執着系御曹司は最愛の幼馴染みを離さない
杏がこの会社に就職したのは知人の紹介だった。
大学卒業者の就職内定率が九十パーセントを超える売り手市場が続く中、二十社以上の企業にエントリーしたものの、杏は最終面接でことごとく落ちてしまったのだ。
確かな手応えを感じている中での不採用通知。自分があまりにも不甲斐なかった。
悠真は、困っていた杏に『それならうちに来ればいい』と言ってくれたが、実力もないのに、コネで名波総建に入社なんてできるはずがない。
両親が病気で亡くなり、そして祖父母が亡くなり、本来なら家を出なければならない立場なのに、伊智子の厚意で大学卒業までいさせてもらったのだ。
伊智子も、その夫である泰(やす)之(ゆき)も、そして悠真も、本当の家族のように接してくれた。行き場をなくした杏を受け入れてくれた。
だから杏は、いつかその恩を返したかった。そして、彼らの前で恥ずかしくない自分でありたかった。誰にも頼らず自立することが一番の恩返しになると思ったから。
それでコネ入社などしたら、恩が積み重なっていくだけでなく、どこまで名波家の恩情に縋るのかと、自分で自分を許せなくなる。
杏は結局、姉のように慕っていた知人に小宮山フーズを紹介してもらい、なんとか卒業前に内定をもらえたのだ。
就職してからは一度も名波家に顔を見せていないが、伊智子からは杏を心配するメッセージが時々届く。杏はそのたびに、楽しく働いていると嘘をつくしかなかった。
会社に着くと、ため息を押し殺して、自動ドアを通った。
「おはようございます」
暗い顔を見せれば彼女を喜ばせるだけ。杏は努めて明るく振る舞い、席に着いた。先輩社員である丸(まる)山(やま)恵(めぐ)美(み)はまだ出社していないらしい。
「おはよう、百々路さん、お茶」
壁際にある席に座った課長の熊(くま)田(だ)が、手を挙げて言った。
名前の通りクマのような体の大きさで、腹が突き出た四十代男性だ。長いものに巻かれるタイプで上司としてはあまり頼りにならない。
「あ、私もよろしく」
熊田の近くに座る同僚の女性もこちらを見ないまま手を挙げる。
「はい、ただいま」
杏はバッグを一番下の引き出しにしまい、席を立つ。
人数分のカップに飲み物を注ぎ、トレイにのせて運んだ。
「お待たせしました」
皆のデスクを回り、配り終えたところで隣の席の椅子が引かれる音がして、心臓がひゅっと縮み上がる感覚がした。
「百々路さん、私のは? もしかして私のだけないのってわざと?」
そう言ったのは、入社時から杏の教育係をしている丸山だ。丸山は三十歳の女性で、役職はついていないものの総務部全体の業務を取り仕切っている。
熊田も困ったことがあればまずは丸山を呼び、丸山に指示を出させる。
「……おはようございます。ただいまお持ちします」
杏も自分がわりと古風な考えをしている自覚はあるが、それでも総務部の雰囲気は、かなり時代遅れであると感じる。杏はふたたび重い腰を上げた。
「販売店の担当者が来たから受け取っておいたわ」
「ありがとうございます」
丸山のコーヒーを用意して席に戻ると、デスクの上に黒い革のバッグが置かれていた。近くの直売所から運ばれてきた売上金だ。
小宮山フーズの会計口座に売上を入金し、伝票を作成、計上するのも杏の仕事。
総務部はビルの入り口から近いところにあり、外部の人間が入ってきたらすぐに気付くが、バッグに入っているとはいえ現金を無造作に置いておくのはどうなのだろう。
ずさんな管理だと思いつつも、それをいつものことと諦められるくらいには、この仕事のやり方に慣れてしまっていた。
大学卒業者の就職内定率が九十パーセントを超える売り手市場が続く中、二十社以上の企業にエントリーしたものの、杏は最終面接でことごとく落ちてしまったのだ。
確かな手応えを感じている中での不採用通知。自分があまりにも不甲斐なかった。
悠真は、困っていた杏に『それならうちに来ればいい』と言ってくれたが、実力もないのに、コネで名波総建に入社なんてできるはずがない。
両親が病気で亡くなり、そして祖父母が亡くなり、本来なら家を出なければならない立場なのに、伊智子の厚意で大学卒業までいさせてもらったのだ。
伊智子も、その夫である泰(やす)之(ゆき)も、そして悠真も、本当の家族のように接してくれた。行き場をなくした杏を受け入れてくれた。
だから杏は、いつかその恩を返したかった。そして、彼らの前で恥ずかしくない自分でありたかった。誰にも頼らず自立することが一番の恩返しになると思ったから。
それでコネ入社などしたら、恩が積み重なっていくだけでなく、どこまで名波家の恩情に縋るのかと、自分で自分を許せなくなる。
杏は結局、姉のように慕っていた知人に小宮山フーズを紹介してもらい、なんとか卒業前に内定をもらえたのだ。
就職してからは一度も名波家に顔を見せていないが、伊智子からは杏を心配するメッセージが時々届く。杏はそのたびに、楽しく働いていると嘘をつくしかなかった。
会社に着くと、ため息を押し殺して、自動ドアを通った。
「おはようございます」
暗い顔を見せれば彼女を喜ばせるだけ。杏は努めて明るく振る舞い、席に着いた。先輩社員である丸(まる)山(やま)恵(めぐ)美(み)はまだ出社していないらしい。
「おはよう、百々路さん、お茶」
壁際にある席に座った課長の熊(くま)田(だ)が、手を挙げて言った。
名前の通りクマのような体の大きさで、腹が突き出た四十代男性だ。長いものに巻かれるタイプで上司としてはあまり頼りにならない。
「あ、私もよろしく」
熊田の近くに座る同僚の女性もこちらを見ないまま手を挙げる。
「はい、ただいま」
杏はバッグを一番下の引き出しにしまい、席を立つ。
人数分のカップに飲み物を注ぎ、トレイにのせて運んだ。
「お待たせしました」
皆のデスクを回り、配り終えたところで隣の席の椅子が引かれる音がして、心臓がひゅっと縮み上がる感覚がした。
「百々路さん、私のは? もしかして私のだけないのってわざと?」
そう言ったのは、入社時から杏の教育係をしている丸山だ。丸山は三十歳の女性で、役職はついていないものの総務部全体の業務を取り仕切っている。
熊田も困ったことがあればまずは丸山を呼び、丸山に指示を出させる。
「……おはようございます。ただいまお持ちします」
杏も自分がわりと古風な考えをしている自覚はあるが、それでも総務部の雰囲気は、かなり時代遅れであると感じる。杏はふたたび重い腰を上げた。
「販売店の担当者が来たから受け取っておいたわ」
「ありがとうございます」
丸山のコーヒーを用意して席に戻ると、デスクの上に黒い革のバッグが置かれていた。近くの直売所から運ばれてきた売上金だ。
小宮山フーズの会計口座に売上を入金し、伝票を作成、計上するのも杏の仕事。
総務部はビルの入り口から近いところにあり、外部の人間が入ってきたらすぐに気付くが、バッグに入っているとはいえ現金を無造作に置いておくのはどうなのだろう。
ずさんな管理だと思いつつも、それをいつものことと諦められるくらいには、この仕事のやり方に慣れてしまっていた。