月夜の呪われ王子と追放王妃~力のない聖女などいらないと厄介払いしたのをお忘れですか? 辺境の地で幸せを掴みましたので、今さら謝られても戻りません
忘れていた温もり
その日から、フェンリルはエミリアのそばを離れなくなった。
昼は彼女の歩く後ろをついて回り、夜になるとエミリアを守るように部屋の前に身を伏せ、灯火のように銀色の毛並みを月明かりに光らせて眠る。
しかしカーリンは時折、不安げにその光景を見つめていた。
フェンリルをこの谷で見たということ自体、なにかの〝兆し〟だと感じているからだろう。
そんなある日の昼下がり、レオナールが珍しく自室を出て、庭に面した温室でエミリアと茶を囲んだ。
セルジュとカーリンも離れた場所に控えている。
レオナールの老いた手が、震えながらも丁寧にティーカップを持ち上げる。
その白い指先は細く、光を透かすように弱々しいが、指輪ひとつしていないその手には凛とした気品があった。
フェンリルはふたりから少し離れた場所に座り、じっとこちらを見守っている。暖かな陽光の中、その銀色の毛並みが雪のように輝く。
レオナールはしばしその姿を見つめ、驚いたように小さく息を漏らした。
「あの獣は、フェンリルか?」
「はい。偶然、庭で傷ついているのを見つけて……癒しの術を少しだけ使いました。それから、なぜかずっと私のそばを離れないのです」
「フェンリルが人に懐くとは、あり得ぬことだ」
レオナールは小さく首を振った。その目に驚きが滲む。
「この谷に聖獣が現れるとは、妙な巡り合わせだな」
ティーカップを置きながら、レオナールは遠くの森を眺める。その表情には、深い憂いが宿っていた。