残響
地下へと続く階段を、唯はゆっくりと降りていった。

階段の先からは、低く響く音楽と、人のざわめきが漏れている。

「はい、チケット」

入口で差し出されたチケットを受け取る。

「ありがとう」

顔パスでそのまま通され、慣れたようにVIPルームへ入った。

隣町で開かれているこのイベントには、テレビで見るような有名人も何人も来ていた。

誰もが楽しそうに笑い、酒を飲み、音楽に身を委ねている。

唯もショットグラスを手渡された。

「お疲れ様です」

グラスを軽く鳴らす。

カチン――。

乾いた音が響いた。

そのまま、テキーラを一気に流し込む。

喉を焼くような熱さが、身体の奥へ落ちていく。

けれど、何も感じなかった。

もう、この街のどこを探しても、晃哉はいない。

そう思いながら、唯はソファーに身体を預けた。

冷めた瞳で、目の前の光景をぼんやりと眺める。

華やかな場所にいるはずなのに、自分だけがどこか別の世界にいるようだった。

やがて、メジャーデビューを果たしたアーティストのリリースパーティーが始まった。

そのボーカルが、唯の隣へ腰を下ろす。

「久しぶりだな、唯。飲んでたの?」

「うん。ショットはヤバいって笑」

唯は笑いながら答えた。

少しだけ言葉を交わす。

そして、彼が唯の耳元で何かを囁いた。

唯は小さく笑い、軽く手を振った。

その背中を見送る。

「唯ちゃん!」

聞き慣れた声に振り返る。

「お、かずくんじゃん」

「けいさんとなに話してたの?」

「いつもの感じ?」

唯は何気なく答えた。

その瞬間だった。

かずが突然、唯にキスをした。

けれど、唯は驚かなかった。

「唯ちゃん、俺じゃダメなの? もう、こうくんのこと忘れなよ」

唯はしばらく何も言わなかった。

ただ、ゆっくりと煙草に火をつける。

赤い火先が、暗い空間の中で小さく揺れた。

「かずくん、大丈夫だよ?」

煙を吐き出してから、静かに続ける。

「私……今、そういうの何も感じないんだ」

その横顔には、笑みもなかった。

「こうちゃんは、もう関係ないから……」

そう言った唯の瞳は、どこまでも冷めていた。

けれど、その奥には、誰にも見せない寂しさが残っていた。

*

「こうちゃん、勉強?」

「そう。資格取らなきゃなくて」

いつもの部屋。

晃哉は参考書を開き、唯はその隣で静かに過ごしていた。

「唯、邪魔じゃない? 大丈夫?」

晃哉が顔を上げる。

すると晃哉が、ふと思い出したように言った。

「なんも大丈夫だよ。唯見てて思うんだけどさ」

「うん?」

「一緒にいて、別々なことしてても大丈夫なタイプでしょ?」

唯は少し考えた。

そして、ゆっくり頷く。

「……うん。確かに」

「だって、喧嘩してるわけじゃないし……話すときは話すし。同じ空間にいられるだけで大丈夫かも」

「俺と似てる」

晃哉はそう言って笑った。

「だから、全然邪魔じゃないよ?」

その言葉が、唯にはなんだか嬉しかった。

同じことをしなくてもいい。

無理に会話を続けなくてもいい。

ただ、隣にいる。

それだけで、心が落ち着いていた。

その時、唯の携帯電話が鳴った。

画面に表示された名前を見た瞬間、唯の動きが止まる。

相手は、この前ご飯に行った人だった。

「唯? 電話だよ」

晃哉は参考書に視線を落としたまま言った。

「うん、電話だね」

「なんだそれ笑。出なくていいの?」

「……この前のご飯の人。多分、また行きましょうって電話かな……」

少しの沈黙。

「……行けばいいっしょ」

その言葉に、唯の胸がほんの少しだけ痛んだ。

晃哉にとっては、何でもないことなのだと思った。

自分が誰かと食事に行くことも。

誰かから誘われることも。

まるで、自分には関係のないことのように。

唯はストーブの前に座り、少しだけ不機嫌そうに呟いた。

「……気が向いたらね~」

その声には、ほんの少しだけ拗ねた響きが混じっていた。

音楽を聴きながら、唯は小説を読んでいた。

部屋には穏やかな時間が流れている。

しばらくして、晃哉が参考書を閉じた。

どうやら勉強が一段落したらしい。

「……あー、覚えられる気がしない笑」

そう言いながら、唯の隣へ腰を下ろす。

「勉強終わったの?」

「とりあえず集中切れたから、今日はおしまい」

唯も本を閉じた。

すると晃哉が、いつものように腕を広げる。

「ほら、おいで」

その一言だけで、唯は素直に晃哉の胸へ顔を埋めた。

温かい。

いつもの匂い。

いつもの腕。

それだけで、何もいらないと思えた。

「よしよし。今から唯の時間な笑」

晃哉の手が、優しく唯の頭を撫でる。

「もー!」

唯は顔を上げ、少しだけ頬を膨らませた。

「子供扱い通り越して、ペット扱いじゃん笑」

冗談まじりに怒ってみせる。

晃哉は、そんな唯を見て笑っていた。

ねぇ、こうちゃん。

こうちゃんといる空間が、私は好きだった。

お互い別々のことをしていてもいい。

こうちゃんは勉強をしていて、私は小説を読む。

音楽を聴いていてもいい。

会話がなくてもいい。

ただ、同じ部屋にいる。

ただ、こうちゃんの気配が近くにある。

それだけで、私は嬉しかった。

今思えば――

私とこうちゃんは、確かに似ていたのかもしれないね。

無理に言葉を探さなくてもよかった。

無言の時間さえ、気まずくなかった。

隣にいることが、ちゃんと「一緒にいる」ことだった。

ねぇ、こうちゃん。

私、こうちゃん以外なんて考えられないくらい、こうちゃんが大好きだったんだよ。

「そんなこと言わないでよ」

そう言って、むつけていた私を、今でもよく覚えてる。

ねぇ、こうちゃん。
私は特別な一日が欲しかったわけじゃないよ。

ただ――

こうちゃんと、こうやって過ごす日常がずっと欲しかった。

何気なく同じ部屋にいて。

別々のことをして。

時々顔を見て笑って。

疲れたら、こうちゃんの胸に顔を埋める。

そんな何でもない日々を、私はずっと続けたかったんだよ……。
< 27 / 37 >

この作品をシェア

pagetop