嬢様、婚約者のドミニク様がいらっしゃる日です。お支度をしましょう」
 マリーの言葉に、私は小さな溜め息つく。
 すっかり忘れていたが、前回の茶会からちょうど1ヶ月経っていた。
(もう来なくていいって言ったのに……。言い方が甘かったかしら?)

「今日のドレスはこちらです」
 マリーが広げたのは、大きなリボンが胸と両袖に縫い付けてある黄色いサテン地のドレス。
(どう見てもジュリアのお下がりね)
 どうせ一度しか着ないものだ。お下がりだって何だっていいし、サイズが合わなくても似合わなくてもいい。
(だけどね)
 父が用意するのはドレスだけ。
 残念ながら、私は靴も宝石も一つしか持っていない。
 だから私は、いつもサイズの合わない靴を履いて、時代遅れの古めかしい宝石を身につけていた。
(本当に、私のことを何も考えていないのね)
 そんな風に感傷に浸っている間に、マリーの手によって身支度が整う。
(さあ、行きますか!)
 気持ちだけは戦闘態勢を整えて、ドミニクのいる庭園に向かった。


 ドミニクはいつものように、婚約者を待たずに一人で茶会を始めていた。
「お待たせしました」
「ああ」
 相変わらず、こちらを一瞥もしない。
(こっちだって、今日も喋ってやらないんだから)
 いつも、私だけが馬鹿みたいに喋っていたのだ。私が口を開かなければ、そこにあるのは沈黙だけ。
 虫の声、鳥のさえずり、風の音。
 それだけが聞こえてくる。

「つぅ……!」
 小さい靴を無理やり履いているせいで、かかとの靴擦れが痛む。
 似合わないドレス、サイズの合わない靴、時代遅れの宝石。
 太陽の下で、私の姿はなんて滑稽なんだろう。
 そして目の前の男は、その滑稽な姿に気づいてもいないのだ。
 つくづく家族と同じだ。見えていないのだ。私の事が。
 いつか……。前世で、ジュリアに言われた言葉を思い出す。
「あんたみたいな子が誰かに望まれる。そんな日は永遠に来ないのよ!」

 カスティル家がドミニクの婚約者として望んだのはジュリアだった。
 カスティル家とクロフォード家では家格が違う。
 けれども、後に“社交界の花”と謳われる美貌の持ち主であるジュリアならば、迎え入れてもいいと思ったのだろう。
 だけど、父の考えは違った。
「美しい私には掃いて捨てる程の婚約者候補がいるもの。お父様は、借金を肩代わりする上に私を嫁がせるのは割に合わないと思ったのね。だから、取るに足らないあんたをカスティル家に押し付けたのよ。あんたが望まれたわけじゃないの。身の程を知りなさいよ!」

 初めて私を見た時の、カスティル公爵夫妻……ドミニクの両親のがっかりした顔が浮かんでくる。
 美しいジュリアとは似ても似つかない、カーテシーすらおぼつかない出来損ないの令嬢。
 幼い婚約者同士の顔合わせの場だというのに、姿を見せない両親の態度から、私がクロフォード家でどんな扱いをされているか察したに違いない。 
 けれど、借金を肩代わりしてもらっている手前、文句を言うことはできない。息子の婚約者として、私を受け入れるしかなかったのだ。

(そう考えれば、この男も犠牲者なのかもしれないわね)
 そんな事を考えていると、珍しくドミニクの方から話しかけてくる。
「今日は随分騒がしいのだな」
 今日はジュリアの16歳の誕生日だ。
 今夜開かれる誕生日パーティーの準備のため、使用人たちが普段より忙しなく動き回っている。
「今夜は、姉のジュリアの誕生日パーティーなんです」
 そう答えると、
「それは、忙しい日に来てしまったな」
 と、心にもないことを言うドミニク。
「いいえ、私は参加しないので」
 そう付け加えると、何かを言いかけて口をつぐんだドミニクは、代わりに別の言葉を口にした。
「そういえば、君の誕生日パーティーに招待されたことがなかったな」
「私の誕生日パーティーは、これまで一度も開かれたことがないので」
「君の双子の兄は体が弱いのだったな。それでパーティーを開かないか?」
「いいえ、ルクスの誕生日パーティーは毎年開かれています。身内だけの集まりですけど」
「では、その時に君も一緒に祝われるのだな」
「いいえ、私は誕生日を祝われたことは一度もありません」

(そういえば、前世でも同じ質問をされたことがあったような……)
 その時は嘘をついた。
「兄のルクスが病弱なので、私とルクスの誕生日は、毎年家族だけでささやかなパーティーを開くんです。招待できなくてごめんなさい」
 パーティーに呼ばれたことも開いてもらったこともないくせに、ドミニクに嫌われたくなくて、家族に蔑ろにされていることを知られたくなくて、嘘をついた。
(だけど……。もう知られたっていいんじゃない? 嫌われたっていい。というより、私、すでに嫌われてるじゃない)
 大きく息を吸って、私は一気に捲し立てる。
「知らなかったんですか? 私がクロフォード家でどんな扱いを受けているか。兄が病弱になったのは私のせいだと母に憎まれ、父に無視され、姉にいじめられ、使用人にまで馬鹿にされる、それが私の日常です。残念でしたね、こんな令嬢が婚約者で。さすがに同情しますわ」
 その瞬間。
(やったわ!)
 ドミニクの無表情が崩れた。
 目を見開き、顔を強張らせ、真正面から私を見つめている。
 黒曜石のような瞳の奥で、漆黒の光がゆらりと揺れた……ように見えた。

 だけど……。
「時間だ」
 15時の鐘が鳴る。
 立ち上り、何事もなかったかのように背を向けるドミニク。
 彼がどんな表情をしているのか、もうわからない。
(そっちがその気なら、こっちもよ!)
「この無駄な茶会が、二度と開かれないことを祈ってますわ!」
 腹を立てればいい。
 そのすました顔をやめて怒ればいい。
 そんな思いでドミニクの背中を見つめた。
 けれど、振り向きもせず、
「また来る」
 と呟いたドミニクは、いつものように足早に去っていく。
「また来るって何なのよ……」
 そうして、ひとり残された私は、途方に暮れて呟くのだった。


幕間 ドミニクの後悔(ドミニク・カスティル視点)


 月に一度、婚約者との茶会のためにクロフォード邸を訪ねる。 
 この2年間欠かさず続けている習慣だ。
 目の前の婚約者アイリス・クロフォードは、薄茶色の髪を風になびかせ、ティーカップを見つめている。

 アイリス・クロフォードと初めて会ったのは、僕が12歳の時のことだ。
 平凡な顔に、カーテシー一つまともに出来ない粗悪品のような令嬢。
 普通ならがっかりするところだが、どうということもない。彼女が両親の選んだ人ならば、僕はそれを受け入れるだけだ。
 カーテシーが出来ずよろめく彼女に、手を差し伸べる。
 驚いたように見開かれたペリドットのような瞳の中に、何かが生まれる瞬間を見た。

 父と母に従い、兄に習い生きる。
 それが、公爵家の三男として生まれてきた僕の人生の全て。
 彼女と結婚し、公爵家が所有するいずれかの領地の代官となり、将来公爵家を継ぐ兄を支える。そんな未来に何の不満も抱いていなかった。
 それなのに……。
 帰りの馬車の中で、母が嘆いた。
「カーテシーもまともにできない娘がドミニクの婚約者だなんて、なんてことなのかしら!」
「クロフォードの奴め! 婚約者候補が山程いるジュリアを差し出すのが惜しくなったのだ。その上、顔合わせに夫婦ともども顔を出さないとは、こちらを舐めているにもほどがある!」
 父と母にこんなにも嫌われている令嬢と、生涯を共にしなくてはならない。途端に心が冷えていった。
(だけど……。そんな相手なら、父上が早々に婚約破棄を言い渡すだろう)
 けれども、婚約破棄は一向になされなかった。
 それどころか、月に一度、アイリス・クロフォードと茶会の時間を設けるよう釘を刺された。

 僕とアイリスの婚約が、カスティル家の借金をクロフォード家に肩代わりしてもらうことへの見返りだと知ったのは、随分後になってからだ。
 貴族の婚約が、利害関係で結ばれるのはよくあることだ。それはいい。両親が決めたこの婚約に異議を唱えるつもりはない。
 ただ僕は、未来に対して希望を抱けなくなっただけだ。
 両親に嫌われている令嬢を妻にし、その妻の実家に借金のことで引け目を感じながら、この先の長い人生を生きていかなければならないのだから。
 それでもアイリスがまともな令嬢だったならば、僕がここまで心を閉ざすこともなかっただろう。
 彼女ができないのはカーテシーだけではなかった。    
 茶の飲み方も食事の仕方も知らず、本の話をしようとしても不思議そうに首を傾げるだけ。そのくせ、意味のない話をぴーちくぱーちくと繰り返す。
 それは、不快以外の何ものでもなかった。
 いつしか僕は、茶会の間一言も口を聞かず、彼女に目を向けることもなく、全てを閉ざし、時間が過ぎ去るのをただ待つようになっていた。
 そう、僕は一度たりとも考えなかったのだ。
 彼女がなぜ礼儀作法を知らないのか、なぜ本の話題に不思議そうな顔をしたのかを。
 
 その日は最初からおかしかった。
 いつもなら、取るに足らない話を息つく暇もなく喋り続けるアイリスが、席に着いてから一言も話さない。
 その上、マナーを知らないせいで響かせていた、食器がぶつかる耳障りな音も聞こえてこない。
 不思議に思い顔を上げると、彼女のペリドットのような薄緑色の瞳と視線が混じり合う。
 彼女の顔をまともに見たのはいつ以来だろうか? 
 そんなことを考えていると、何の感情も感じられない声色で、アイリスがこんなことを言った。
「月に一度のこの茶会、止めにしませんか?」

 この茶会を止めることなどできない。
 そんな事をすれば、婚約者としての義務を果たしていないということになってしまう。
 そのせいで婚約破棄にでもなれば、カスティル家は肩代わりしてもらった借金をクロフォード家に返済しなくてはならなくなる。
 そんなことになれば、両親は僕に失望するだろう。
 その時、ふと気づいた。
 僕が婚約者としてしていることは、月に一度クロフォード家を訪れ、無言で一杯の紅茶を飲む。それだけだということに……。


 1ヶ月後。
 再び訪れたクロフォード邸の庭園で、真正面に座る不機嫌そうな顔をしたアイリスは、やはり一言も話さない。
(何か話した方がいいだろうか……)
 その時、クロフォード家の使用人たちが、いつもより忙しなく動いている姿が目に入った。
「今日は随分騒がしいのだな」
「今夜は、姉のジュリアの誕生日パーティーなんです」
「それは、忙しい日に来てしまったな」
「いいえ、私は参加しないので」
「そういえば、君の誕生日パーティーに招待されたことがなかったな」
「私の誕生日パーティーは、これまで一度も開かれたことがないので」
「君の双子の兄は体が弱いのだったな。それでパーティーを開かないか?」
「いいえ、ルクスの誕生日パーティーは毎年開かれています。身内だけの集まりですけど」
「では、その時に君も一緒に祝われるのだな」
「いいえ、私は誕生日を祝われたことは一度もありません」
 わけがわからなすぎて、頭が痛くなってくる。
 けれど、次にアイリスが放った捲し立てたるような言葉を聞いた時、点と点が繋がったような気がした。
「知らなかったんですか? 私がクロフォード家でどんな扱いを受けているか。兄が病弱になったのは私のせいだと母に憎まれ、父に無視され、姉にいじめられ、使用人にまで馬鹿にされる、それが私の日常です。残念でしたね、こんな令嬢が婚約者で。さすがに同情しますわ」

 アイリスがまともなカーテシーもできず、礼儀作法を知らないのはなぜか。
 僕はその理由を真剣に考えることをせず、ただ彼女の怠慢のせいだと考えていた。
 ろくに勉強せず、家庭教師の話を聞かず、努力を怠っているのだと。
 これまでずっと、そう思い続けていたのだ。
 2年もの間、ずっと。
 だけど、そうではなかった。

 これまでの茶会のことを思い出す。
 彼女はいつも、僕の茶の飲み方を盗み見ながら、それを真似しようとしていた。
 少しでもマナーを身に付けようと、努力していたではないか。

 彼女の怠慢などではない。
 彼女には、学ぶ機会が与えられなかったのだ。
 信じ難いことだが、彼女の言葉を聞く限りそれが真実なのだ。
 それに、僕は見ていたではないか。
 誰かのために仕立てられたような似合わないドレスを着て、サイズの合わない靴を履き、足を引きずりながら歩いてくる彼女の姿を。

 アイリス
 
 出会ってから一度も呼ぶことのなかったその名前を、声に出して呼ぼうとする。
 だけど……。
 言葉は喉に突っかかり、僕の口から零れ出ることはなかった。


   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 美しい音楽の音色と人々の喧騒が、屋敷の外れにある私の部屋まで届く。
 ジュリアの誕生日パーティーが、屋敷の大広間で開かれていているのだ。
 前世では、悲しみと淋しさが入り混じったような気持ちでこの音を聞いていた。
 だけど、今は違う。
(うるさくって眠れないじゃない!)
 と思うだけ。

(ルクスはどうしてるかな?)
 ふと、暫く会っていないルクスのことを考える。
 ルクスは自室にいるだろう。
 大勢の人に会うのはルクスの体に負担がかかるからと、母がパーティーや集いには参加させないようにしていたから。
 その母も、パーティーに顔を出すのは最初だけで、父の挨拶が終わる頃には、ルクスの部屋に戻るために大広間を後にする。
 私といえば、“体の弱い双子の兄を思い、自らパーティーや集いへの参加を自粛する心優しい妹”ということになっているらしい。

 テラスに出て、ひんやりとした外の空気を吸い込む。
 パーティーは朝まで続くだろう。
(今夜は朝まで眠れそうにないわね)
 そんな事を考えていると……。
「――――――――――!!!」
「―――――――――!!」
 何処からか、男女の言い争う声が聞こえてきた。
「セリーヌ姉様?」
 大きな欅の木の陰に、ドレス姿のセリーヌの姿を見つける。
 下の階の窓から漏れる明かりのおかげで、私の声に驚き、足早に去っていく男性の姿がはっきりと見えた。
 赤茶色の髪に鍛えられた大きな体。
 アラン・サルバドール。
 セリーヌの婚約者だ。

「アイリス……」
 こちらを見上げたセリーヌが、憔悴しきった顔をしながら、頼りなげな声で呟く。
 迎えにやったマリーに支えられながら私の部屋にやって来たセリーヌは、マリーが淹れてくれたハーブティーを飲むと、落ち着きを取り戻したように小さく息を吐いた。
「ごめんね、アイリス。驚かせたわね」
「いえ……。一緒にいたのは、婚約者のアラン様でしたね」
「ええ」
 ティーカップをテーブルに置いたセリーヌは、少し躊躇いがちに口を開いた。
「婚約破棄して欲しいと言ったの。そうしたら、物凄く怒り出して……」
「婚約破棄……ですか?」
 すぐには話が飲み込めず、そう聞き返した私の顔を、セリーヌは真っ直ぐに見つめた。
「私はね、アイリス。弁護士になりたいのよ」
 母とジュリアと同じ、太陽に照らされた海のように煌めくセリーヌの青い瞳。
 その瞳が、射抜くような強さで私を見据える。
 まるで、自分は本気だと言うように。

「伯爵家の令嬢が弁護士を目指す。到底許されることではないわ。それに、私には婚約者がいる。だから、叶わない夢だと思っていたの。いえ、夢ですらなかったわね。夢は努力すれば叶うこともあるけれど、そんな単純なことではなかったから。だけどアイリス、あなたを見ていたら、私はこのまま定められた道を行くのが嫌になってしまったのよ」
「私……ですか?」
 静かに頷くセリーヌ。
「悲惨な環境に置かれても、あなたは学ぶことを諦めなかった。そんなあなたを見ていたら、欲が出てしまったの。自分の人生を諦めたくない。夢を叶える為に、全身全霊で努力してみたいという欲がね」
 それから、そっと瞳を反らしたセリーヌは、
「だけど、そう簡単にはいかないみたいね」
 と呟いた。
「クロフォード家の長女として恥ずかしくないように、ルクスの良い見本となるように。幼い頃からそう言われ続けてきたわ。慎ましく、品行方正な伯爵家の長女。それが私の存在価値だった。7歳の私に、何人の家庭教師がつけられたか知ってる? 9人よ。授業に復習、次の日の予習、朝起きた時から眠りにつく瞬間まで、息つく暇さえなかった。だけど、期待に応えられるよう必死で努力したわ。それなのに……。お父様は、あの男、アラン・サルバドールと私を婚約させた。お父様はね、ルクスがこのまま健康を取り戻せなければ、あの男を伯爵代理にしてクロフォード家を任せるつもりなの。そしてそのチャンスを逃したくない為に、あの男は私の婚約者でいることにしがみついている。婚約破棄を受け入れることは絶対にありえないわ」
 セリーヌが、婚約者をあの男呼ばわりしたことに驚く。
 拳を握りしめたセリーヌは、その拳を震わせながら話を続けた。
「ルクスが健康を取り戻せば、あの男は伯爵領にある何処かの領地を貰い受け代官になる。どちらにしても損はしないわ。だけど、私には二つの選択肢しかない。クロフォード家の伯爵代理となったアランの妻として生きるか、何処かの領地の代官となったアランの妻として生きるか。そして、そのどちらかすらも自分で選べないの。夫人として家を守ることも大切な仕事、それはわかっている。だけど……。そんな未来しかないなら、どうして私は血反吐を吐く思いで勉強しなくてはならなかったの? 学ぶことに全てを捧げた私の時間は? 私の努力は? 私は一体何のために生きてきたの?」
 セリーヌの声は落ち着いていたが、私には、それがセリーヌの悲鳴のように聞こえた。
「セリーヌ姉様……!」
「アイリス、今だけ、今だけ泣かせてちょうだい」

 両手で顔を覆い、声を押し殺しながら、セリーヌは泣いた。
 小刻みに震えるその体を抱きしめると、その泣き声は次第に嗚咽へと変わっていく。
(私だけじゃなかった。私だけがつらい思いをしていたわけじゃなかった……!)
 セリーヌもこんなにも苦しんでいた。
 そして、ルクスも。
 もしかしたらジュリアだって……。

 抱き合った私たちは声を上げて泣き続けたけれど、私たちの泣き声は、美しい音楽と人々の喧騒に掻き消され、誰の耳にも届かなった。

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