「おまけ令嬢」アイリス・クロフォードは、人生をやり直す
九章 ドミニク・カスティルの婚約者
気付かないふりなど出来ない距離。
私の方が身分が低いのだから、無視をすることなど許されない。
(仕方がない……)
「ご機嫌よう、ドミニク様」
学園内ではカーテシーをしなくていい決まりになっているので、軽く会釈をする。
ドミニクは、その漆黒の瞳に私を映した後、私と一緒にいたルクス達に視線を移した。
ゆっくりと動く黒曜石。
その視線の動きから、ジェレミーとケイトのタイとリボンを見たのがわかった。
その瞬間、黒曜石に宿る光がゆらりと揺れる。
それから、私に尋ねた。
「君はなぜ、平民と行動を共にしているのだ?」
ドミニクを擁護するわけではないが、彼は悪気があってそんな質問をしたわけではない。
王家に次ぐ高位貴族、カスティル公爵家の令息として生きてきたドミニク。
その上カスティル公爵夫妻は、平民を虫けらか何かのように考えている人達だ。
ドミニクも同じ考えとは思わないが、少なくともドミニクにとって、平民は立場の相容れない下人であり、昼休みを共に過ごす相手ではない。
だからドミニクは、本当にわからなくて尋ねたのだ。
何故平民と一緒にいるのかと。
だけどそれは、時間が経って冷静になってから気がついたことで、この時の私はただこう思った。
(二人の前で、何てこと言ってくれるわけ?)
大切な友人を、その友人の前で貶されたことに腹が立った。
頭に血がのぼった。
そして、余計なことを言ってしまったのだ。
「私が誰と一緒にいようと、あなたに関係ありますか?」
高等部2年のドミニクと、中等部の新入生であり、金髪の王子様ルクス・クロフォードの双子の妹ということしか特出すべき点のない私。
そんな接点のない二人が、何か言い合っている。
廊下を歩いている生徒や食堂で食事をしている生徒。その場にいる全ての生徒が手を止め足を止め、こちらに注目しているのがわかった。
そうして私は、自分が余計な発言をしてしまったことに気づく。
だけど、何もかもが遅かった。
「関係あるに決まっているだろ! 君は僕の婚約者だ!」
ドミニクの声が響いた瞬間、廊下や食堂で大きなざわめきが起こった。
私たちに向けられる好奇の視線。
咄嗟に下を向いて、その場から逃げ出してしまい衝動を我慢する。
それから私は、ドミニクの隣に立つセーラ・アングラードの強く握りしめられた拳が、小刻みに震えているのをじっと見つめていたのだった。
噂はすぐに広まった。
私を遠巻きに眺めながら、ひそひそ話を繰り返すクラスメイト。
違う学年の生徒までが、私を一目見ようと休み時間の度に教室を覗きに来る。
私とドミニクは、例え借金の上で成り立った婚約だとしでも正式な婚約者だ。こんな風に噂される筋合いなんてない。
けれど、恐らく学園の殆どの生徒が、ドミニクの婚約者はセーラ・アングラードであると思い込んでいた。
それなのに、実際には別の婚約者がいたのだから、それだけでも立派な醜聞になる。
その上その相手が、中等部一の美形ルクス・クロフォードの双子の妹で、そのくせルクスと似ても似つかない地味な私だったのだから、それはもう面白おかしく噂されるしかないのだ。
「アイリス……」
心配そうに私の名前を呼ぶケイトに、「大丈夫よ」と微笑むことができない。
ジェレミーに対しては、その顔をまともに見ることすらできなかった。
今の私の姿が、ジェレミーの綺麗な瞳に映るのが怖かったから。
その時、
「あなた……」
皆が遠巻きに私を眺めている中、話しかけて来たのはエミリー・ローレンスだった。
「侯爵令嬢である私を平気で無視すると思ったら、偉大なる公爵家の後ろ盾があったというわけね。女の子達がする婚約者の話を済ました顔で聞いていたのも、内心では自分の婚約者の身分が一番上だと嘲笑っていたんでしょ! この……性悪女!」
「わっ、私は……!」
私がエミリー達の誘いを断ったのは、前世で彼女達にいじめられていたからだ。
女の子達の話題に入らなかったのは、婚約者とまともに会話をしたことも贈り物を貰ったこともない私に、話せるエピソードなんて一つもなかったから。
だけど、今世の彼女達は私をいじめていないし、私とドミニクの本当の関係なんて知らない。
言い返すことができずに黙っていると、ジェレミーが庇うようにして私の前に立った。
「アイリスは性悪女じゃないぜ。それより鏡を見てみろよ。お前の方がよっぽど性悪で醜い顔をしているから」
「なっなっなっ、何ですって!!」
シュナイダー家の息子を敵に回してはいけない。
エミリーは十分理解していたけれど、我慢ならなかったのだろう。
「私を誰だと思ってるのよ! 平民のくせに!」
だけど、口喧嘩でジェレミーに勝てるはずがない。
「平民で結構。お貴族様に生まれて、そんなに醜い顔になるならな!」
怒りからワナワナと震え出すエミリーの体。
そんなエミリーの体を支えるイザベルとレイチェルが、敵意を剥き出しにした目でジェレミーを睨んでいる。
二人だけではない。
クラスの大半を占める貴族の令息と令嬢が、ジェレミーに対する激しい憤りを露わにしていた。このままでは、ジェレミーがクラスで孤立してしまうのはあきらかだ。
(そんなのはダメよ!)
「ジェレミー!」
思わずジェレミーの腕を掴むと、振り向いたジェレミーと視線がぶつかる。
私を見返すジェレミーの瞳は、温かくて優しい亜麻色をしていた。
その亜麻色の瞳を見ていたら、私はなぜだか、無性に泣きたくてたまらなくなるのだった。
その時、教室のドアが開いて先生が入ってくる。
全員が黙って自分の席に戻り、何事もなかったかのように授業が始まった。
そして放課後。
「帰ろうぜ、アイリス」
教室の隅々にまで聞こえるくらいの、大きな声で話しかけてくるルクス。エミリーや他の生徒たちを牽制したのだろう。
ケイトとジェレミーと教室の前で別れ、長い渡り廊下を歩き、正面玄関を出る。
「ちょっとよろしいかしら?」
呼び止める声に振り返ると、そこに立っていたのはセーラ・アングラードだった。
豊かな草原を思わせる若草色の髪。そこに咲く可憐な花のような黄瑪瑙の瞳。透けるような白い肌に、妖精と見まがうような愛らしい顔をしている。
(こんな子が好みなのに私みたいなのと婚約することになったんだから、そりゃあ、あんな態度にもなるわよね)
ドミニクに少し同情してしまう。
「……私ですか?」
分かってはいるけれど、一応尋ねてみる。できれば違うと言ってほしい。
今日は本当に疲れていて、セーラ・アングラードの相手をする気力はない。
「高等部1年のセーラ・アングラードよ。アイリスさん、少しお時間よろしいかしら? ルクス君、妹さんをお借りしても?」
少し鼻にかかった甘ったるい声。
尋ねる時に首を傾げるのは癖なのだろう。
ルクスが何か言いかけたのを制止して返事をした。
「わかりました、アングラード先輩。ルクス、馬車で待っていてちょうだい」
侯爵家の令嬢であるセーラは、私達より身分が高い。
学園内においては、生徒は尊卑貴賤の別なく皆平等である。
学園はそう謳っているけれど、それを鵜呑みにして上下関係を蔑ろにすれば、今日の私とエミリーのような揉め事に発展してしまう。
下手をすれば家同士の問題になりかねない為、私はセーラに従うしかないのだ。
ルクスは不満げな表情をして口を尖らせていたけれど、しぶしぶといった様子で門の方角へと歩いていった。
「それではアイリスさん、行きましょうか」
そう言ったきり口を利かず、先を進んで行くセーラ。私は黙ってその後に続いた。
着いた先は、人の往来のない機械室の裏の敷地だった。
(ここって、前世の私が一人でお昼ご飯を食べていた場所じゃない! この場所を知ってるなんて……。この人、もしかして友達がいないのかしら?)
途端に親近感が湧いてくる。
その時、振り返ったセーラがキッと私を睨んだ。
そんな瞬間も妖精のような愛らしさが失われないのだから、逆に感心してしまう。
「あなた、いったいどんな汚い手を使ってドミニク様の婚約者になったのよ! 美しいジュリア様ならまだ諦めがついたものを、あなたみたいなのが相手では諦めがつかないじゃない!」
目に涙を溜めて、ぷるぷる震えながら、私を鋭く睨んでいるつもりのセーラ。
面と向かって侮辱されているというのに、まったく憎めない。
(それより……。アングラード侯爵家ってカスティル家の借金のことを知らないのかしら? まあ、公爵家当主ともあろう人が、投資に失敗して莫大な借金を作ったあげく、それを格下の伯爵家に肩代わりさせたなんて恥でしかないものね。だとしたら、カスティル家は何と言ってアングラード家を納得させたのだろう。いや、納得できていないんだ。だから、セーラは諦めがつかないんだ)
その愛らしさも相まって、不憫にすら思えてくる。
父が隠しているのに、借金の件を不用意には話せない。
だけど、それを話さない限りセーラは納得しないだろう。
そして、セーラが納得しなければ私は解放されないのだ。
(早く帰りたい……。こんな時は、あの手しかないわね)
「わたくしも分かっています! ドミニク様の婚約者に、わたくしが相応しくないことは!」
精一杯ぶりっ子をして、少し大仰に、芝居がかったように声を張り上げる。
こんな時は、言い返すと却って面倒なことになる。敵ではないと思わせてから、逃げるが勝ちなのだ。
(今から私は、世間知らずの馬鹿な令嬢よ!)
「ドミニク様に、他に好きな方がいることも知っています。わたくしといる時、ドミニク様はいつも遠くに思いを馳せていますもの。わたくしと婚約する前に、思いの通じ合った令嬢がいたに違いありませんわ!」
私の台詞に、セーラの黄瑪瑙の瞳がぱっと輝く。
セーラに話す隙を与えないために、捲し立てるように話を続けた。
「わたくしだって、思い合っている二人の邪魔などしたくありません。けれど、公爵家との婚約を破談にするなど、父が許すわけがありませんわ。わたくしは一体どうすれば……! 悲しすぎるので、これで失礼致しますわ!」
呆気にとられているセーラを置き去りにして、泣き真似をしながらそそくさとその場を離れる。
その時、立派な欅の木の陰から、ルクスの金色の髪が覗いているのが見えた。
「黙って聞いてたの? 悪趣味ね。馬車に乗っていてと言ったのに」
「あんなのと二人きりにはさせられないよ。だけど、心配するだけ無駄だったな。アイリスの方が一枚上手なんだから」
門の前で、私たちを待っていたクロフォード家の馬車に乗り込む。
「さっきより元気になったんじゃない?」
ルクスの言葉通り、あんなに気分が塞いでいたのに、不思議と楽になっている。
世間知らずの馬鹿な令嬢のふりなんてして、腹から声を出したおかげだろう。
「アイリス」
急に真面目な顔になったルクスが、私の名前を呼んだ。
「ドミニクと婚約破棄したい? 君が婚約破棄したいなら、僕は全力で協力するよ。だって、君は命の恩人で、僕の大切な妹だから。だから、僕には本心を言って」
ルクスの言葉に、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
「やめてよ、ルクス。涙腺がどうにかなりそうよ」
「アイリス、誤魔化さないで。僕は真剣に聞いているんだ」
真っ直ぐに私を見つめるルクスを、私も真っ直ぐに見つめ返した。
「婚約破棄……できるかしら?」
「だから、二人でその方法を考えるのさ。それに君、ジェレミーのことが好きなんだろ?」
そうして、私は気づく。
(ああ、そうか。私、知られたくなかったんだ。ジェレミーに、婚約者がいることを知られたくなかった)
セーラの前では嘘泣きをしたけれど、今度は本物の涙が頬を伝った。
「私、婚約破棄したい。絶対に」