この空の青を、君は知らない
湿った夜風が首筋を撫でる。
手すりを掴んだ左手に、昼間の温もりが移る。
あれから、三日。
天音は一度も屋上に来なかった。
もしかしたら、もう——
そこまで考えて、首を振る。
全部、僕のせいだ。
手すりを握る力が、少し強くなる。
思い返せば、天音はいつだって僕を病室から遠ざけようとしていた。
天音は、知られたくなかったんだ。
見られたくなかった。
だから、隠していたのに。
僕が勝手にこじ開けたんだ。天音の秘密を。
天音を傷つけてしまったんだ。
そのとき、背後で小さく金属が擦れるような音がして、振り返る。
「天音……」
開いた戸から、藍色のワンピースが揺れていた。
天音はチラリとこちらを見て、それから気まずそうに俯いたままゆっくりと歩いてくる。
その手には、あの日落としたままだったスケッチブックが握られていた。
僕の隣に立って、左手で手すりを掴んだ。
「ごめんね……来なくて」
澄んだ声が、静かに夜に溶けていく。
「こっちこそ、勝手に行って、ごめん……」
天音は、すっと顔を上げて、僕の目をじっと見つめる。
その目はもう、揺れていなかった。
「遥人に、聞いてほしいことがあるの」
それから天音は、自分の病気のこと、これまでのことを話し始めた。
光透過不全症。
それが、彼女の負った病気だった。
「陽の光にあたるとね、火傷したみたいになるの。
私は覚えてないんだけど、生まれてすぐにそれで大火傷しちゃって。
すぐ治療してもらったから、跡は残ってないけど——」
少しだけ間が空く。
「でもね、怖いんだ。
陽の光を浴びるのも、見るのも。
生存本能ってやつかな?」
そう言って軽く笑う。
けれど握りしめたスカートの裾には、深く皺が寄っていた。
スケッチブックを掴む指先が白い。
「世界でも、ほとんど例がなくて。
治療法もまだ見つかってない——」
「分かってるのは……十八才になるまで生きた人がいないってことだけ」
ハッと息を呑む。
そんなこと、信じたくなかった。
信じられるわけがなかった。
「でも、今までないってだけで……」
そう言いかけると、天音は悲しそうに笑って首を振る。
「日光を浴びないとね、いろんな機能が働かなくなるんだって。
だから……少しずつ、息もできなくなるの」
「だからね、私——
あと一年もしないうちに、死んじゃうの」
その声は震えていた。
瞳はかすかに潤んでいた。
なのに天音は笑っていた。
なにか言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。
喉の奥が、苦しかった。
——同じだと、思った。
でも、それは言えなかった。
これ以上、天音に背負わせたくない。
気づけば、まっすぐ天音を見ていた。
胸の奥が、まだ苦しい。
視界の隅で、小さく星が瞬く。
それでも、目を合わせる。
「じゃあ、それまで、ずっと一緒にいよう」
天音は、目を見開いて瞬きをする。
すぐには何も言わなかった。
ただ、視線を外して、夜空を見上げる。
風が吹く。
さっきよりも、少しだけ冷たい。
長い髪が揺れて、その隙間から見えた横顔は、どこか遠くを見ているみたいだった。
「ほんと、遥人って……」
小さく、呟く。
その声は、あきれているようにも、困っているようにも聞こえた。
けれど。
「……変わらないね」
ふっと、力の抜けた笑みがこぼれる。
そのまま、天音はもう一度、空を見上げた。
僕も、つられるように視線を上げる。
暗い夜空に、無数の星が瞬いていた。
その光は、三日前と何も変わらないはずなのに、少しだけ違って見えた。
すぐ隣にいるはずなのに、その距離がわずかに遠くなった気がして。
それでも、どこか、前よりも近づいたような気もして。
うまく言葉にはできなかった。
ただ——
この時間が、終わらなければいいと、思った。