欠けていく世界で、きみの光を見つけた
「ただいま!」
そわそわと何度も時計を確認するお母さんとキッチンに並んでいたところに、その元気な声が響いた。
反射的に時計を確認すると、十九時半を少し過ぎている。
勢いよく玄関に走っていくお母さんに目を伏せて、私はご飯の盛り付けを進めた。
すでにダイニングテーブルの椅子に座ってご飯を待っているお父さんは、難しい顔をしてテレビを見つめている。
画面に映っているのは、お笑い芸人が体を張っているバラエティなので、内容が頭に入っていないのは丸わかりだった。
「陸!今何時だと思ってるの?」
廊下から聞こえてくるお母さんの鋭い声は、珍しいものではない。
「ごめんって。ゲームが盛り上がったんだよ。途中でやめられないだろ」
適当に聞き流しながらリビングに入ってきたのは、少し汚れたTシャツにハーフパンツ姿の弟だった。
短く切った黒髪がくしゃっと跳ねていて、日に焼けた腕には細かい擦り傷がいくつもある。
三歳年下で、小学五年生の陸は、私とは対照的に活発で、じっとしていることがほとんどない。
放課後も休みの日も、いつも友達と遊びに出かけていて、家にいるほうが珍しいくらいの男の子だった。
「間に合うように終わらせることだってできるでしょ。ギリギリに始めるのがそもそもおかしいのよ!」
そんな陸が門限の十八時を破ることはいつものことで、三浦家では今日のような怒号が飛ぶことは、日常の一部。
けれど、夏休みに入ってからは、ますます増えているような気がしていた。
いつものように、ある程度で終わるだろうと高を括り、淡々とご飯の用意を進めていく。
今日のスープはお母さんお得意のコンソメスープで、良い香りが鼻を掠めた。
「だって、もうちょっとで終わりそうだったし」
「そういう問題じゃないの!」
大して気にしていなさそうな陸の口ぶりに、お父さんも眉を寄せてテレビの電源を切った。
静かになったリビングに、どこか張り詰めた空気が流れる。
「いい加減にしろ陸。何度も同じことを言わせるな」
その声が、ピリッと電気が通ったように空気を変えて、私も思わず準備の手を止めた。
いつも口うるさく言うお母さんとは違って、お父さんが低い声を出すことはあまりない。
陸も流石に驚いたようで視線を床に落としたけれど、その表情はまだどこか悔しそうだった。
「……はいはい。分かったよ、ごめんなさい」
不貞腐れたように返す陸に、再び横からお母さんの声が飛ぶ。
「返事くらいちゃんとしなさい。ほんっとに、少しはお姉ちゃんを見習ったらどうなの」
名前を出された私は、思わず小さく肩を揺らした。
呆れたようなお母さんの言葉に、陸は俯いたままだったけど、膝の上で硬く握られた両手が小刻みに震えているのが目に入り、私も小さく唇を噛む。
「ご飯、食べよ。お母さんが用意してくれてるから」
なんとか空気を戻そうと、お父さんと陸の分のおかずをテーブルに運ぶ。
「そうだな。ありがとう菜由」
お父さんの口調が和らいだことに安心しながら「ううん」と首を振った時だった。
ぽつりと、陸の口から小さな言葉が落ちた。
「なんだよ。お姉ちゃんお姉ちゃんって……いいよな、お姉ちゃんはいつも優しくしてもらえてさ」
拗ねたような声に、再び空気が止まった。
ぎゅっと胸の奥が縮む感覚を、なんとか押さえ込む。
——なにか、言わないと。
必死で言葉を探す中、陸はさらに小さく口を開いた。
「……お姉ちゃんは、夜、外に出れないんだから、家にいて当たり前じゃん」
一瞬頭が真っ白になる。
その言葉の意味を自分で飲み込むよりも早く、パシッという高い音が響いた。
顔を上げると、目の前で陸が頬を抑えている。
「陸!あんた言っていいことと悪いことがあるでしょう!」
途端にぶわっと勢いよく涙を浮かべた陸。
それを目の前にしても怒りを抑えず息を荒くするお母さん。
思わず助けを求めるようにお父さんの方を向くと、お父さんも冷たい視線で陸を見つめていた。
「お姉ちゃんに謝りなさい。陸」
さっきよりもずっと低い声が落ちて、私の方が驚いてしまう。
「……っ、うわあ、うわあああん」
唇を噛み締めていた陸も、お父さんの声を聞いて、ついに泣き始めてしまった。
そんな姿を見ていたら、私の方が泣きたくなってしまうけど。
まるで、自分のせいで陸が泣いているような状況に、喉の奥にぎゅっと力を入れて、俯いたまま呟いた。
「陸の言う通りだから」
そう呟くと、両親の視線が、一斉にこちらへ向く。
私はその視線に答えるように、ゆっくりと視線を戻してできるだけ柔らかく目を細めた。
「確かに、陸が門限を破ったのは悪いけど、私と比べるのは違うよ」
陸は一瞬だけ驚いたような目でこちらを見た。
その拍子にぽろぽろと大粒の涙が床に落ちていき、さらに私の胸を苦しめる。
「陸……」
何か言おうと名前を呼ぶと、陸は喉をひくつかせたまま立ち上がって、勢いよくリビングを出て行ってしまった。
バタン、と強めにドアが閉まる。
静まり返ったリビングには、落ち着かない空気が残っていた。
「……先、食べよう。せっかくのコンソメスープが冷めちゃう」
途中だったお皿をサッと並べて、席に座る。
三人の食卓は、とても静かで居心地の悪いものになってしまった。
そわそわと何度も時計を確認するお母さんとキッチンに並んでいたところに、その元気な声が響いた。
反射的に時計を確認すると、十九時半を少し過ぎている。
勢いよく玄関に走っていくお母さんに目を伏せて、私はご飯の盛り付けを進めた。
すでにダイニングテーブルの椅子に座ってご飯を待っているお父さんは、難しい顔をしてテレビを見つめている。
画面に映っているのは、お笑い芸人が体を張っているバラエティなので、内容が頭に入っていないのは丸わかりだった。
「陸!今何時だと思ってるの?」
廊下から聞こえてくるお母さんの鋭い声は、珍しいものではない。
「ごめんって。ゲームが盛り上がったんだよ。途中でやめられないだろ」
適当に聞き流しながらリビングに入ってきたのは、少し汚れたTシャツにハーフパンツ姿の弟だった。
短く切った黒髪がくしゃっと跳ねていて、日に焼けた腕には細かい擦り傷がいくつもある。
三歳年下で、小学五年生の陸は、私とは対照的に活発で、じっとしていることがほとんどない。
放課後も休みの日も、いつも友達と遊びに出かけていて、家にいるほうが珍しいくらいの男の子だった。
「間に合うように終わらせることだってできるでしょ。ギリギリに始めるのがそもそもおかしいのよ!」
そんな陸が門限の十八時を破ることはいつものことで、三浦家では今日のような怒号が飛ぶことは、日常の一部。
けれど、夏休みに入ってからは、ますます増えているような気がしていた。
いつものように、ある程度で終わるだろうと高を括り、淡々とご飯の用意を進めていく。
今日のスープはお母さんお得意のコンソメスープで、良い香りが鼻を掠めた。
「だって、もうちょっとで終わりそうだったし」
「そういう問題じゃないの!」
大して気にしていなさそうな陸の口ぶりに、お父さんも眉を寄せてテレビの電源を切った。
静かになったリビングに、どこか張り詰めた空気が流れる。
「いい加減にしろ陸。何度も同じことを言わせるな」
その声が、ピリッと電気が通ったように空気を変えて、私も思わず準備の手を止めた。
いつも口うるさく言うお母さんとは違って、お父さんが低い声を出すことはあまりない。
陸も流石に驚いたようで視線を床に落としたけれど、その表情はまだどこか悔しそうだった。
「……はいはい。分かったよ、ごめんなさい」
不貞腐れたように返す陸に、再び横からお母さんの声が飛ぶ。
「返事くらいちゃんとしなさい。ほんっとに、少しはお姉ちゃんを見習ったらどうなの」
名前を出された私は、思わず小さく肩を揺らした。
呆れたようなお母さんの言葉に、陸は俯いたままだったけど、膝の上で硬く握られた両手が小刻みに震えているのが目に入り、私も小さく唇を噛む。
「ご飯、食べよ。お母さんが用意してくれてるから」
なんとか空気を戻そうと、お父さんと陸の分のおかずをテーブルに運ぶ。
「そうだな。ありがとう菜由」
お父さんの口調が和らいだことに安心しながら「ううん」と首を振った時だった。
ぽつりと、陸の口から小さな言葉が落ちた。
「なんだよ。お姉ちゃんお姉ちゃんって……いいよな、お姉ちゃんはいつも優しくしてもらえてさ」
拗ねたような声に、再び空気が止まった。
ぎゅっと胸の奥が縮む感覚を、なんとか押さえ込む。
——なにか、言わないと。
必死で言葉を探す中、陸はさらに小さく口を開いた。
「……お姉ちゃんは、夜、外に出れないんだから、家にいて当たり前じゃん」
一瞬頭が真っ白になる。
その言葉の意味を自分で飲み込むよりも早く、パシッという高い音が響いた。
顔を上げると、目の前で陸が頬を抑えている。
「陸!あんた言っていいことと悪いことがあるでしょう!」
途端にぶわっと勢いよく涙を浮かべた陸。
それを目の前にしても怒りを抑えず息を荒くするお母さん。
思わず助けを求めるようにお父さんの方を向くと、お父さんも冷たい視線で陸を見つめていた。
「お姉ちゃんに謝りなさい。陸」
さっきよりもずっと低い声が落ちて、私の方が驚いてしまう。
「……っ、うわあ、うわあああん」
唇を噛み締めていた陸も、お父さんの声を聞いて、ついに泣き始めてしまった。
そんな姿を見ていたら、私の方が泣きたくなってしまうけど。
まるで、自分のせいで陸が泣いているような状況に、喉の奥にぎゅっと力を入れて、俯いたまま呟いた。
「陸の言う通りだから」
そう呟くと、両親の視線が、一斉にこちらへ向く。
私はその視線に答えるように、ゆっくりと視線を戻してできるだけ柔らかく目を細めた。
「確かに、陸が門限を破ったのは悪いけど、私と比べるのは違うよ」
陸は一瞬だけ驚いたような目でこちらを見た。
その拍子にぽろぽろと大粒の涙が床に落ちていき、さらに私の胸を苦しめる。
「陸……」
何か言おうと名前を呼ぶと、陸は喉をひくつかせたまま立ち上がって、勢いよくリビングを出て行ってしまった。
バタン、と強めにドアが閉まる。
静まり返ったリビングには、落ち着かない空気が残っていた。
「……先、食べよう。せっかくのコンソメスープが冷めちゃう」
途中だったお皿をサッと並べて、席に座る。
三人の食卓は、とても静かで居心地の悪いものになってしまった。