残響
「帰んの?」

ホテルの一室。
夜の静けさの中で、男が何気なく問いかけた。

「うん。明日、早いから」

唯はそう答えながら、乱れた髪を整え、身支度を始める。

そして、ふと思い出したように振り返った。

「あ、彼女からの電話。返しときなよ? 怪しまれるよ」

「唯って、マジで冷めてるよな。男みてー」

男が笑う。

「そう?」

唯も小さく笑った。

「だって、私たちにそういうの関係なくない?」

それ以上、何かを説明するつもりはなかった。

「じゃあね」

ドアを閉める。

深夜の廊下を歩き、ホテルを出ると、ひんやりとした夜気が頬に触れた。

空を見上げる。

まだ夏の名残を残しているはずなのに、
どこかに秋の気配が混じっていた。

季節は、何も言わなくても変わっていく。

唯にとって、彼女がいる男のほうが都合がよかった。

本気の恋愛なんて、望んでいない。

――いや。

本気になれる人が、もういない。

あんな思いをするのは、もうごめんだった。

誰かを好きになって、
会えないことに苦しんで、
言葉ひとつに一喜一憂して。

失う怖さを知ってしまったら、
最初から深く入り込まないほうが楽だった。

唯は夜空を見上げたまま、小さく呟いた。

「……なにやってんだろ」

その瞬間。

胸の奥に、ひとつの名前が浮かんだ。

「……こうちゃん……」

口からこぼれた声は、自分でも驚くほど小さかった。

唯はそれ以上考えないようにして、車へ向かって歩き始めた。

     *

晃哉の腕枕の中で、唯はぼんやりと眠りかけていた。

薄暗い部屋。

すぐそばにある晃哉の体温。

聞き慣れた呼吸。

その全部が、当たり前のようにそこにあった。

「……不思議だな」

晃哉が、ぽつりと言った。

「え? なぁに?」

唯が顔を上げる。

晃哉は少し考えるようにしてから、真顔で言った。

「いや……相性いいって、本当にあるんだなって」

その言葉に、唯は一瞬きょとんとして――すぐに顔を赤くした。

「やだ! 変態!」

「なんでだよ笑」

晃哉が笑う。

「なんでだろな」

その声には、からかうような響きよりも、純粋な不思議さがあった。

唯は少し考えてから、照れ隠しのように笑った。

「私、こうちゃんしか知らないし、多分……」

「多分?」

「……調教した男が変態だったんだ笑」

一瞬の沈黙。

次の瞬間、晃哉が吹き出した。

「バカしょ?! お前!」

お腹を抱えて笑う晃哉を見て、唯は目を丸くする。

「だって、罪だよ~?」

唯も笑いながら続けた。

「幼気な19歳の清純な女の子を、こんなにしちゃって笑」

「やめれって笑」

晃哉はまだ笑っている。

「私からしたら、何が普通で、何が変なのか分からないもん。もう!」

「はいはい。あー、笑った」

ようやく笑いを収めた晃哉が、息を吐く。

しばらくして、唯もふっと静かになった。

そして、晃哉の胸元に頬を寄せながら呟いた。

「でも……なんか分かる」

「ん?」

「相性って、体だけじゃないんだよね」

唯は、晃哉の匂いを感じるように、そっと首筋へ顔を寄せた。

「その人の匂いとか……体温とか……うまく言えないけど、全部!」

晃哉が少し笑う。

「そう」

「誰もHの話だけしてるんじゃないよ」

唯は顔を上げる。

そして、少しだけ照れながら笑った。

「不思議だね?」

晃哉を見る。

「こうちゃんと唯、遺伝子レベルで運命みたい笑」

そんなことを、二人は無邪気に話していた。

未来のことなど、まだ何も知らないまま。

ただ、この時間がずっと続くような気がしていた。

「いいにおーい」

唯がもう一度、晃哉の首筋に顔を寄せる。

「なんか落ち着く」

「くすぐったいよ笑」

晃哉はそう言って笑った。

そして、唯にそっとキスをする。

「きっと、大好きな人だから……」

その言葉を聞いた瞬間、
晃哉の表情が少しだけ照れたものに変わった。

そして何も言わず、唯を抱きしめた。

     *

ねぇ、こうちゃん。

私もずっと、不思議だった。

体の相性だけじゃ、
とても説明できないくらい。

私たちは、何もかもが不思議なくらい違和感なかったね。

匂いも。

体温も。

一緒にいるときの沈黙も。

くだらないことで笑う瞬間も。

何もかもが、最初からそこにあったみたいに自然だった。

何年経っても。

何十年経っても。

変わらなかった。

こうちゃんも、感じていたのかな。

だから私たちは、
何度離れても、完全には離れられなかったのかな。

忘れようとしても、
ふとした瞬間に思い出して。

離れている時間が長くなるほど、
なぜかまた、お互いを求めてしまった。

一緒にいる時間は、あんなにも幸せだったのに。

離れると、
自分の一部が抜け落ちてしまったみたいに苦しくなった。

それでも。

私たちは、同じ場所にたどり着くことができなかった。

運命は、残酷だね。

もし、あの頃。

違う選択をしていたら。

もう少し素直だったら。

もっとちゃんと話していたら。

私たちは、
どうしたら一番よかったんだろう。

ねぇ、こうちゃん。

私は何度、
あなたの気持ちに気づいてあげられなかったんだろう。

あの頃の私は、
あなたがそこにいることが当たり前すぎて。

あなたがどれほど私を想っていたのか、
ちゃんと見ようとしなかった。

――もし、あの頃の私が、
それに気づいていたなら。

私たちの未来は、
少しだけ違っていたのかな。

今でもこうちゃんのこと…
遠い記憶の中にいるこうちゃんのこと
ふとしたときに思い出しちゃうんだ…

恐ろしいくらいに自然に…
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