この空の青を、君は知らない
第四章

目が覚めると、開かれたカーテンから柔らかい光がそっと差し込んでいた。目をこすり、まだ重たい瞼を開く。時計はもう午後二時を示している。

「やば……寝過ぎた」

ベッドに備え付けられたテーブルは出しっぱなしで、スケッチブックの横に置かれた筆には、乾いた絵の具がこびりついていた。

昨夜。
花火が終わって、天音と別れてから。
僕は、あの光を少しでも鮮明なうちに残しておきたくて、夜空を絵に描いた。

置きっぱのままのスケッチブックを開くと、花火の色が記憶を一気に呼び覚ます。

黒髪に光る花火の飾り。
優しく照らされた横顔。
瞳に映る、色鮮やかな光。

気づくと、鉛筆を握っていた。

ページをめくり、記憶を移すように描く。
シャッシャッと鉛筆が走る音が、静かな病室に響く。
モノクロで描かれた横顔はどこか新鮮だった。

ふいに、天音の言葉を思い出す。

——空以外の絵。

絵の具の乾いた筆を水に溶かし、柔らかな色を重ねていく。

この五ヶ月。
毎日のように見てきたその姿を、笑顔を、その声までもを。

正面を向いた笑顔を描き終えた瞬間、胸の奥がドクンと跳ねた。
天音にあの花火の絵を見せたら、こんなふうに笑ってくれるだろうか。

もし、来年も、再来年も、一緒にこの花火が見られたなら……

額を伝う汗がやけに冷たくて、胸の奥が強く脈打つ。
心臓の音が、部屋の静けさの中で大きく響く。

「……っ」

スケッチブックから手を離し、襟元を掴んで引き下げる。
強く打ちつける心臓が、焼けるように熱かった。
なんとかあえぐように息を吸い、早まる心臓を落ち着ける。

——ほんと、何やってんだろ。

別に、そんなんじゃ……ないのに。

彼女の未来に共にいるつもりなんて、さらさらない。

それは、本当だ。

この絵を渡すだけだ。ただ、喜ばせたいだけだ。
スケッチブックを掴み、少し引き寄せてページを戻す。

そこに映る花火を見て、どうしようもなく天音の笑顔を思い浮かべてしまう。

——天音、喜ぶかな。

気づけば、ベッドから出てスリッパをつっかけていた。
夜まで待ってもよかった。
でも、今は、この気持ちを止められなかった。

時折見せる悲しそうな顔が、いつも頭の片隅にあった。
これなら、また天音を笑顔にできるんじゃないか。
天音の笑顔を、見たかった。

扉を開け、廊下を歩く。

天音の部屋番号は知らないままだった。

だから、壁にかけられた名札を一つずつ見て進んでいく。

——違う、違う、違う。

片手にスケッチブックを抱えたまま、足音を抑える。
胸の奥で小さな緊張が渦巻いている。
昼間の病院は、ゆっくりと時間が流れていて、その空気は妙に重たかった。

気づけば、歩幅はどんどん広がった。

……あ、あった!

『月城天音』

その名前に、胸が高鳴る。

廊下の突き当たり。
屋上へ行く階段のそばにある、少し薄暗い北側の部屋。

——ここだったんだ。

扉の前に立ち、一瞬戸惑う。

——勢いだけで来てしまったけど、よかったのだろうか。

スケッチブックを握った手にじわりと汗がにじむ。

「絵、渡すだけだ。大丈夫、天音も笑ってくれる」

自分を言い聞かせるように呟き、握った手に力を込める。

乾いた音が、廊下に響く。

返事はない。

——いないのかな。

それでも、引き寄せられるように扉を開く。
その瞬間、喉の奥がわずかにひきつった。

「……っ」

開いた先に広がっていたのは、まるで光を拒むかのように閉ざされた暗闇だった。
窓は何重もの黒い布で厳重に覆われ、夏の午後の熱気はどこにもない。
冷たい光を放つスタンドライトが、異質な病室を白く浮かび上がらせる。
ここだけ、時間の流れから切り離されているみたいだった。

ストンッ、と手から抜け落ちたスケッチブックが床を叩く。
その音があまりに大きく響き、心臓が跳ねた。

「遥人……?」

背後から降ってきたその声に、
振り返ると、そこには天音が立っていた。黒いキャップを深く被り、オーバーサイズのカーディガンが体を覆う。長い髪が、顔を隠すように揺れる。
いつもの笑顔は、どこにもない。
その瞳だけがひどく揺れている。

「なんで、ここにいるの……?」

天音は、スッと手を下ろし、立ち尽くす。

「え、いや、えっと……僕は天音に……」

言葉が喉につっかえて、うまく出ない。

「なんで……来ないでって言ったじゃん!」

その声は震え、鋭く僕を見る。
思わず、一歩後ずさる。

天音は僕の横をすり抜け、俯いたまま絞り出すように言った。

「……もう、出てって」

突き放されたはずなのに、その声だけが残る。

——僕の、せいだ。

追いやられるようにして、病室を出る。
ゆっくりと閉じた扉が静かに音を立てた。

自分の病室へ戻ろうと体の向きを変える。
廊下には、眩しいくらいの光が伸びていた。

眩しさに目を細める。
それでも、足は前に出ていた。


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