残響
ある休みの日の朝だった。
カーテンの隙間から差し込む光が、まだ眠りの残る部屋をぼんやりと照らしていた。
静かな部屋に、突然、携帯電話の着信音が響く。
知らない番号だった。
眠っていた唯は、布団の中でもぞもぞと身じろぎをして、重たい瞼を開ける。
「……だれだろ?」
寝ぼけたまま携帯を手に取り、表示された番号を眺める。
心当たりはない。
それでも、何か急ぎの用事かもしれないと思い、唯は通話ボタンを押した。
「……もしもーし?」
返事がない。
「……?」
しばらくの沈黙。
唯は小さくあくびをしながら、もう一度声をかける。
「あれ? もしもし?」
すると、電話の向こうから、かすかな女性の声が聞こえた。
「……あっ、あの……」
聞いたことのない声だった。
「……? はい。あ、だれですか?」
少しの間があってから、女性は慌てたように言った。
「……あ、間違え、間違えたの。ごめんなさい」
「え? 間違え??」
「はい……」
それだけ言うと、電話は切れた。
唯はしばらく携帯を見つめた。
「え? なんだ。間違い電話か……」
まだ眠気の残る頭では、それ以上考える気にもならない。
唯は携帯を枕元に置くと、もう一度布団に潜り込んだ。
「……眠い……」
その電話が何を意味していたのか。
このときの唯は、知る由もなかった。
٭❅
夕方。
外から部屋に入ってきた唯は、冷え切った身体を抱えるようにして、ストーブの前へ駆け寄った。
「ストーブあったかぁい!」
そのまま、ストーブの前で小さく丸まる。
頬は赤く、鼻の先まで冷たそうに赤くなっていた。
それを見た晃哉が、思わず吹き出す。
「ぷっ」
「なによぉ」
「……リアル猫笑」
お腹を抱えて笑う晃哉。
「まだ10月だっていうのになにこの寒さ~!」
唯は仕事の制服が入った荷物を置きながら、ストーブの温風に両手をかざした。
「寒すぎる……」
「一緒にお風呂入る?」
晃哉が、あまりにもさらりと言う。
唯は一瞬目を丸くして、それから頬を赤くした。
「やだやだ、恥ずかしいよ! 真っ暗にしてくれるならいいけど」
「真っ暗じゃ見えないしょ」
「見えるのが恥ずかしいの!」
唯は顔をしかめる。
「おうちで入ってきたから私! こうちゃんの変態!」
「ははは!」
晃哉の笑い声が部屋に響く。
結局、仕事が終わったばかりだからと、晃哉はシャワーを浴びに行った。
唯はその間、部屋の中をぼんやりと眺めていた。
いつもの部屋。
いつもの空気。
いつもの二人。
そんな何気ない時間の中で、ふと、ひとつの段ボール箱が目に入った。
トイレに行こうとした唯の足が止まる。
差出人の名前。
――岡崎 麻耶。
その文字を見た瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。
なぜだかわからない。
けれど、嫌な予感がした。
それでも唯は、自分に言い聞かせる。
お母さんかもしれない。
妹かもしれない。
きっと、そう。
それ以上考えないようにしていると、シャワーの音が止まった。
ほどなくして、晃哉が部屋へ戻ってくる。
「唯?」
「あ、トイレ行きたくなっちゃって」
「おう」
唯は何事もなかったように、その場を離れた。
そして部屋に戻ると、いつものように晃哉へ抱きついた。
「いいにおーい」
「シャワー浴びたばかりで臭かったらやばいわ笑」
「ふふっ」
そのまま晃哉の胸元に顔を埋める。
いつもの匂い。
いつもの温度。
いつもの安心感。
唯は少しだけ黙ってから、顔を上げた。
「ねぇ、こうちゃん? 私……」
「なした?」
晃哉が心配そうに唯を見る。
その優しい目を見た瞬間、唯は言葉を飲み込んだ。
「うぅん、なんでもない!」
そして、少しだけ笑って続ける。
「今日なんか変な電話あって起こされて。少し眠いだけ」
「そっか。じゃぁ、今日はいつもより早く寝ような?」
そう言って、晃哉が唯の頭をぽんぽんと撫でる。
その手が優しくて、唯は笑った。
「そう言って、いつも寝るよって言って騙すくせに~笑」
「笑! 騙してない、流れ流れ」
少し慌てたように言う晃哉。
「こうちゃん、紳士な仮面つけた変態だもん」
「失礼だなぁ~笑」
二人の笑い声が重なる。
いつもと変わらない。
そんなふうに、何でもない夜が過ぎていく。
二人はいつものように並んで座って話をした。
晃哉は時折レコードを変えに立ち上がり、唯はお酒を飲みながらソファーに身体を預ける。
流れてくる音楽。
ストーブの暖かさ。
お酒で少しずつ緩んでいく身体。
そして、隣にいる晃哉。
唯にとっては、それだけで十分だった。
けれど。
そんな時間の中に、唯はいつからか、ひとつの数字を意識するようになっていた。
――三年。
晃哉がここにいられる時間。
二人の間には、最初から見えない期限があった。
しばらくして、唯がぽつりと口を開く。
「ねぇ、こうちゃん?」
「ん?」
「こうちゃんは、来年いなくなっちゃうの?」
晃哉の手が止まる。
何も言わない。
唯はその沈黙だけで、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
「転勤……三年って言ってたよね?」
唯は、できるだけ明るく聞いた。
「一年半以上はここにいるから……来年、いなくなっちゃう?」
「……まだわからないんだ」
晃哉は少し考えてから答えた。
「なんか、延びるかもって話も出てきてて……」
「えっ?! 本当?!」
唯の顔が、一瞬で明るくなる。
まるで、暗い部屋に光が差し込んだみたいに。
「まだわかんないけどね……」
晃哉はそう付け加える。
「でも、もしいなくなっても会おうと思えば会えるしょ。会いに来るし」
唯は黙って聞いている。
「会社の人事だから、それはしゃぁない……」
その言葉を聞きながら、唯は唇を噛んだ。
頭ではわかっている。
転勤は晃哉が決めることじゃない。
仕事なら仕方がない。
離れたって、会おうと思えば会える。
そんなこともわかっている。
それでも。
唯にとっては、距離の問題だけではなかった。
「……いやだよ」
小さな声だった。
「こうちゃんに会えなくなるの嫌だよ」
唯の瞳に、少しずつ涙が溜まっていく。
「会いたい時に会えなくなるの……」
声が震える。
「この部屋から、こうちゃんがいなくなっちゃうの?」
晃哉は何も言わず、唯を見つめる。
「……いなくならないで……」
唯は俯いた。
「唯、置いていかないで……」
その言葉を聞いた晃哉は、唯をそっと抱きしめた。
温かい腕の中。
唯は目を閉じる。
この時間が、ずっと続けばいい。
そう願っていた。
けれど、心のどこかでは知っていた。
ずっと続くものなんて、きっとない。
ねぇ、こうちゃん。
私は、こうちゃんとの時間を過ごすたびに、いつしかタイムリミットがあることを感じていたのかもしれない。
だから。
いつか離れてしまうその日まで、見たくないものは見ないようにしていたのかもしれない。
こうちゃんがここへ来たばかりの頃に出会えた私たちには、最初から「三年」という期限があった。
三年しかない。
そう思えば思うほど、一日一日が愛しくなった。
こうちゃんは、私を悲しませないように嘘をついてくれたのかもしれない。
「延びるかもしれない」
その言葉を聞くたびに、私は一喜一憂していた。
来年も一緒にいられるかもしれない。
もう少し、この部屋でこうちゃんと過ごせるかもしれない。
そんな小さな希望に、私は何度も救われていた。
私は、あと一年しかこうちゃんといられないかもしれない。
だから、お願い。
それまでどうか、私からこうちゃんを奪わないでください。
いつからか私は、心の中で、こうちゃんの存在するかどうかもわからない「奥さん」に、そんなことを願っていた。
ねぇ、こうちゃん。
私は、ちゃんと笑えていたかな?
本当は怖かった。
いつか離れる日が来ることが。
それでも私は、こうちゃんの隣で笑っていた。
昔、こうちゃんは言ったよね。
「最後まで唯と一緒にいたしょ」
それが、自分なりの愛し方だったって。
……わかんないよ。
ちゃんと言ってくれなきゃ、わからないよ。
こうちゃんの本音は、いつも時間が経ってから私に伝わってきた。
そのときはわからなかったこと。
そのときには聞けなかったこと。
あとになって初めて、
「ああ、あれはそういう意味だったんだ」
って、気づく。
だから。
私たちは、その先もずっと、すれ違い続けたのかもしれないね。
カーテンの隙間から差し込む光が、まだ眠りの残る部屋をぼんやりと照らしていた。
静かな部屋に、突然、携帯電話の着信音が響く。
知らない番号だった。
眠っていた唯は、布団の中でもぞもぞと身じろぎをして、重たい瞼を開ける。
「……だれだろ?」
寝ぼけたまま携帯を手に取り、表示された番号を眺める。
心当たりはない。
それでも、何か急ぎの用事かもしれないと思い、唯は通話ボタンを押した。
「……もしもーし?」
返事がない。
「……?」
しばらくの沈黙。
唯は小さくあくびをしながら、もう一度声をかける。
「あれ? もしもし?」
すると、電話の向こうから、かすかな女性の声が聞こえた。
「……あっ、あの……」
聞いたことのない声だった。
「……? はい。あ、だれですか?」
少しの間があってから、女性は慌てたように言った。
「……あ、間違え、間違えたの。ごめんなさい」
「え? 間違え??」
「はい……」
それだけ言うと、電話は切れた。
唯はしばらく携帯を見つめた。
「え? なんだ。間違い電話か……」
まだ眠気の残る頭では、それ以上考える気にもならない。
唯は携帯を枕元に置くと、もう一度布団に潜り込んだ。
「……眠い……」
その電話が何を意味していたのか。
このときの唯は、知る由もなかった。
٭❅
夕方。
外から部屋に入ってきた唯は、冷え切った身体を抱えるようにして、ストーブの前へ駆け寄った。
「ストーブあったかぁい!」
そのまま、ストーブの前で小さく丸まる。
頬は赤く、鼻の先まで冷たそうに赤くなっていた。
それを見た晃哉が、思わず吹き出す。
「ぷっ」
「なによぉ」
「……リアル猫笑」
お腹を抱えて笑う晃哉。
「まだ10月だっていうのになにこの寒さ~!」
唯は仕事の制服が入った荷物を置きながら、ストーブの温風に両手をかざした。
「寒すぎる……」
「一緒にお風呂入る?」
晃哉が、あまりにもさらりと言う。
唯は一瞬目を丸くして、それから頬を赤くした。
「やだやだ、恥ずかしいよ! 真っ暗にしてくれるならいいけど」
「真っ暗じゃ見えないしょ」
「見えるのが恥ずかしいの!」
唯は顔をしかめる。
「おうちで入ってきたから私! こうちゃんの変態!」
「ははは!」
晃哉の笑い声が部屋に響く。
結局、仕事が終わったばかりだからと、晃哉はシャワーを浴びに行った。
唯はその間、部屋の中をぼんやりと眺めていた。
いつもの部屋。
いつもの空気。
いつもの二人。
そんな何気ない時間の中で、ふと、ひとつの段ボール箱が目に入った。
トイレに行こうとした唯の足が止まる。
差出人の名前。
――岡崎 麻耶。
その文字を見た瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。
なぜだかわからない。
けれど、嫌な予感がした。
それでも唯は、自分に言い聞かせる。
お母さんかもしれない。
妹かもしれない。
きっと、そう。
それ以上考えないようにしていると、シャワーの音が止まった。
ほどなくして、晃哉が部屋へ戻ってくる。
「唯?」
「あ、トイレ行きたくなっちゃって」
「おう」
唯は何事もなかったように、その場を離れた。
そして部屋に戻ると、いつものように晃哉へ抱きついた。
「いいにおーい」
「シャワー浴びたばかりで臭かったらやばいわ笑」
「ふふっ」
そのまま晃哉の胸元に顔を埋める。
いつもの匂い。
いつもの温度。
いつもの安心感。
唯は少しだけ黙ってから、顔を上げた。
「ねぇ、こうちゃん? 私……」
「なした?」
晃哉が心配そうに唯を見る。
その優しい目を見た瞬間、唯は言葉を飲み込んだ。
「うぅん、なんでもない!」
そして、少しだけ笑って続ける。
「今日なんか変な電話あって起こされて。少し眠いだけ」
「そっか。じゃぁ、今日はいつもより早く寝ような?」
そう言って、晃哉が唯の頭をぽんぽんと撫でる。
その手が優しくて、唯は笑った。
「そう言って、いつも寝るよって言って騙すくせに~笑」
「笑! 騙してない、流れ流れ」
少し慌てたように言う晃哉。
「こうちゃん、紳士な仮面つけた変態だもん」
「失礼だなぁ~笑」
二人の笑い声が重なる。
いつもと変わらない。
そんなふうに、何でもない夜が過ぎていく。
二人はいつものように並んで座って話をした。
晃哉は時折レコードを変えに立ち上がり、唯はお酒を飲みながらソファーに身体を預ける。
流れてくる音楽。
ストーブの暖かさ。
お酒で少しずつ緩んでいく身体。
そして、隣にいる晃哉。
唯にとっては、それだけで十分だった。
けれど。
そんな時間の中に、唯はいつからか、ひとつの数字を意識するようになっていた。
――三年。
晃哉がここにいられる時間。
二人の間には、最初から見えない期限があった。
しばらくして、唯がぽつりと口を開く。
「ねぇ、こうちゃん?」
「ん?」
「こうちゃんは、来年いなくなっちゃうの?」
晃哉の手が止まる。
何も言わない。
唯はその沈黙だけで、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
「転勤……三年って言ってたよね?」
唯は、できるだけ明るく聞いた。
「一年半以上はここにいるから……来年、いなくなっちゃう?」
「……まだわからないんだ」
晃哉は少し考えてから答えた。
「なんか、延びるかもって話も出てきてて……」
「えっ?! 本当?!」
唯の顔が、一瞬で明るくなる。
まるで、暗い部屋に光が差し込んだみたいに。
「まだわかんないけどね……」
晃哉はそう付け加える。
「でも、もしいなくなっても会おうと思えば会えるしょ。会いに来るし」
唯は黙って聞いている。
「会社の人事だから、それはしゃぁない……」
その言葉を聞きながら、唯は唇を噛んだ。
頭ではわかっている。
転勤は晃哉が決めることじゃない。
仕事なら仕方がない。
離れたって、会おうと思えば会える。
そんなこともわかっている。
それでも。
唯にとっては、距離の問題だけではなかった。
「……いやだよ」
小さな声だった。
「こうちゃんに会えなくなるの嫌だよ」
唯の瞳に、少しずつ涙が溜まっていく。
「会いたい時に会えなくなるの……」
声が震える。
「この部屋から、こうちゃんがいなくなっちゃうの?」
晃哉は何も言わず、唯を見つめる。
「……いなくならないで……」
唯は俯いた。
「唯、置いていかないで……」
その言葉を聞いた晃哉は、唯をそっと抱きしめた。
温かい腕の中。
唯は目を閉じる。
この時間が、ずっと続けばいい。
そう願っていた。
けれど、心のどこかでは知っていた。
ずっと続くものなんて、きっとない。
ねぇ、こうちゃん。
私は、こうちゃんとの時間を過ごすたびに、いつしかタイムリミットがあることを感じていたのかもしれない。
だから。
いつか離れてしまうその日まで、見たくないものは見ないようにしていたのかもしれない。
こうちゃんがここへ来たばかりの頃に出会えた私たちには、最初から「三年」という期限があった。
三年しかない。
そう思えば思うほど、一日一日が愛しくなった。
こうちゃんは、私を悲しませないように嘘をついてくれたのかもしれない。
「延びるかもしれない」
その言葉を聞くたびに、私は一喜一憂していた。
来年も一緒にいられるかもしれない。
もう少し、この部屋でこうちゃんと過ごせるかもしれない。
そんな小さな希望に、私は何度も救われていた。
私は、あと一年しかこうちゃんといられないかもしれない。
だから、お願い。
それまでどうか、私からこうちゃんを奪わないでください。
いつからか私は、心の中で、こうちゃんの存在するかどうかもわからない「奥さん」に、そんなことを願っていた。
ねぇ、こうちゃん。
私は、ちゃんと笑えていたかな?
本当は怖かった。
いつか離れる日が来ることが。
それでも私は、こうちゃんの隣で笑っていた。
昔、こうちゃんは言ったよね。
「最後まで唯と一緒にいたしょ」
それが、自分なりの愛し方だったって。
……わかんないよ。
ちゃんと言ってくれなきゃ、わからないよ。
こうちゃんの本音は、いつも時間が経ってから私に伝わってきた。
そのときはわからなかったこと。
そのときには聞けなかったこと。
あとになって初めて、
「ああ、あれはそういう意味だったんだ」
って、気づく。
だから。
私たちは、その先もずっと、すれ違い続けたのかもしれないね。