執着系御曹司は最愛の幼馴染みを離さない
 杏は鍵のかかる引き出しにバッグをいったんしまって、先に社員の給料の振込データを銀行に送信することにした。手続きは午後でも間に合うが、後回しにして遅れるわけにはいかない。

「ねぇ、仕事の優先順位を考えなさいよ。そんなところにお金を入れて、盗まれでもしたらどうするの?」

 丸山はコーヒーを飲みながら杏のパソコンの画面を覗き込み、眉をひそめた。

「鍵をかけてますし……給与のデータ送信は今日の十五時までにやらないといけないので」

「そんなの帰ってきてからで間に合うでしょう? 現金をいつまでも置いておくのは危ないって言ってるの。あなたって何年経っても本当に要領が悪いわね。仕事もできないコネ入社で、私たちと同じだけの給料をもらってるとか信じられないわ」

 丸山は呆れたようにため息をついた。しかしその顔は愉悦に満ちている。

 こういった嫌みは入社して数週間も経たないうちから始まった。

(コネ入社とか……身に覚えのない話なんだよね)

 小宮山フーズを知人から紹介されたのは確かだが、どうかと勧められただけでコネで入社したわけではない。書類選考、試験、面接を通って入社している。何度も否定したのだが、丸山は杏がコネ入社だと信じ込んでおり、嫌みはなくならない。

「……すみません」

 杏は唇を噛みしめ、謝罪を口にした。そうでなければこのやり取りが終わらないと、経験則として知っているからだ。

「売上金の入金に行ってきます」

 杏は、振込データの送信を急いで終えてから席を立った。

「銀行が混んでいたなんて嘘をついて仕事をサボってないで、早く帰ってきなさいよ」
「嘘なんて」
「人の男が随分と好きなようだし、銀行マンに媚びを売ってるんじゃないの? でもあなたみたいな女が結婚相手に選ばれるはずもないけど」

 杏が俯くと、丸山は声を弾ませ楽しげに囁いた。

「……そんなこと、していません」

 人の男が好きそうだとどうして思ったのか。丸山は杏をふしだらな女だとたびたび侮辱する。

 のほほんとしている性格のせいなのか、育ってきた環境のおかげなのか、杏は人に怒りを向けるのが苦手だ。だから丸山からなにを言われても、腹が立つというより、どうしてと疑問を覚える。

 悩んでいたところでどうにもならないのだが、解決策が見つからないまま五年も経ってしまった。丸山との関係改善を図らなければ、これから先もずっと同じ。

(でも、私の話なんて聞いてくれないし……)

 話し合いを持とうとした。誤解を解こうとした。けれど、丸山は杏の言葉には耳を傾けてくれなかった。

 コネだと誤解されているからなのか、杏の性格が彼女を不快にさせているのか。ほかの同僚に相談しようとしても、皆、我関せず。

 杏はため息を漏らし、ビルを出て駐車場にとめた社用車に乗り込む。エンジンをかけて慣れた道を走らせる。サボっていると思われるのは心外だが、銀行に向かっている時が仕事で唯一ホッとできる時間である。

 銀行での手続きを終えて会社に戻ると、もう昼食の時間になっていた。皆、自席で黙々と昼食をとるため、杏もデスクに弁当を出す。

 祖父母に使用人として鍛えられたおかげで、杏は料理、裁縫、掃除には自信がある。寮の冷蔵庫が小さくあまり食材を入れられないが、それでもキッチンに立つのが好きで、今日の弁当も彩りと味、どちらも満点の出来映えである。

「今日もそういうお弁当で男にアピールするのねぇ。家事ができる女アピールしてないで、もう少し仕事ができるようになってくれれば言うことないんだけど」
「……すみません」

 家事ができる女アピールなんてしているつもりはない。好きで料理をしているだけ。

 そう言いたくても、五年間、悪意に晒され続けた心は自分が思っているよりもずっと疲弊しているのか、謝罪以外の言葉が出てこない。

(早く、今日が終わればいいのに)

 朝から仕事を終える時間まで針のむしろだ。ミスがないように集中しようとしても、視線はパソコンの時計にばかり向いてしまう。

(今の私を知ったら……悠真くんはなんて言うだろう。だから俺の言う通りにすればよかったんだって、呆れるかな)

 彼はそんな風に言う人ではないけれど。

 悠真の優しさに甘えて名波総建へのコネ入社を受け入れていれば、きっと今も杏はぬるま湯に浸かったままであっただろう。

 だが、妹としてそばに置かれて、彼の結婚を祝福するなんて、杏には無理だった。
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