残響
夏が近づいていた。

けれど――
来年の夏、晃哉はもう隣にいない。

その現実を、唯は頭ではわかっていた。

わかっているつもりだった。

だからこそ、その頃から晃哉は唯にいろんな音楽を教えてくれるようになった。

いろいろなジャンルの曲を集めて、CDを作ってくれた。

一枚、一枚。

その曲を聴けば、きっといつか思い出す。

そんなふうに、唯の中に自分の痕跡を残していくようだった。

まるで、思い残すことがないように。

まるで、自分がいなくなったあとも、唯の中に自分がいられる場所を作っているように。

けれど、その頃の唯には、そこまで深く考えることなんてできなかった。

CDを受け取れば嬉しかった。

「ありがとう」と笑った。

次はどんな曲を教えてくれるのかと、それだけを楽しみにしていた。

その優しさが、別れの準備だったなんて。

唯は、知らなかった。

――いや。

本当は、どこかで気づいていたのかもしれない。

気づきたくなかっただけだった。

「こうちゃん、来年も……」

いつものように、来年の話をしようとして。

唯は、その言葉を飲み込んだ。

来年。

その二文字を口にするだけで、胸の奥が痛くなった。

晃哉は何も言わず、少し寂しそうに笑った。

「……また来ような」

そして、

「……また、しような」

そう答えた。

約束のようで。

約束ではない言葉。

唯は、その曖昧さから逃げるように笑った。

あの時の自分は、そうすることしかできなかった。

一度だけ。

唯は、晃哉の前で感情を爆発させたことがあった。

飲み会の帰りだった。

晃哉の家に行き、いつものようにソファーに座った。

外では雨が降っていた。

窓ガラスを打つ雨音。

薄暗い部屋。

煙草の匂い。

いつもと変わらない夜だった。

そんな何でもない時間が、唯にはたまらなく怖かった。

何気ない時間ほど、あとになって思い出になる。

それが、わかってしまったから。

晃哉がふと、外を見ながら言った。

「もうすぐ夏だな」

ただ、それだけだった。

なんでもない一言。

けれど唯の胸には、その言葉が鋭く刺さった。

夏が来る。

そして、その次の夏には――

この人はいない。

そう考えた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れた。

「あと……こうちゃんと、何回こうやっていれるかな……」

言ってから、しまったと思った。

慌てて口を手で覆う。

こんなこと、言うつもりじゃなかった。

困らせたいわけじゃなかった。

ただ、怖かった。

晃哉は少しだけ笑った。

「……唯、酔ってる?」

「酔ってるよ! でも、酔ってないもん」

「どっちだよ」

晃哉は笑った。

いつものように。

その笑顔が、なぜか唯には許せなかった。

どうして笑えるの?

どうしてそんなに普通でいられるの?

どうして私ばっかり、こんなに苦しいの?

そんな幼い感情が、次から次へと込み上げてきた。

「こうちゃんは平気なんだ?」

唯は言った。

「私だけが、こんなに辛いみたい」

晃哉は黙った。

そして、少しだけ視線を落としてから、

「……そう見えるだけじゃない?」

と言った。

「見えるよ!」

涙がこぼれた。

「こうちゃんは、よく『しょうがない』って言うじゃん」

自分でも、子供みたいなことを言っていると思った。

それでも止まらなかった。

「わかってるよ。しょうがないよ? しょうがないのもわかってる」

声が震える。

「けど……私、どうしていいかわかんないよ……」

本当は、どうしてほしいのかもわからなかった。

行かないでと言いたい。

でも、行かないでと言ってはいけないこともわかっている。

困らせたくない。

でも、私がこんなに辛いことをわかってほしい。

そんな矛盾を、自分の中で持て余していた。

晃哉が静かに言った。

「じゃあ……もう会わない方が、楽になる?」

唯と晃哉の視線がぶつかった。

その瞬間、唯の中で何かが切れた。

「それはもっとやだぁ……!」

大粒の涙が頬を伝った。

嫌だった。

離れるのも嫌。

会えなくなるのも嫌。

でも、いなくなるのはもっと嫌だった。

自分でもどうしようもない。

ただ、嫌だという気持ちだけが、子供のように残った。

「こうちゃんは、いいよ……」

唯は泣きながら言った。

「私はこの街で、何も変わらないままなのに……」

涙で景色が滲む。

「景色も、何も変わらないのに……こうちゃんだけがいなくなるんだよ?」

そして、

「もう、すれ違うこともないんだよ?」

そう言った。

今思えば。

あの言葉も、ひどく自分勝手だった。

自分の寂しさしか見えていなかった。

この街に残る自分の苦しさばかりを訴えていた。

けれど――

晃哉だって、同じように何かを失うのだということを。

あの頃の唯は、本当の意味では理解していなかった。

晃哉は唯の隣に座った。

何も言わず、煙草に火をつける。

小さな火が灯った。

煙がゆっくりと揺れて、部屋の中へ溶けていく。

しばらくして、晃哉が口を開いた。

「……唯?」

唯は顔を上げた。

晃哉は、泣いている唯を静かに見つめていた。

「……あのね」

少しだけ間を置いて。

「置いていく方も辛いんだよ……?」

その瞬間、唯は息を止めた。

晃哉の顔を見た。

そこには、いつもの余裕なんてなかった。

寂しそうで。

どこか苦しそうで。

それでも唯を安心させるように、静かにしていた。

「……本当に?」

唯は尋ねた。

晃哉は少し笑った。

「……そりゃ、そうでしょ」

そして、

「平気な人間なんていないよ?」

静かに続ける。

「しょうがないって思わないと……」

「でも……」

唯は涙を拭った。

「すごく平気そうにしか見えない」

晃哉は少しだけ目を細めた。

「そりゃね」

そして、唯を見る。

「唯の前で、そんな姿見せないよ」

「……?」

その時の唯には、その言葉の意味がわからなかった。

どうして?

辛いなら、辛いって言えばいいのに。

悲しいなら、悲しいって見せればいいのに。

そんなふうに思っていた。

晃哉は煙草の火を消した。

そして唯にキスをした。

「そう見せてるだけだよ」

そのまま唯を抱きしめる。

「……置いていく方だって、辛いんだよ?」

唯は、その腕の中で黙っていた。

何も言えなかった。

ただ、胸の奥が少しだけ痛かった。

「煙草の味がする~……」

泣き笑いながら、唯はそう言った。

晃哉の悲しそうな顔を見て、これ以上困らせてはいけないような気がした。

だから、笑った。

泣きながら。

子供みたいに。

その時の唯は、それで終わらせてしまった。

でも――

今なら、わかる。

あの時、晃哉はきっと、自分の寂しさを飲み込んでいた。

唯の前では泣かなかった。

弱音も吐かなかった。

自分がいなくなることを一番怖がっている唯を、これ以上不安にさせないために。

大人のふりをしていた。

平気なふりをしていた。

だから唯は、それを本当の「平気」だと思ってしまった。

ねぇ、こうちゃん。

「置いていく方も辛いんだよ」

あの時の私は、その言葉をちゃんと聞けていなかったね。

聞いたはずなのに。

こうちゃんの口から直接聞いたはずなのに。

私は、自分のことで精一杯だった。

「私の方が辛い」

「私の方が寂しい」

「私だけが取り残される」

そんなことばかり考えていた。

こうちゃんが何を失うのか。

こうちゃんが何を置いていくのか。

そこまで考える余裕なんて、私にはなかった。

私は、置いていかれる方が辛いと思っていた。

だって、私はこの街に残る。

同じ景色を見る。

同じ道を歩く。

いつか、こうちゃんと一緒に歩いた場所を、一人で歩くことになる。

だから――

私の方が辛いんだと思っていた。

でも違った。

こうちゃんだって、同じだったんだよね。

こうちゃんだって、この街を離れれば、私のいない景色を見る。

もう会えない。

もう触れられない。

もう何気なく「またね」と言えない。

私が失うものと同じように。

こうちゃんも、私を失うんだった。

なのに私は。

「こうちゃんは平気そう」

なんて言った。

今思えば、なんて残酷な言葉だったんだろう。

こうちゃんが平気なわけじゃなかった。

私の前で、平気なふりをしていただけだった。

「唯の前で、そんな姿見せないよ」

あの言葉の意味を。

私は、何年も経ってからやっと理解した。

こうちゃんは、私の前では格好つけていた。

大人でいようとしていた。

私が不安にならないように。

私が泣かないように。

きっと、自分だって泣きたかったはずなのに。

それなのに私は――

その優しさを「平気なんだ」と受け取った。

甘えていた。

ずっと。

こうちゃんが何も言わないことに甘えて。

怒らないことに甘えて。

笑ってくれることに甘えて。

私のわがままも、弱さも、全部受け止めてくれることに甘えていた。

もし、あの時の私がもう少し大人だったなら。

もう少しだけ、相手の痛みに目を向けられる人間だったなら。

晃哉の笑顔の奥にあるものを、見つけられたのかもしれない。

CDを作ってくれた意味も。

いろんな音楽を教えてくれた意味も。

「また来ような」と言った声が、どうして少しだけ寂しかったのかも。

気づけたのかもしれない。

そして――

もしかしたら。

あの時、こうちゃんが私のところへ迎えに来てくれていたことにも。

私は気づけたのかもしれないね。

私は、こうちゃんに愛されていることを知っていた。

でも――

こうちゃんが、どれだけ我慢してくれていたのかは知らなかった。

知ろうともしなかった。

それが、今になって一番苦しい。

あの頃の私は、自分が傷つくことばかり怖がっていた。

だから、こうちゃんを傷つけているかもしれないなんて、考えもしなかった。

自分が置いていかれることばかり考えていた。

だから、こうちゃんもまた、何かを置いていくのだということに気づけなかった。

ねぇ、こうちゃん。

私、もっとちゃんと見ていればよかったね。

もっとちゃんと、こうちゃんの顔を見ればよかった。

笑っているから大丈夫なんだなんて、決めつけなければよかった。

「しょうがない」って言うこうちゃんの、その言葉の奥にあるものを、ちゃんと聞けばよかった。

私は、こうちゃんの優しさを当たり前にしていた。

こうちゃんが大人でいてくれることを、当たり前だと思っていた。

でも本当は――

こうちゃんだって、私と同じように怖かったんだよね。

寂しかったんだよね。

離れたくなかったんだよね。

ただ、こうちゃんは。

私より少しだけ大人だったから。

自分の寂しさを飲み込んで、私を抱きしめてくれていたんだよね。

ねぇ、こうちゃん。

もしあの頃に戻れるなら。

私は、あの日の自分の肩を抱いてあげたい。

「自分だけが辛いんじゃないよ」って。

「ちゃんと、こうちゃんの顔を見て」って。

「その人も、同じくらい寂しいんだよ」って。

教えてあげたい。

でも、あの頃の私は知らなかった。

大切な人を失う痛みは、

置いていかれる人だけが抱えるものじゃない。

置いていく人もまた、

大切な人を置いていく痛みを抱えている。

そのことを、私はあまりにも幼くて、知らなかった。

だから今でも思う。

あの時、もう少しだけ大人だったなら。

もう少しだけ、こうちゃんの気持ちを考えられる私だったなら。

「私だけが辛い」なんて、言わなかったのに。

こうちゃんを困らせることもなかったのに。

もっと早く――

「こうちゃんも辛いんだね」

って、言ってあげられたのに。

それが、今でも後悔として残っている。

ねぇ、こうちゃん。

私はずっと、

こうちゃんに置いていかれたんだと思っていた。

でも、本当は違ったのかもしれないね。

こうちゃんも――

私を置いていかなければならなかったんだよね。

そして、もしかしたら。

置いていく方だったこうちゃんの方が、

私よりずっと泣きたかったのかもしれないね。
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