執着系御曹司は最愛の幼馴染みを離さない

第一章 過去の恋と始まり

 大学を卒業すると同時に名波家を出て五年目の冬。

 杏は、社員寮として借りているアパートの自室で、厚手のトップスとフレアスカートに着替えると、テーブルに置いた鏡の前に座った。

 鏡に映る顔は休み明けの疲れと言うには暗いが、杏は無理矢理頬を引き上げる。

 翌日の仕事を考えて深夜まで眠れなかったせいで、ぱっちりと大きな目は半分ほどしか開いておらず、ストレスで唇を噛む回数が増えたからか、下唇が荒れている。

(まだ大丈夫……頑張れる)

 杏は鏡を見ながら暗くなりがちな自分を奮い立たせるべく、頬を叩いた。

 櫛を通し、肩の下まである黒髪をまとめて後ろでひとつ結びにした。下地を塗ってコンシーラーで念入りにクマを消し、眠たげな顔を隠すべく薄くアイラインを引く。

 あまりに濃い化粧で疲れた顔をごまかせば『そうやって男を誘ってるのね』と言われるだろうから、薄く見えるように必死だ。

(うん……ちょっとはマシになったかな)

 幸薄そうな顔だと我ながら思うが、顔も性格も地味なのは昔からで変えられるものでもない。しかし、それが杏の清楚で儚げな雰囲気を余計に際立たせてもいた。

 杏は鏡をもとの場所に戻し、今日何十回目かのため息をつき、出勤の支度を終えた。チェストの上に置いた四つの位牌に手を合わせる。

「おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、行ってきます」

 ひとりでも大丈夫。杏は心の中で呪文のように唱えると、重い腰を上げた。

(休みは本当に早く終わっちゃうな)

 会社に行きたくない。そんな風に思ってしまうのもきっと、これまで優しい身内に頼り切って甘やかされてきたからなのだろう。

『お坊ちゃまに庶民の遊びを教えてあげますね!』

 そう言って幼馴染みの手を引いていた頃を思い出す。
 祖父母は杏が悠真に無礼を働かないかとハラハラ見守っており、悠真の母、伊智子はそんな自分たちを微笑ましく見つめていたのをよく覚えている。

(あの頃は……楽しかったな。なにも考えずに笑っていられたよね)

 涙が滲みそうになり、思い出を頭から振り払った。

(私がちゃんとしてないと、伊智子さんに心配かけちゃう)

 悠真はきっと杏のことなんて、もう心配しないだろうけれど。

 彼を忘れたくて、あえてひどい言葉を投げつけ連絡を絶ったのは自分なのに、出勤の苦痛に耐えるため、悠真との思い出を原動力にしているなんて皮肉なものだ。

 杏は家を出て、徒歩五分で着く会社に倍の時間をかけて歩いていった。

 食肉加工の製造販売をする『小(こ)宮(み)山(やま)フーズ』は埼玉県所(ところ)沢(ざわ)市に本社を構えている。食肉加工工場は山形と埼玉にあり、そこで贈答用のハムやベーコン、店に卸すための商品を作っている。

 杏が働いているのは埼玉の工場の隣に建てられた本社の総務部だ。

 総務といっても小さな会社なので、人事、経理といった仕事も含まれる。それを十人未満の少ない人数で回しているから、残業も多く仕事はかなり大変だ。
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