残響
何度、空を見上げただろう。
何度、あなたを思っただろう。
どこかで笑っていますように。
あなたの努力が、いつかちゃんと報われますように。
あなたを取り巻くすべてが、優しさで溢れていますように。
そんなことを願いながら見上げた空は、いつも何も答えてくれなかった。
ただ、そこにあるだけだった。
それでも唯は、空を見るたびに晃哉を思い出していた。
会いたい。
その気持ちは、時間が経っても消えることがなかった。
むしろ、会えた日は決まって、もっと会いたくなった。
少し話せただけで嬉しい。
顔を見られただけで嬉しい。
名前を呼ばれただけで嬉しい。
それなのに。
嬉しいはずなのに、その先が欲しくなってしまう。
もっと知りたい。
もっと近くにいたい。
もっと自分だけを見てほしい。
そんなふうに思ってしまう自分が、唯は時々嫌だった。
知らなくてもよかったことまで知ってしまう。
聞かなくてもよかったことまで、耳に入ってくる。
そのたびに胸がざわついて、考えたくないことばかり考えてしまう。
だから、この日は。
何も考えたくなかった。
Sugarでは、イベントが開催されていた。
店内にはいつもより多くの人が集まり、熱気がこもっていた。
パンジャビの音楽が大音量で流れ、そのリズムに合わせるように、あちらこちらから声が飛ぶ。
「おんなー!」
「飲めー!」
笑い声。
歓声。
グラスがぶつかる音。
音楽の低音が身体の奥まで響いてくる。
ステージの上ではMCがマイクを握り、客を煽っていた。
「これ飲んだらCDプレゼントー!」
その声に、唯は顔を上げた。
手には、いつの間にかワインの瓶があった。
もう、かなり飲んでいた。
それでも、今夜だけは酔ってしまいたかった。
何も考えなくて済むくらい。
胸の奥にあるものを、全部ぐちゃぐちゃにしてしまえるくらい。
唯は勢いよく手を挙げた。
「唯!」
隣にいた澄香が驚いた顔をする。
「飲みすぎ!」
「大丈夫、大丈夫」
笑ってみせる。
けれど、頭はもう少しふわふわしていた。
ステージの上には晃哉もいた。
その姿が見える。
それだけで、胸が少しだけ苦しくなった。
どうして。
どうして、会えるとこんなに嬉しいんだろう。
どうして、近くにいるだけでこんなに安心するんだろう。
そして。
どうして、安心すると、その分だけ欲しくなるんだろう。
「はい、そこのクソ可愛いギャル!」
MCの声が飛んできた。
唯は笑った。
澄香に向かって、
「大丈夫だから」
と口元だけで伝える。
そして、ふらつきながらステージへ向かった。
ステージに上がると、さらに大きな歓声が上がった。
ジャックダニエルの瓶を受け取る。
それを頭上に掲げる。
「かわいいー!」
「おんなー!」
いろんな声が飛んでくる。
唯は笑った。
笑うしかなかった。
そのときだった。
「唯!」
ふと、後ろから聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこに晃哉がいた。
少し呆れたような顔。
そして、首を横に振っている。
その表情を見た瞬間、唯は思わず笑ってしまった。
「こうちゃん……」
声には出さず、ピースをする。
そして、そのまま瓶を口元へ運んだ。
「おーおぉぉ、いくね、いくね!」
MCがさらに盛り上げる。
歓声が大きくなる。
パンジャビの音楽が鳴っている。
人が笑っている。
誰かが叫んでいる。
なのに。
唯の耳には、少しずつそのすべてが遠くなっていった。
音がぼやける。
視界が揺れる。
身体の感覚まで、少しずつ曖昧になっていく。
それでも、頭の中だけは妙に鮮明だった。
何も考えたくない。
今日は。
何も。
考えたくない。
会えれば幸せだった。
それだけでいいと思っていた。
でも。
会えば会うほど、もっと欲しくなる。
もっと近くにいたくなる。
もっと知りたくなる。
知らなくてもいいことまで聞こえてきて。
知りたくなかった現実まで見えてしまって。
そのたびに、自分の中の小さな期待が傷ついていく。
だから今日は。
酔ってしまえばいい。
何も考えられなくなればいい。
そんなことを思ったところで、身体がぐらりと傾いた。
「唯!」
澄香が駆け寄ってきた。
そのまま唯の身体を抱えるようにして、トイレへ連れていく。
「唯! 今日、無茶しすぎだよ!」
「大丈夫だぁって……」
自分でも驚くほど、声がふにゃふにゃしている。
「酔わないとやってらんない日もあるのー」
笑ってみせる。
でも、その笑顔の奥には、笑えないものがたくさんあった。
「唯……ほら、吐きな。水持ってくるから!」
澄香が心配そうに言って、外へ出ていく。
扉が閉まる。
急に静かになった。
店内の音が少し遠くから聞こえる。
唯は一人、便器の前でしゃがみ込んだ。
さっきまで騒がしかった世界が、嘘みたいに遠い。
胸の奥が、ぽっかりと空いている。
「……なんも考えたくない」
ぽつりと呟いた。
誰に聞かせるわけでもない。
ただ、自分に言い聞かせるように。
何も考えたくない。
晃哉のことも。
晃哉の周りにあるものも。
自分が知らなくてもいいことも。
全部。
全部、忘れてしまいたかった。
けれど。
忘れようとするほど、浮かんでくる。
あの日の顔。
声。
手。
笑い方。
自分を心配する目。
それらだけは、どんなに酔っても消えてくれなかった。
やがて澄香が戻ってきた。
「唯! 大丈夫?」
「うん……吐いたら落ち着いたよ。水、ありがとう」
唯は水を受け取り、少しずつ飲んだ。
「まったくもう笑 ステージ、ちょー盛り上がってたけどさぁ……」
澄香は呆れたように笑う。
「晃哉さん、まじ心配して見てたよ?」
その言葉に、唯の胸が小さく跳ねた。
「……あ、やば」
わざと明るく笑う。
「怒られちゃう笑」
本当は。
少し嬉しかった。
心配してくれていた。
それだけのことで、胸の奥が温かくなる。
そんな自分が、また少し嫌になる。
「よーし、すっきりした!」
唯は立ち上がった。
「澄香、楽しも!」
無理やり明るい声を出す。
笑顔を作る。
何もなかったような顔をして。
トイレの扉を開けた。
すると。
そこに晃哉がいた。
腕を組んで、立っていた。
「わっ!」
唯は思わず声を上げる。
「こうちゃん」
晃哉は何も言わず、唯を見る。
「……飲みすぎ」
「やだ、怒んないでー」
唯は笑って、少しだけ逃げるように身体を傾けた。
「怒ってないよ」
晃哉はそう言った。
けれど、顔は笑っていなかった。
「心配なるから。飲みすぎ注意ね」
その声は、優しかった。
だから余計に苦しかった。
「はぁい。ごめんなさぁい」
唯は子供みたいに返事をする。
その瞬間、さっきのMCがやってきた。
「あ、いたいた。はい、CD」
「ありがとう」
唯はCDを受け取り、にっこり笑った。
その手を。
晃哉がそっと引いた。
「ちょっと外、行くよ」
店の外に出る。
夜の空気が頬に触れた。
店内の熱気が嘘のように、外は少しひんやりしていた。
晃哉は煙草に火をつけた。
その横顔を、唯はぼんやり見つめる。
やっぱり。
好きだな。
そう思ってしまった。
どれだけ時間が経っても。
何度傷ついても。
こうして目の前にいると、全部どうでもよくなる。
「ちょっと外の空気吸いな」
「うん……ちょっと飲みすぎたかもぉ」
「ちょっとどころじゃないよね?」
晃哉が呆れたように笑う。
「ワイン瓶持って登場するって、なに笑」
「え?」
唯は少し考えてから、
「あ、なんか澄香がくれて笑」
と答えた。
晃哉は呆れたように唯を見る。
そして。
優しく、唯の頭をぽん、と叩いた。
「怒るよ?」
そう言って、少しだけ笑った。
その笑顔を見て。
唯も笑った。
でも。
胸の奥では、泣きそうだった。
こうちゃん。
私は、お酒の飲み方もわからない子供だったね。
無鉄砲で。
後先なんて考えなくて。
自分がどこまで飲めるのかもわからなくて。
何度も無茶をして。
そのたびに、こうちゃんは心配してくれた。
トイレから出ると、こうちゃんが立っていることがよくあったね。
まるで、
「またやったの?」
って言うみたいな顔をして。
呆れて。
それでも、ちゃんとそこにいてくれた。
こうちゃんからしたら。
私は、本当に手のかかる子供だったのかもしれない。
でも。
そんな私に、こうちゃんはたくさんのことを教えてくれた。
お酒の飲み方も。
人を好きになることも。
誰かを大切に思うことも。
嬉しいことも。
寂しいことも。
そして。
好きな人が、いつも自分のそばにいてくれるとは限らないことも。
私は、こうちゃんと過ごした時間の中で、たくさんのことを知った。
大人になったつもりだった。
一人でなんでもできると思っていた。
でも。
こうちゃんの前では、今でもあの頃の自分に戻ってしまう。
怒られたくなくて笑って。
心配されると嬉しくて。
頭をぽんとされるだけで、胸がいっぱいになる。
ねぇ、こうちゃん。
私ね。
ずっと、こうちゃんのことが特別なんだよ。
きっとこれから先も。
何年経っても。
何十年経っても。
あなたのことだけは、私の一部みたいに、いつまでも鮮明に覚えているんだ。
声も。
笑った顔も。
少し呆れたような顔も。
私が無茶をしたときの、あの心配そうな目も。
全部。
時間が経てば、いろんなことを忘れていくのに。
どうしてあなたのことだけは、こんなにも消えないんだろう。
あの日の夜空も。
あなたの隣にいた時間も。
私があなたを見つめていた瞬間も。
きっと、私の中からなくなることはない。
だから。
私は今日も空を見上げる。
あなたがどこかで笑っていますように。
あなたの努力が報われますように。
あなたを取り巻くすべてが、優しさで溢れていますように。
会えなくても。
話せなくても。
もう同じ場所にいなくても。
あなたが幸せでいてくれたらいい。
そう願えるくらいには、私は大人になった。
……たぶん。
それでも。
本当の心の奥では。
今でも、あなたに会いたいと思っている。
会えば幸せで。
会えば、もっと欲しくなる。
そんな自分を抱えたまま。
私はまた、夜空を見上げる。
そして心の中で、そっと名前を呼ぶ。
こうちゃん。
私にとって、あなたはずっと。
特別な人だよ。
何度、あなたを思っただろう。
どこかで笑っていますように。
あなたの努力が、いつかちゃんと報われますように。
あなたを取り巻くすべてが、優しさで溢れていますように。
そんなことを願いながら見上げた空は、いつも何も答えてくれなかった。
ただ、そこにあるだけだった。
それでも唯は、空を見るたびに晃哉を思い出していた。
会いたい。
その気持ちは、時間が経っても消えることがなかった。
むしろ、会えた日は決まって、もっと会いたくなった。
少し話せただけで嬉しい。
顔を見られただけで嬉しい。
名前を呼ばれただけで嬉しい。
それなのに。
嬉しいはずなのに、その先が欲しくなってしまう。
もっと知りたい。
もっと近くにいたい。
もっと自分だけを見てほしい。
そんなふうに思ってしまう自分が、唯は時々嫌だった。
知らなくてもよかったことまで知ってしまう。
聞かなくてもよかったことまで、耳に入ってくる。
そのたびに胸がざわついて、考えたくないことばかり考えてしまう。
だから、この日は。
何も考えたくなかった。
Sugarでは、イベントが開催されていた。
店内にはいつもより多くの人が集まり、熱気がこもっていた。
パンジャビの音楽が大音量で流れ、そのリズムに合わせるように、あちらこちらから声が飛ぶ。
「おんなー!」
「飲めー!」
笑い声。
歓声。
グラスがぶつかる音。
音楽の低音が身体の奥まで響いてくる。
ステージの上ではMCがマイクを握り、客を煽っていた。
「これ飲んだらCDプレゼントー!」
その声に、唯は顔を上げた。
手には、いつの間にかワインの瓶があった。
もう、かなり飲んでいた。
それでも、今夜だけは酔ってしまいたかった。
何も考えなくて済むくらい。
胸の奥にあるものを、全部ぐちゃぐちゃにしてしまえるくらい。
唯は勢いよく手を挙げた。
「唯!」
隣にいた澄香が驚いた顔をする。
「飲みすぎ!」
「大丈夫、大丈夫」
笑ってみせる。
けれど、頭はもう少しふわふわしていた。
ステージの上には晃哉もいた。
その姿が見える。
それだけで、胸が少しだけ苦しくなった。
どうして。
どうして、会えるとこんなに嬉しいんだろう。
どうして、近くにいるだけでこんなに安心するんだろう。
そして。
どうして、安心すると、その分だけ欲しくなるんだろう。
「はい、そこのクソ可愛いギャル!」
MCの声が飛んできた。
唯は笑った。
澄香に向かって、
「大丈夫だから」
と口元だけで伝える。
そして、ふらつきながらステージへ向かった。
ステージに上がると、さらに大きな歓声が上がった。
ジャックダニエルの瓶を受け取る。
それを頭上に掲げる。
「かわいいー!」
「おんなー!」
いろんな声が飛んでくる。
唯は笑った。
笑うしかなかった。
そのときだった。
「唯!」
ふと、後ろから聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこに晃哉がいた。
少し呆れたような顔。
そして、首を横に振っている。
その表情を見た瞬間、唯は思わず笑ってしまった。
「こうちゃん……」
声には出さず、ピースをする。
そして、そのまま瓶を口元へ運んだ。
「おーおぉぉ、いくね、いくね!」
MCがさらに盛り上げる。
歓声が大きくなる。
パンジャビの音楽が鳴っている。
人が笑っている。
誰かが叫んでいる。
なのに。
唯の耳には、少しずつそのすべてが遠くなっていった。
音がぼやける。
視界が揺れる。
身体の感覚まで、少しずつ曖昧になっていく。
それでも、頭の中だけは妙に鮮明だった。
何も考えたくない。
今日は。
何も。
考えたくない。
会えれば幸せだった。
それだけでいいと思っていた。
でも。
会えば会うほど、もっと欲しくなる。
もっと近くにいたくなる。
もっと知りたくなる。
知らなくてもいいことまで聞こえてきて。
知りたくなかった現実まで見えてしまって。
そのたびに、自分の中の小さな期待が傷ついていく。
だから今日は。
酔ってしまえばいい。
何も考えられなくなればいい。
そんなことを思ったところで、身体がぐらりと傾いた。
「唯!」
澄香が駆け寄ってきた。
そのまま唯の身体を抱えるようにして、トイレへ連れていく。
「唯! 今日、無茶しすぎだよ!」
「大丈夫だぁって……」
自分でも驚くほど、声がふにゃふにゃしている。
「酔わないとやってらんない日もあるのー」
笑ってみせる。
でも、その笑顔の奥には、笑えないものがたくさんあった。
「唯……ほら、吐きな。水持ってくるから!」
澄香が心配そうに言って、外へ出ていく。
扉が閉まる。
急に静かになった。
店内の音が少し遠くから聞こえる。
唯は一人、便器の前でしゃがみ込んだ。
さっきまで騒がしかった世界が、嘘みたいに遠い。
胸の奥が、ぽっかりと空いている。
「……なんも考えたくない」
ぽつりと呟いた。
誰に聞かせるわけでもない。
ただ、自分に言い聞かせるように。
何も考えたくない。
晃哉のことも。
晃哉の周りにあるものも。
自分が知らなくてもいいことも。
全部。
全部、忘れてしまいたかった。
けれど。
忘れようとするほど、浮かんでくる。
あの日の顔。
声。
手。
笑い方。
自分を心配する目。
それらだけは、どんなに酔っても消えてくれなかった。
やがて澄香が戻ってきた。
「唯! 大丈夫?」
「うん……吐いたら落ち着いたよ。水、ありがとう」
唯は水を受け取り、少しずつ飲んだ。
「まったくもう笑 ステージ、ちょー盛り上がってたけどさぁ……」
澄香は呆れたように笑う。
「晃哉さん、まじ心配して見てたよ?」
その言葉に、唯の胸が小さく跳ねた。
「……あ、やば」
わざと明るく笑う。
「怒られちゃう笑」
本当は。
少し嬉しかった。
心配してくれていた。
それだけのことで、胸の奥が温かくなる。
そんな自分が、また少し嫌になる。
「よーし、すっきりした!」
唯は立ち上がった。
「澄香、楽しも!」
無理やり明るい声を出す。
笑顔を作る。
何もなかったような顔をして。
トイレの扉を開けた。
すると。
そこに晃哉がいた。
腕を組んで、立っていた。
「わっ!」
唯は思わず声を上げる。
「こうちゃん」
晃哉は何も言わず、唯を見る。
「……飲みすぎ」
「やだ、怒んないでー」
唯は笑って、少しだけ逃げるように身体を傾けた。
「怒ってないよ」
晃哉はそう言った。
けれど、顔は笑っていなかった。
「心配なるから。飲みすぎ注意ね」
その声は、優しかった。
だから余計に苦しかった。
「はぁい。ごめんなさぁい」
唯は子供みたいに返事をする。
その瞬間、さっきのMCがやってきた。
「あ、いたいた。はい、CD」
「ありがとう」
唯はCDを受け取り、にっこり笑った。
その手を。
晃哉がそっと引いた。
「ちょっと外、行くよ」
店の外に出る。
夜の空気が頬に触れた。
店内の熱気が嘘のように、外は少しひんやりしていた。
晃哉は煙草に火をつけた。
その横顔を、唯はぼんやり見つめる。
やっぱり。
好きだな。
そう思ってしまった。
どれだけ時間が経っても。
何度傷ついても。
こうして目の前にいると、全部どうでもよくなる。
「ちょっと外の空気吸いな」
「うん……ちょっと飲みすぎたかもぉ」
「ちょっとどころじゃないよね?」
晃哉が呆れたように笑う。
「ワイン瓶持って登場するって、なに笑」
「え?」
唯は少し考えてから、
「あ、なんか澄香がくれて笑」
と答えた。
晃哉は呆れたように唯を見る。
そして。
優しく、唯の頭をぽん、と叩いた。
「怒るよ?」
そう言って、少しだけ笑った。
その笑顔を見て。
唯も笑った。
でも。
胸の奥では、泣きそうだった。
こうちゃん。
私は、お酒の飲み方もわからない子供だったね。
無鉄砲で。
後先なんて考えなくて。
自分がどこまで飲めるのかもわからなくて。
何度も無茶をして。
そのたびに、こうちゃんは心配してくれた。
トイレから出ると、こうちゃんが立っていることがよくあったね。
まるで、
「またやったの?」
って言うみたいな顔をして。
呆れて。
それでも、ちゃんとそこにいてくれた。
こうちゃんからしたら。
私は、本当に手のかかる子供だったのかもしれない。
でも。
そんな私に、こうちゃんはたくさんのことを教えてくれた。
お酒の飲み方も。
人を好きになることも。
誰かを大切に思うことも。
嬉しいことも。
寂しいことも。
そして。
好きな人が、いつも自分のそばにいてくれるとは限らないことも。
私は、こうちゃんと過ごした時間の中で、たくさんのことを知った。
大人になったつもりだった。
一人でなんでもできると思っていた。
でも。
こうちゃんの前では、今でもあの頃の自分に戻ってしまう。
怒られたくなくて笑って。
心配されると嬉しくて。
頭をぽんとされるだけで、胸がいっぱいになる。
ねぇ、こうちゃん。
私ね。
ずっと、こうちゃんのことが特別なんだよ。
きっとこれから先も。
何年経っても。
何十年経っても。
あなたのことだけは、私の一部みたいに、いつまでも鮮明に覚えているんだ。
声も。
笑った顔も。
少し呆れたような顔も。
私が無茶をしたときの、あの心配そうな目も。
全部。
時間が経てば、いろんなことを忘れていくのに。
どうしてあなたのことだけは、こんなにも消えないんだろう。
あの日の夜空も。
あなたの隣にいた時間も。
私があなたを見つめていた瞬間も。
きっと、私の中からなくなることはない。
だから。
私は今日も空を見上げる。
あなたがどこかで笑っていますように。
あなたの努力が報われますように。
あなたを取り巻くすべてが、優しさで溢れていますように。
会えなくても。
話せなくても。
もう同じ場所にいなくても。
あなたが幸せでいてくれたらいい。
そう願えるくらいには、私は大人になった。
……たぶん。
それでも。
本当の心の奥では。
今でも、あなたに会いたいと思っている。
会えば幸せで。
会えば、もっと欲しくなる。
そんな自分を抱えたまま。
私はまた、夜空を見上げる。
そして心の中で、そっと名前を呼ぶ。
こうちゃん。
私にとって、あなたはずっと。
特別な人だよ。