残響
あの朝から、三日が過ぎた。
目を覚ましたとき、隣に晃哉がいたこと。
眠そうに笑う顔を見たこと。
帰り際に交わした「またね」という言葉。
何度思い返しても、胸の奥がふわっと温かくなる。
夢じゃなかったんだ。
そう思うだけで、自然と顔が緩んでしまう。
初めて結ばれた夜。
ずっと心の奥にしまっていた想いが、あの夜だけは隠せなくなった。
晃哉の腕の中にいることが嬉しくて。
怖いくらい、幸せだった。
だから、三日間連絡がなくても、それほど気にしていなかった。
きっと仕事が忙しいんだ。
晃哉は昔から、忙しくなると連絡が途切れることがあった。
だから私は、
「また落ち着いたら連絡くれるよね」
そう思っていた。
携帯を確認する回数は、少しだけ増えた。
けれど、メールが来ていないことを確認すると、
「忙しいんだろうな」
と、自分に言い聞かせるように携帯を伏せた。
それでも、ふとした瞬間にあの朝を思い出した。
布団の中で交わした言葉。
触れた手。
晃哉の温度。
思い出すたびに、胸がきゅっと締めつけられる。
幸せだった。
あまりにも幸せだったから、その先に何が待っているのかなんて、あの頃の私は考えもしなかった。
三日目の夜。
お風呂から上がって、髪を乾かしていると、携帯が鳴った。
画面に表示された名前を見て、思わず手が止まる。
「……こうちゃん?」
慌てて電話に出た。
「もしもし?」
「唯、ごめん。今、何してた?」
少し掠れた晃哉の声。
三日ぶりに聞くその声に、胸が弾んだ。
「今、お風呂上がったとこだよ? こうちゃん、どうしたの?」
「ちょっと飲み会あってさ。飲みすぎちゃって……電話したくなった」
「飲み会終わったの? 大丈夫?」
いつもより、少し弱々しい声に聞こえた。
本当に大丈夫なのかな。
酔っているなら、放っておけない。
「迎えいく?」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
それから、晃哉が少し笑った。
「いつもと立場逆だね」
「ふふっ、そうだね」
いつもなら、迎えに来てもらうのは私のほうだった。
なんだか可笑しくて、私も笑った。
そして、少し間を置いてから、晃哉が言った。
「唯、ごめん。もし来れたら、迎え来て」
「うん。いいよ」
迷うことなんてなかった。
むしろ、会えることが嬉しかった。
急いで支度をして、晃哉のところへ向かった。
*
「こうちゃん」
声をかけると、晃哉がゆっくり顔を上げた。
「はい、お水」
持ってきた水を渡す。
「ありがとう」
「こうちゃん、どうしたの? 珍しいね。なんかあった?」
いつもと少し違う。
酔っているからなのかな。
それとも、何か嫌なことでもあったのかな。
けれど晃哉は、いつものように笑った。
「なんもだよ。ただ、ちょっと飲みすぎちゃって」
「そっか」
「唯、ありがとう。ごめんな」
「もう。そんな謝らなくていいよ」
私は笑った。
三日ぶりに会えた。
それだけで嬉しかった。
部屋の鍵が開く。
扉が閉まる。
電気をつける前の暗い部屋の中で、突然、晃哉に抱きしめられた。
「こうちゃん……なしたの?」
返事はなかった。
ただ、いつもより強く抱きしめられる。
背中に手を回して、ゆっくり撫でた。
「大丈夫だよ」
そう言うと、晃哉が少しだけ身体を離した。
その顔を見つめる。
何かを言いたそうなのに、何も言わない。
そして、唇が重なった。
突然のことに、少し驚いた。
いつもの晃哉とは違っていた。
もっと慎重で、私のことをいつも気にしてくれる人だった。
なのに、その夜の晃哉は、何かに追われるように私を求めていた。
「……こうちゃん」
呼んでも、すぐには離れてくれない。
私はただ、その背中にそっと手を回した。
何があったのかは、わからなかった。
それでも――
こうして会いたいと思ってくれたことが、嬉しかった。
そのときだった。
突然、携帯が音を立てた。
「こ、こうちゃん……電話……」
晃哉の動きが止まった。
テーブルの上に置かれた携帯。
画面には、前にも見えた名前が表示されていた。
一瞬、身体が強張る。
晃哉も、その画面を見ていた。
けれど、電話に出ようとはしなかった。
「いい。大丈夫」
そう言って、私をもう一度強く抱きしめる。
「地元の友達」
「……そっか」
私は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、抱きしめられたまま、晃哉の胸に頬を寄せた。
三日間、連絡がなかった理由なんて知らなかった。
晃哉が何を考えていたのかも。
何に苦しんでいたのかも。
私は何も知らなかった。
ただ、
また忙しかったんだろうな。
そう思っていた。
そしてこの夜もまた、晃哉の腕の中にいられることが嬉しかった。
それだけだった。
*
ねぇ、こうちゃん。
女の人の名前が、夜に電話に表示されたこと。
私は、前にも知っていたんだ…
それでも、こうちゃんの言葉を信じてた。
……ううん。
今思えば、信じようとしていたのかもしれない。
あの頃の私は、恐ろしいくらい真っ直ぐで、素直だった。
好きな人の言葉を疑うなんて、考えもしなかった。
だから、あの夜のあなたの表情も。
少しだけ弱く聞こえた声も。
何かを抱えているような、その腕の力も。
私はちゃんと見ていたはずなのに。
気づいてあげられていたのかな。
今になって思う。
多くを語らないこうちゃんが、何を考えているのかわからなくて。
私はいつも、言葉の代わりに自分の気持ちをまっすぐぶつけていたね。
その真っ直ぐさが、もしかしたら――
こうちゃんを苦しめていたのかもしれないね。
私が笑えば、こうちゃんも笑ってくれる。
私が会いたいと言えば、会ってくれる。
そんなふうに、私は信じていた。
でも、本当はその裏側で、こうちゃんは何かと闘っていたのかもしれない。
私は知らなかった。
知ろうとすることさえ、できていなかった。
それでも。
もしあの頃のこうちゃんが、私を逃げ道にしていたのだとしても――
それでも、よかった。
少なくとも私は、そう思っていた。
自分以外の誰かを、こんなにも大切だと思えたこと。
誰かのそばにいたい。
その人の力になりたい。
その人が苦しんでいるなら、少しでも支えてあげたい。
そんなふうに思えたのは、こうちゃんが初めてだった。
子供だったのかもしれない。
何も知らなかった。
恋に夢中になって、自分の気持ちばかりを信じていた。
それでも――
私は、こうちゃんの支えになりたかった。
ただ、それだけだった。
あの頃の私は、それが愛するということだと思っていた。
目を覚ましたとき、隣に晃哉がいたこと。
眠そうに笑う顔を見たこと。
帰り際に交わした「またね」という言葉。
何度思い返しても、胸の奥がふわっと温かくなる。
夢じゃなかったんだ。
そう思うだけで、自然と顔が緩んでしまう。
初めて結ばれた夜。
ずっと心の奥にしまっていた想いが、あの夜だけは隠せなくなった。
晃哉の腕の中にいることが嬉しくて。
怖いくらい、幸せだった。
だから、三日間連絡がなくても、それほど気にしていなかった。
きっと仕事が忙しいんだ。
晃哉は昔から、忙しくなると連絡が途切れることがあった。
だから私は、
「また落ち着いたら連絡くれるよね」
そう思っていた。
携帯を確認する回数は、少しだけ増えた。
けれど、メールが来ていないことを確認すると、
「忙しいんだろうな」
と、自分に言い聞かせるように携帯を伏せた。
それでも、ふとした瞬間にあの朝を思い出した。
布団の中で交わした言葉。
触れた手。
晃哉の温度。
思い出すたびに、胸がきゅっと締めつけられる。
幸せだった。
あまりにも幸せだったから、その先に何が待っているのかなんて、あの頃の私は考えもしなかった。
三日目の夜。
お風呂から上がって、髪を乾かしていると、携帯が鳴った。
画面に表示された名前を見て、思わず手が止まる。
「……こうちゃん?」
慌てて電話に出た。
「もしもし?」
「唯、ごめん。今、何してた?」
少し掠れた晃哉の声。
三日ぶりに聞くその声に、胸が弾んだ。
「今、お風呂上がったとこだよ? こうちゃん、どうしたの?」
「ちょっと飲み会あってさ。飲みすぎちゃって……電話したくなった」
「飲み会終わったの? 大丈夫?」
いつもより、少し弱々しい声に聞こえた。
本当に大丈夫なのかな。
酔っているなら、放っておけない。
「迎えいく?」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
それから、晃哉が少し笑った。
「いつもと立場逆だね」
「ふふっ、そうだね」
いつもなら、迎えに来てもらうのは私のほうだった。
なんだか可笑しくて、私も笑った。
そして、少し間を置いてから、晃哉が言った。
「唯、ごめん。もし来れたら、迎え来て」
「うん。いいよ」
迷うことなんてなかった。
むしろ、会えることが嬉しかった。
急いで支度をして、晃哉のところへ向かった。
*
「こうちゃん」
声をかけると、晃哉がゆっくり顔を上げた。
「はい、お水」
持ってきた水を渡す。
「ありがとう」
「こうちゃん、どうしたの? 珍しいね。なんかあった?」
いつもと少し違う。
酔っているからなのかな。
それとも、何か嫌なことでもあったのかな。
けれど晃哉は、いつものように笑った。
「なんもだよ。ただ、ちょっと飲みすぎちゃって」
「そっか」
「唯、ありがとう。ごめんな」
「もう。そんな謝らなくていいよ」
私は笑った。
三日ぶりに会えた。
それだけで嬉しかった。
部屋の鍵が開く。
扉が閉まる。
電気をつける前の暗い部屋の中で、突然、晃哉に抱きしめられた。
「こうちゃん……なしたの?」
返事はなかった。
ただ、いつもより強く抱きしめられる。
背中に手を回して、ゆっくり撫でた。
「大丈夫だよ」
そう言うと、晃哉が少しだけ身体を離した。
その顔を見つめる。
何かを言いたそうなのに、何も言わない。
そして、唇が重なった。
突然のことに、少し驚いた。
いつもの晃哉とは違っていた。
もっと慎重で、私のことをいつも気にしてくれる人だった。
なのに、その夜の晃哉は、何かに追われるように私を求めていた。
「……こうちゃん」
呼んでも、すぐには離れてくれない。
私はただ、その背中にそっと手を回した。
何があったのかは、わからなかった。
それでも――
こうして会いたいと思ってくれたことが、嬉しかった。
そのときだった。
突然、携帯が音を立てた。
「こ、こうちゃん……電話……」
晃哉の動きが止まった。
テーブルの上に置かれた携帯。
画面には、前にも見えた名前が表示されていた。
一瞬、身体が強張る。
晃哉も、その画面を見ていた。
けれど、電話に出ようとはしなかった。
「いい。大丈夫」
そう言って、私をもう一度強く抱きしめる。
「地元の友達」
「……そっか」
私は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、抱きしめられたまま、晃哉の胸に頬を寄せた。
三日間、連絡がなかった理由なんて知らなかった。
晃哉が何を考えていたのかも。
何に苦しんでいたのかも。
私は何も知らなかった。
ただ、
また忙しかったんだろうな。
そう思っていた。
そしてこの夜もまた、晃哉の腕の中にいられることが嬉しかった。
それだけだった。
*
ねぇ、こうちゃん。
女の人の名前が、夜に電話に表示されたこと。
私は、前にも知っていたんだ…
それでも、こうちゃんの言葉を信じてた。
……ううん。
今思えば、信じようとしていたのかもしれない。
あの頃の私は、恐ろしいくらい真っ直ぐで、素直だった。
好きな人の言葉を疑うなんて、考えもしなかった。
だから、あの夜のあなたの表情も。
少しだけ弱く聞こえた声も。
何かを抱えているような、その腕の力も。
私はちゃんと見ていたはずなのに。
気づいてあげられていたのかな。
今になって思う。
多くを語らないこうちゃんが、何を考えているのかわからなくて。
私はいつも、言葉の代わりに自分の気持ちをまっすぐぶつけていたね。
その真っ直ぐさが、もしかしたら――
こうちゃんを苦しめていたのかもしれないね。
私が笑えば、こうちゃんも笑ってくれる。
私が会いたいと言えば、会ってくれる。
そんなふうに、私は信じていた。
でも、本当はその裏側で、こうちゃんは何かと闘っていたのかもしれない。
私は知らなかった。
知ろうとすることさえ、できていなかった。
それでも。
もしあの頃のこうちゃんが、私を逃げ道にしていたのだとしても――
それでも、よかった。
少なくとも私は、そう思っていた。
自分以外の誰かを、こんなにも大切だと思えたこと。
誰かのそばにいたい。
その人の力になりたい。
その人が苦しんでいるなら、少しでも支えてあげたい。
そんなふうに思えたのは、こうちゃんが初めてだった。
子供だったのかもしれない。
何も知らなかった。
恋に夢中になって、自分の気持ちばかりを信じていた。
それでも――
私は、こうちゃんの支えになりたかった。
ただ、それだけだった。
あの頃の私は、それが愛するということだと思っていた。