残響
なんにも変わらないまま、日常は過ぎていった。

朝が来て、仕事をして、笑って、晃哉と一緒に過ごす。

いつもと同じ毎日。

けれど――

唯と晃哉の間には、確かにカウントダウンが存在していた。

そのことを、二人はもう口にしなかった。

転勤の話も、その先のことも。

まるで、言葉にしてしまえば本当に終わってしまうかのように。

晃哉の前では、唯はいつも通り明るかった。

笑って、ふざけて、何でもない話をして。

いつもの唯でいようとした。

けれど、ふとした瞬間に見せる表情が、少しずつ変わっていった。

何もないところで黙り込んだり。
急に不安そうな顔をしたり。

その変化には、澄香も気づいていた。

本当は、どこかでわかっていた。

ずっと前から。

ただ――

嘘でもいい。

信じていたかっただけだった。

「あ! 携帯忘れた!」

晃哉と出かけようとして車に乗り込んだとき、唯は声を上げた。

「はい、鍵。取ってきな」

晃哉から鍵を受け取る。

「ありがとう、こうちゃん。急ぐね!」

唯は笑って、玄関へ向かった。

鍵を開けようとした、そのときだった。

手が止まった。

鍵についていた、小さなプレート。

何気なく視線を落とした唯の目に、その文字が飛び込んできた。

――KOYA & MAYA

一瞬、意味がわからなかった。

けれど、次の瞬間。

胸の奥が、すっと冷たくなった。

「Since……」

小さく呟く。

そこに刻まれた文字を見つめながら、唯は計算する。

「ここに来る一年前くらい……?」

血の気が引いていくのが、自分でもわかった。

見ないようにしていたもの。

考えないようにしていたこと。

バラバラのまま、見ないふりをしていたパズルのピースが――

一つずつ、音を立てるように繋がっていく。

夜中に何度か鳴った着信。

画面に表示されていた名前。

――まや。

郵送物に書かれていた差出人。

――岡崎 麻耶。

そして今、目の前にある記念のプレート。

――MAYA。

全部、同じ人だった。

唯はしばらく、その場から動けなかった。

けれど、やがて何も見なかったように鍵を開ける。

家の中に入り、携帯を掴んだ。

そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。

「……お母さんでも、妹でもなかったな……」

声にすると、思っていた以上に苦しかった。

車に戻る。

「携帯あった?」

晃哉が、いつものように聞いた。

「うん、あったよ」

唯は笑った。

そして、何事もなかったように鍵を晃哉へ手渡す。

晃哉は、何も気づいていないようだった。

いつもと変わらない顔をしている。

ただ――

鍵を受け取った瞬間。

プレートを、一瞬だけちらりと見た。

唯は何も言わなかった。

車が走り出す。

しばらくして、何かが足元に転がってきた。

唯が目を落とす。

「……こうちゃん、眉ペン落ちてる」

「俺のじゃないな。誰かの忘れもんかな」

晃哉は焦ることもなく、それを拾った。

そして、何でもないことのようにダッシュボードへ放り込んだ。

唯は黙っていた。

何も聞かなかった。

聞けなかった。

ねぇ、こうちゃん。

私、本当はもう知ってたよ?

ずっと前から、薄々わかってた。

それでも、一緒にいたかった。

こうちゃんは、私にはそう信じさせたいんだ。

そう言い聞かせていた。

これは違う。

きっと、違う。

そう思いながら。

考えないようにして。

見ないようにして。

笑っていた。

でも――

もう、何も考えられなかった。

こうちゃんは、いなくなる。

そのことだけは、どうしても消せなかった。

奥さんがいるのなら。

この人には、帰る場所があるのなら。

転勤が終わるということは――

私たちの時間が、本当に終わるということなのだと。

唯は、どこかでわかっていた。

ねぇ、こうちゃん。

季節が変わるたびに。

少しずつ、あなたが遠くなっていく気がして。

私は、どうしたらいいのかわからなくなって。

それでもあなたの前では笑っていた。

何も知らないふりをして。

何も怖くないふりをして。

本当は――

季節が変わるたびに、

私、おかしくなりそうだった。
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