残響
夏まで、二人はしばらく会わなかった。
唯は研修先で知り合った、他社の男性から何度か食事に誘われていた。
「今度、ご飯だけでもどうですか?」
そう言われても、唯にはその気はなかった。
けれど、共通の知り合いである会社の先輩から、
「一度だけ行ってあげてほしい」
と頼まれた。
唯は少し迷ったあと、一度だけなら、と食事に行くことにした。
それは、本当にただの食事のつもりだった。
けれど――。
そんな日に限って、しばらく連絡のなかった晃哉から、突然電話がかかってきた。
携帯の画面に表示された名前を見て、唯は一瞬、動きを止めた。
――どうして、今なんだろう。
目の前には、一緒に食事をしている男性がいる。
さすがに電話には出られず、唯は画面を伏せた。
そして、すぐにメールを送った。
「今、会社の人とご飯食べてた。どうしたの?」
ほどなくして、晃哉から返事が届いた。
「最近どうしてた?」
「普通だよ。研修行ったり、その人とご飯に来てたよ」
少しして、
「そっか。終わったら電話ちょうだい」
と返ってきた。
それだけだった。
短い文章。
いつもと変わらない、晃哉らしい言葉。
けれど、唯はなぜか少しだけ落ち着かなかった。
「急用? 大丈夫?」
向かいに座っていた男性が、唯の顔を覗き込む。
「すみません、大丈夫です。友達」
唯は笑って、何事もなかったように料理に口をつけた。
食事を終える頃には、晃哉からのメールのことも、少しずつ頭の片隅へ追いやられていた。
帰り道。
男性が車で唯を送ってくれた。
夜の街を流れる明かりを眺めながら、男性がふいに口を開く。
「俺さ、唯ちゃんのこと気になってて。またご飯行けたら嬉しいな」
唯は少しだけ戸惑った。
けれど、相手は会社の先輩の知り合いでもある。
嫌な顔をすることなんてできなかった。
「今日は、ありがとうございました。是非、また」
そう言って、にっこり笑う。
車を降りると、唯は小さく頭を下げた。
車が見えなくなるまで見送ってから、ふと携帯を取り出す。
時計は、もうすぐ日付が変わろうとしていた。
――寝てるかな。
少し迷ってから、唯は晃哉に電話をかけた。
数回の呼び出し音。
やがて、電話がつながった。
「……もしもし?」
少し低い、晃哉の声。
「もしもし。こうちゃん。今終わって帰ってきたよ」
「会社の人とご飯行ってたの?」
短い問いかけだった。
「あ、正確にはね。会社の先輩の知り合い。この前の研修で一緒になって、ご飯だけでもって言われて……」
唯がそう説明している間、電話の向こうは静かだった。
「……そうなんだ」
少しだけ間があった。
「今どこ?」
「今、おうちに送ってもらって、家の近くだよ」
「お酒、飲んでる?」
「うん! ちょーっとだけね」
唯は笑った。
そして、いつものように甘える。
「こうちゃん、会いたい。迎えにきて~!」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。
ほんの数秒。
「……うん。今から行く。待ってて」
晃哉は、それだけ言った。
*
しばらくして、晃哉の車が見えた。
「こうちゃん!」
唯が嬉しそうに駆け寄る。
晃哉は車を降りると、唯を一度だけ見た。
そして、何も言わずに視線を落とす。
ミニスカート。
その視線が、ほんの一瞬だけそこに止まった。
「唯、風邪引くよ」
そっけない声だった。
「可愛い? 可愛い?」
唯が覗き込むように聞く。
晃哉は少しだけ眉を上げた。
「……はいはい。可愛い、可愛い」
「えへへへ。嬉しいなぁ」
「褒めてないって(笑)」
「もー!」
唯が頬を膨らませる。
晃哉はそんな唯を見て、ふっと小さく笑った。
そして、何も言わずに唯の頭に手を置く。
優しく、髪を撫でる。
その手つきは、いつもと変わらなかった。
けれど――。
あの夜、晃哉は何度か唯の顔を見ていた。
車を走らせながら。
信号で止まったとき。
唯が楽しそうに話しているとき。
そのたびに、ちらりと視線を向けては、すぐに前を向く。
唯は、それに気づかなかった。
ただ、こうちゃんが迎えに来てくれた。
それだけで嬉しかった。
*
晃哉は、放っておけば唯がどこかへ行ってしまうことを、少しだけ気にしていた。
唯本人には、そんなつもりなんてなかった。
ただ一度、頼まれて食事に行っただけ。
ただ、普通に笑って、普通に帰ってきただけ。
それでも晃哉の目には、その「ただの食事」が、自分の知らない時間に見えていたのかもしれない。
自分が知らない場所で。
自分が知らない人と。
唯が笑っている。
そう思うたびに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
だからといって、何かを言うわけでもない。
問い詰めることもしない。
ただ、少しだけ早く迎えに来る。
少しだけ長く唯を見る。
そんな小さな仕草の中に、言葉にしない感情が滲んでいた。
それでも、二人が会えば何も変わらなかった。
笑って、話して。
いつものように一緒に過ごす。
そして身体を重ねれば、その時間だけは、まるで何も問題がないかのようだった。
けれど、朝になれば、それぞれの日常へ戻っていく。
付き合っているわけでもない。
終わっているわけでもない。
ただ、会えばお互いを求めてしまう。
そんな曖昧な関係が、何度も繰り返されていた。
離れている時間には、それぞれの生活がある。
けれど、会えばまた、昨日までの続きを始められる。
そんな関係に、二人とも慣れてしまっていた。
そして、その慣れがあるからこそ。
本当に失うかもしれない瞬間が来るなんて、まだ誰も考えていなかった。
ねぇ、こうちゃん。
あの頃の私は、いつだってこうちゃんが世界の中心だった。
今の私なら、わかるのに。
焼きもちなんて、ほとんど見せなかったこうちゃん。
だから私は、ずっと、自分だけが好きなんだと思ってた。
こうちゃんの気まぐれだったとしても。
都合のいい女だったとしても。
それでも、よかった。
こうちゃんに会えるなら、それでよかった。
だから、あの頃の私は――
自分だけが辛いんだと思っていた。
こうちゃんは何も感じていない。
私だけが会いたくて。
私だけが離れたくなくて。
私だけが、この関係にしがみついているんだと思っていた。
でも。
今になって思う。
あの夜、何度も私の顔を見ていたこと。
ミニスカートを見て、何気なく「風邪引くよ」と言ったこと。
そして、私が「会いたい」と甘えたら、迷うことなく迎えに来てくれたこと。
あれは、言葉にされなかっただけで。
こうちゃんの中にも、私を失いたくない気持ちがあったのかもしれない。
私は、何もわかっていなかった。
自分だけが辛いと、そう思い込んでいただけだったのかもしれないね。
唯は研修先で知り合った、他社の男性から何度か食事に誘われていた。
「今度、ご飯だけでもどうですか?」
そう言われても、唯にはその気はなかった。
けれど、共通の知り合いである会社の先輩から、
「一度だけ行ってあげてほしい」
と頼まれた。
唯は少し迷ったあと、一度だけなら、と食事に行くことにした。
それは、本当にただの食事のつもりだった。
けれど――。
そんな日に限って、しばらく連絡のなかった晃哉から、突然電話がかかってきた。
携帯の画面に表示された名前を見て、唯は一瞬、動きを止めた。
――どうして、今なんだろう。
目の前には、一緒に食事をしている男性がいる。
さすがに電話には出られず、唯は画面を伏せた。
そして、すぐにメールを送った。
「今、会社の人とご飯食べてた。どうしたの?」
ほどなくして、晃哉から返事が届いた。
「最近どうしてた?」
「普通だよ。研修行ったり、その人とご飯に来てたよ」
少しして、
「そっか。終わったら電話ちょうだい」
と返ってきた。
それだけだった。
短い文章。
いつもと変わらない、晃哉らしい言葉。
けれど、唯はなぜか少しだけ落ち着かなかった。
「急用? 大丈夫?」
向かいに座っていた男性が、唯の顔を覗き込む。
「すみません、大丈夫です。友達」
唯は笑って、何事もなかったように料理に口をつけた。
食事を終える頃には、晃哉からのメールのことも、少しずつ頭の片隅へ追いやられていた。
帰り道。
男性が車で唯を送ってくれた。
夜の街を流れる明かりを眺めながら、男性がふいに口を開く。
「俺さ、唯ちゃんのこと気になってて。またご飯行けたら嬉しいな」
唯は少しだけ戸惑った。
けれど、相手は会社の先輩の知り合いでもある。
嫌な顔をすることなんてできなかった。
「今日は、ありがとうございました。是非、また」
そう言って、にっこり笑う。
車を降りると、唯は小さく頭を下げた。
車が見えなくなるまで見送ってから、ふと携帯を取り出す。
時計は、もうすぐ日付が変わろうとしていた。
――寝てるかな。
少し迷ってから、唯は晃哉に電話をかけた。
数回の呼び出し音。
やがて、電話がつながった。
「……もしもし?」
少し低い、晃哉の声。
「もしもし。こうちゃん。今終わって帰ってきたよ」
「会社の人とご飯行ってたの?」
短い問いかけだった。
「あ、正確にはね。会社の先輩の知り合い。この前の研修で一緒になって、ご飯だけでもって言われて……」
唯がそう説明している間、電話の向こうは静かだった。
「……そうなんだ」
少しだけ間があった。
「今どこ?」
「今、おうちに送ってもらって、家の近くだよ」
「お酒、飲んでる?」
「うん! ちょーっとだけね」
唯は笑った。
そして、いつものように甘える。
「こうちゃん、会いたい。迎えにきて~!」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。
ほんの数秒。
「……うん。今から行く。待ってて」
晃哉は、それだけ言った。
*
しばらくして、晃哉の車が見えた。
「こうちゃん!」
唯が嬉しそうに駆け寄る。
晃哉は車を降りると、唯を一度だけ見た。
そして、何も言わずに視線を落とす。
ミニスカート。
その視線が、ほんの一瞬だけそこに止まった。
「唯、風邪引くよ」
そっけない声だった。
「可愛い? 可愛い?」
唯が覗き込むように聞く。
晃哉は少しだけ眉を上げた。
「……はいはい。可愛い、可愛い」
「えへへへ。嬉しいなぁ」
「褒めてないって(笑)」
「もー!」
唯が頬を膨らませる。
晃哉はそんな唯を見て、ふっと小さく笑った。
そして、何も言わずに唯の頭に手を置く。
優しく、髪を撫でる。
その手つきは、いつもと変わらなかった。
けれど――。
あの夜、晃哉は何度か唯の顔を見ていた。
車を走らせながら。
信号で止まったとき。
唯が楽しそうに話しているとき。
そのたびに、ちらりと視線を向けては、すぐに前を向く。
唯は、それに気づかなかった。
ただ、こうちゃんが迎えに来てくれた。
それだけで嬉しかった。
*
晃哉は、放っておけば唯がどこかへ行ってしまうことを、少しだけ気にしていた。
唯本人には、そんなつもりなんてなかった。
ただ一度、頼まれて食事に行っただけ。
ただ、普通に笑って、普通に帰ってきただけ。
それでも晃哉の目には、その「ただの食事」が、自分の知らない時間に見えていたのかもしれない。
自分が知らない場所で。
自分が知らない人と。
唯が笑っている。
そう思うたびに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
だからといって、何かを言うわけでもない。
問い詰めることもしない。
ただ、少しだけ早く迎えに来る。
少しだけ長く唯を見る。
そんな小さな仕草の中に、言葉にしない感情が滲んでいた。
それでも、二人が会えば何も変わらなかった。
笑って、話して。
いつものように一緒に過ごす。
そして身体を重ねれば、その時間だけは、まるで何も問題がないかのようだった。
けれど、朝になれば、それぞれの日常へ戻っていく。
付き合っているわけでもない。
終わっているわけでもない。
ただ、会えばお互いを求めてしまう。
そんな曖昧な関係が、何度も繰り返されていた。
離れている時間には、それぞれの生活がある。
けれど、会えばまた、昨日までの続きを始められる。
そんな関係に、二人とも慣れてしまっていた。
そして、その慣れがあるからこそ。
本当に失うかもしれない瞬間が来るなんて、まだ誰も考えていなかった。
ねぇ、こうちゃん。
あの頃の私は、いつだってこうちゃんが世界の中心だった。
今の私なら、わかるのに。
焼きもちなんて、ほとんど見せなかったこうちゃん。
だから私は、ずっと、自分だけが好きなんだと思ってた。
こうちゃんの気まぐれだったとしても。
都合のいい女だったとしても。
それでも、よかった。
こうちゃんに会えるなら、それでよかった。
だから、あの頃の私は――
自分だけが辛いんだと思っていた。
こうちゃんは何も感じていない。
私だけが会いたくて。
私だけが離れたくなくて。
私だけが、この関係にしがみついているんだと思っていた。
でも。
今になって思う。
あの夜、何度も私の顔を見ていたこと。
ミニスカートを見て、何気なく「風邪引くよ」と言ったこと。
そして、私が「会いたい」と甘えたら、迷うことなく迎えに来てくれたこと。
あれは、言葉にされなかっただけで。
こうちゃんの中にも、私を失いたくない気持ちがあったのかもしれない。
私は、何もわかっていなかった。
自分だけが辛いと、そう思い込んでいただけだったのかもしれないね。