残響
唯は、澄香と隣町まで車を走らせ、二人でご飯を食べに来ていた。

窓の外には、見慣れない街の景色が流れている。

店内には、食器の触れ合う音と、楽しそうな話し声が静かに響いていた。

向かいの席で、澄香がフォークにパスタをくるくると巻きつけながら、ふいに顔を上げた。

「こうちゃん、本当にいなくなっちゃうの?」

その言葉に、唯の手が止まる。

「……うん。三年の転勤だからね……。ただ、本人は『延びるかも』とか言うんだよね」

「延びるとかあるんだ?! 本当に延びたらいいなぁ……」

澄香はそう言いながら、唯の顔をじっと見つめた。

「なんか……すごい切ないよね」

「うん。でも、会社の人事はどうにもならないしね……」

唯はそう答えたものの、その声には諦めきれない気持ちが滲んでいた。

澄香が小さく息を吐く。

「こうちゃんも、きっと辛いんじゃないかな?」

唯は答えず、窓の外へ視線を向けた。

流れていく景色を眺めながら、ゆっくりと息を吐く。

「この前ね……こうちゃんに泣いて言っちゃったの」

「なんて?」

「なんでこうちゃんはそんなに平気なの? 私ばかりが辛いみたいって……」

唯は少しだけ俯いた。

「あのときね、こうちゃん……」

一度言葉を止めてから、静かに続ける。

「『平気そうに見えるだけだよ。置いていく方もつらいんだよ?』って言ってた」

澄香は黙って唯の話を聞いていた。

「……だろうね」

やがて、ぽつりと呟く。

「平気なわけないよ……。きっと、こうちゃん自身も、唯とここまでなるなんて思ってなかったと思うんだよね」

唯は黙って澄香を見る。

「こうちゃん自身も、どうしていいかわからなくて……でも、気持ちは抑えられないって感じなのかな……」

「……ただの遊びには、私も思えない」

唯は小さく呟いた。

「私、子供だよね……。自分ばかりが辛いって言った。こうちゃんの気持ちなんて、ちゃんと考えてなかった」

一瞬、唯の目に涙が浮かぶ。

「こうちゃんの顔を見たらさ……これ以上、困らせちゃいけないって思って……」

澄香は何も言わずに唯を見つめていた。

「いや……でも、そう思うのもしょうがないよ」

澄香の声は優しかった。

「だって、帰ったら奥さんと暮らすんでしょ? 遠距離でもなく、本当に終わりなんだって思っちゃうじゃん……」

その言葉に、唯の頬を涙が一筋伝った。

「こうちゃんは……あくまで私には『いない』って思わせたいんだよね……」

唯は涙を拭いながら続ける。

「あの悲しそうな顔も、辛そうな顔も……嘘には見えないし……正直、わかんない」

「……辛いのは、本当なんだと思うよ?」

澄香は、今度は迷いなく言った。

「こうちゃんは、『しょうがない』ってよく言うんだ」

唯は笑うように、けれど泣きそうに呟いた。

「自分に言い聞かせるみたいに……」

「大人……なんだね」

澄香は少し考えるように視線を落とした。

「嫌なものは嫌。欲しいものは欲しいって……そういうことも、現実をちゃんと考えたら言わないんだろうね……」

そして、少しだけ言葉を変えた。

「……言えないのかな」

唯は黙っていた。

その胸の中には、晃哉の声が蘇っていた。

いつも、ぽつりぽつりとしか話さない。

それでも、あのときだけは――

『置いていく方も……つらいんだよ……』

そう言った。

あのときの晃哉の顔を、唯は今でも忘れられない。

悲しそうで。

苦しそうで。

まるで自分自身にも言い聞かせるような声だった。

「……置いていく方も……つらいんだよって……」

唯の目から、また涙が落ちる。

それを見ていた澄香の目にも、いつの間にか涙が溜まっていた。

「なんか……」

澄香は小さく息を吸った。

「お互い好きだけじゃ無理って……切なすぎて……」

二人の間に、しばらく言葉がなくなる。

「神様がいるなら……どうにかならないのかな……」

そのときだった。

唯の携帯電話が、小さく震えた。

画面を見る。

「……あ」

そこには、晃哉からのメールが届いていた。

「こうちゃんだ」

思わず声が弾む。

澄香は涙をぬぐいながら、少しおどけたように笑った。

「噂をすればなんとやら~かな」

唯はメールを開いた。

『今どこ?』

短い一文。

いつもの晃哉らしい、素っ気ないメールだった。

「なんて?」

澄香が身を乗り出す。

「『今どこ?』だって」

「え、それだけ?」

「うん。でも……多分、会いたい感じかも」

唯は画面を見つめながら、少し笑った。

「こうちゃん、会いたいときって、こういう聞き方するから」

澄香は唯の顔を見て、ふっと笑った。

「わかるんだね」

「うん。そうだよね……二年以上関わってるんだしね」

その言葉に、唯自身も少し驚いた。

たった数文字のメールなのに。

何を言いたいのか、なんとなくわかる。

そのとき、また携帯電話が震えた。

『まだご飯食べてる?』

唯は思わず笑った。

「ほら……」

「ほら?」

「やっぱり会いたいんだと思う」

澄香は何も言わず、唯の表情を見つめていた。

唯は返信する。

『まだ澄香といるよ』

送ってすぐに、また返事が来た。

『そっか』

そして、少し間を置いて。

『気をつけて帰ってきて』

その一言を見つめながら、唯は小さく笑った。

「……ほらね」

「何?」

「こうちゃん、待ってる」

澄香は、そんな唯を見て笑った。

唯は少しだけ迷ってから、文字を打った。

『今澄香とご飯食べてた。帰ったら会いたいな』

送信。

ほんの数秒後。

携帯電話が震えた。

『うん。待ってる』

たったそれだけ。

それだけなのに、唯の胸はいっぱいになった。

「よし、帰ろっか」

澄香が席を立つ。

「え、大丈夫だよ? 全然」

唯が慌てて引き止める。

けれど澄香は、そんな唯を笑いながら見た。

「何言ってんの?! こうちゃんと会える貴重な時間だよ?!」

「でも……」

「私は今日、唯としっかり遊んだから大丈夫。早くこうちゃん家、行ってあげな!」

そう言って、唯の腕を引く。

「ほら、行くよ?」

店を出ると、夜の空気が二人を包んだ。

車に乗り込むと、澄香はエンジンをかける。

しばらくしてから、運転しながら唯に言った。

「考えても、答えなんか出ないんだから」

唯は黙って隣を見た。

「今は、唯がしたいようにしな?」

澄香は前を見たまま、続けた。

「会いたいなら会いたい。好きなら好き。唯は、そのままでいいんだよ」

その言葉に、唯は小さく頷いた。

その夜、澄香と別れると、唯は「いつもの」を買った。

そして、晃哉の家へ向かって車を走らせた。

*

「ただいまぁ」

鉄の扉が、ギィッと音を立てて開く。

「おかえり。早かったね。楽しかった?」

いつもの晃哉の声。

その声を聞いただけで、唯の胸が少しだけ緩んだ。

「こうちゃん、見て見て。プリクラ撮ってきたんだぁ」

「どれどれ」

晃哉が覗き込む。

「可愛いでしょー!」

「うん。可愛い可愛い」

いつもの感じ。

いつもの晃哉。

それが、唯には嬉しかった。

ニットにデニムのミニスカート。

そんな唯の格好を見ると、晃哉は部屋の中からスウェットを取り出した。

「ほら、着替えな? くつろげないっしょ」

「ありがとう、こうちゃん」

唯は奥の部屋へ行き、スウェットに着替えた。

そして戻ってくるなり、嬉しそうに両手を広げる。

「じゃーん! 似合う~? こうちゃんの匂いがする~!」

その瞬間。

晃哉が、ほんの一瞬だけ唯を見つめたまま止まった。

けれどすぐに、ふっと笑う。

「ちょっと大きいな笑。でも、楽でしょ?」

「うん! ありがとう!」

唯は袖口を掴みながら、嬉しそうに笑った。

そして、くんくんとスウェットの匂いを嗅ぐ。

「やめなって。恥ずかしい笑」

晃哉が笑う。

唯はそのまま晃哉に抱きついた。

晃哉も笑った。

「ぷっ……自分を抱きしめてるみたいで嫌だな笑」

「いい匂いでしょ?笑」

「はいはい笑」

二人は顔を見合わせて笑った。

何も特別なことなんてない。

ただ、いつもの二人だった。

けれど――

唯にとっては、その「いつも」が、何より大切だった。

ねぇ、こうちゃん。

こうちゃんの声も。

匂いも。

雰囲気も。

本当に好きだった。

そばにいるだけで、なぜか安心した。

何も考えずに、ずっと包まれていたかった。

いつも並んで歯を磨いて。

そのまま一緒にベッドに入って。

こうちゃんは、一緒にしてくれることが多かったよね。

あの頃の私は、そんな何気ない時間がずっと続くような気がしていた。

「あと何回……」

そんなことを考える日もあった。

けれど――

もう、そんなことは考えない。

残された時間を数えるより。

今、一緒にいる時間を笑って過ごそう。

そう決めたんだ。

ねぇ、こうちゃん。

こうちゃんと一緒にいた私は――

きっと、世界で一番幸せな女の子だった。

本気で、そう思っていたんだ。

だから今でも、怖いくらい覚えている。

声も。

匂いも。

笑った顔も。

あの部屋の空気も。

何気なく過ぎていった、あの日の夜も。

全部。

今でも、鮮明に残っている。

……笑っちゃうよね。
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