笑顔の記憶
 申し込みしていた翌々週の日曜日は雨でフリマが中止となり、それからまた二週間が過ぎて、季節は少し進んでいた。
 芝生広場を囲む木々はうっすらと色付いて、ひんやりとした風が肌を撫でた。
 亜由は膝掛けを腰に巻き、ブルーシートの上に腰を下ろした。

「おねえちゃん!」

 甲高く、弾むような子供の声に思わず振り向くと、見覚えのある女の子の姿が視界に飛び込んできた。

「あっ! こんにちは。また遊びにきてたんだね」

 以前ぬいぐるみを譲った女の子が小走りで駆け寄る。

「あのね、くまちゃんをおねえちゃんに返しにきたの」
「え?」

 言われて、はっとした。
 出品する洋服や小物のチェックは毎回欠かしたことがなく、今まで一度も返品はなかったが、あの日は突然の交渉で、チェックをせずにぬいぐるみを渡してしまったことに気付いた。
 思えば、フリマの度に車に乗せ、台車に積み、ブルーシートの上で直射日光を浴びていた。何度も頭を撫でられ、手を握られ、抱きかかえられている。解れや穴開きがあってもおかしくはない。

「くまちゃんのポッケにお手紙が入ってたんだよ」

 その言葉が返品理由と結び付かず、亜由は首を傾げた。

「亜由さん?」

 呼び掛けられて顔を上げると、ぬいぐるみを抱えた女の子の母親が、深刻そうな表情で立っていた。

「え? あの……どうして私の名前を?」

 戸惑いの声が自然と漏れる。

「ぬいぐるみのベストのポケットにね、手紙が入っていたの。この子は大切な人からのプレゼントだったんじゃないかと思って、お返しにきたの」
「手紙、ですか?」

 問い返すと、母親はゆっくり頷いた。

「ええ、そうよ。あなたはこの子を手放しちゃいけないと思ったの。この子もあなたのそばにいるのが一番幸せだと思うわ」

 やわらかく微笑んだその表情には、どこか確信めいた温かさがあった。

「いえ、あの……」

 言いかけて、亜由は言葉を呑み込んだ。
 ただの一客に、別れた恋人の話をする必要はないだろう。

「それでは、代金をお返しします」

 亜由がそう返すと、母親は遠慮がちにひらひらと手を振った。

「あれは四週間のレンタル料金よ。ありがとう。娘もそれで納得しているわ」

 四週間ぶりの相棒との再会に目頭が熱くなった。まだ手放すには、時期が早かったのかもしれない。
 ぬいぐるみのベストのポケットに入っていたという手紙は、謙信からだろう。おそらく「出店おめでとう」といった内容だろうと、何となく想像がついた。    
 謙信との付き合いは三年弱で、馴れ合いの関係であってもおかしくはないが、彼は律儀な性格だった。「ありがとう」と「ごめん」は当たり前で、約束はきちんと守る人だったし、デートの後には必ず「今日は楽しかった」などのメールが送られてきた。自分本位にならず、相手の立場や気持ちを考えて行動できる人だった。たとえ喧嘩をしても、その日のうちに解決しようときちんと向き合ってくれた。そんな彼に甘えてしまった部分もあったかもしれないが、彼のことを誰よりも信頼していたし、尊敬していたし――愛していた。
 ぬいぐるみと一緒に母親から手渡された小さな封筒には、丁寧に折り畳まれた便箋が一枚入っていた。
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