残響
ねぇ、こうちゃん。
十二月に入ったよ。
もうすぐ、こうちゃんの誕生日だね。
あの頃も、そう話していたよね。
「もうすぐ誕生日だね」って。
その言葉を交わした日々の先に、最後が待っているなんて。
私は、少しも思っていなかった。
あの日も、いつもと何も変わらなかった。
変わらない部屋。
変わらない景色。
変わらない一日。
だから私は、何も疑わなかった。
こうちゃんは、最後まで私に優しかった。
最後になることなんて、少しも感じさせないまま。
まるで、また明日も会えるみたいに。
私の隣にいてくれた。
*
晃哉が、唯と少し距離を置いていた時期があった。
会うことを減らしたり、連絡を控えたり。
唯には、その理由がよくわからなかった。
それでも、時間が経つにつれて、二人が会う頻度は少しずつ戻っていった。
気づけばまた、以前と同じように会っていた。
だから唯は、信じていた。
「もう少し居られるかもしれない」
晃哉がそう言った、その言葉を。
きっと、まだ大丈夫なのだと思っていた。
晃哉の部屋を訪れるたび、そこにはいつもの景色があった。
引っ越しの準備をしている様子もない。
荷物がまとめられているわけでもない。
テレビの横には、ずっとそこにある観葉植物。
何も変わっていない。
だから唯は、安心していた。
ここはまだ、なくならない。
晃哉もまだ、いなくならない。
そんなふうに、勝手に思っていた。
その日も、二人でお酒を飲んだ。
いつものようにソファーに座り、晃哉がDJをする音を聴いていた。
部屋の中に流れる音楽。
グラスの中で揺れる氷。
隣にいる晃哉の体温。
何も特別じゃない。
それなのに、唯にとっては、その全部が幸せだった。
「この曲いいよね?」
晃哉が言う。
「うん。好き」
音楽に耳を傾けながら、唯はふと思い出したように笑った。
「こうちゃん、私も曲つないでみたい!」
出会った頃から、晃哉には何度かDJを教えてもらっていた。
けれど唯には、なかなか難しかった。
スクラッチをすると、レコードに傷がつきそうで怖い。
恐る恐る触る唯を見て、晃哉はいつも笑っていた。
「唯、大丈夫だよ。やってみな」
その声は、いつだって優しかった。
失敗してもいい。
ゆっくりでいい。
そんなふうに言われている気がした。
唯がソファーにもたれると、晃哉はいつものように隣へ座った。
少し酔いが回った唯の顔を覗き込む。
「唯、酔った? 眠たい?」
「んー……大丈夫。ちょっと酔った笑」
「そっか」
晃哉は、唯の頬に触れることもなく、ただ自然に顔を近づけた。
そして、優しくキスをした。
「え? 急になしたの? こうちゃん笑」
唯は、少し驚いたように笑う。
晃哉は何でもない顔をした。
「ん? なんもだよ」
「明日休み?」
「うん、休みだよぉ」
「そっか」
晃哉は、少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、もう少し話そ」
それから二人は、くだらない話をした。
何を話したのか、あとになってしまえば思い出せないくらいの、他愛もない話。
笑って。
飲んで。
音楽を聴いて。
いつものように、隣にいる。
それだけだった。
けれど、その夜の晃哉は、いつもより唯の側を離れなかった。
「こうちゃん、なに飲んでるの?」
唯が晃哉のグラスを覗き込む。
「これ? ウィスキーだよ」
「私も飲みたい!」
「だーめ」
晃哉は笑った。
「唯にはまだ早い。もう、ちょっと酔ってるしょ?」
「こうちゃんと一緒のが飲みたいのに……」
唯は少しだけ頬を膨らませる。
そんな唯を見て、晃哉は困ったように笑った。
「……ちょっと待ってな?」
晃哉は立ち上がり、台所へ向かった。
やがて、二つ目のグラスを持って戻ってくる。
唯の前に差し出されたグラスには、晃哉のものよりずっと薄い茶色の液体が入っていた。
「はい。唯はまず水割りからね」
「わぁい!」
唯の顔がぱっと明るくなる。
「こうちゃんと一緒だ! 嬉しい。ありがとう!」
「すごい薄くしたから笑」
「子供じゃないもん!」
「はいはい。心配だから」
晃哉は笑いながらグラスを掲げた。
「ほら、乾杯」
「乾杯!」
グラスが小さく触れ合う。
カラン、と氷が鳴った。
それだけの音が、静かな部屋の中に響いた。
唯は嬉しそうに笑っている。
晃哉と同じものを飲める。
ただ、それだけのことが嬉しい。
そんな唯を、晃哉は黙って見つめていた。
その目には、いつもの優しさがあった。
そして――
どこか、名残惜しむような色が混じっていた。
けれど唯は、それに気づかなかった。
*
深夜二時。
時計の針が、静かに進んでいた。
「こうちゃーん」
すっかり酔いの回った唯が、晃哉に身体を預ける。
「気持ちいいね? ふわふわする~」
「唯、完全に酔ってるしょ?」
「酔ってないもん……」
そう言いながら、唯は晃哉に抱きついた。
そのまま顔を上げると、テレビの横にある観葉植物が目に入った。
「こうちゃん」
「ん?」
「あれ、ずっと元気だね」
唯は植物を眺めながら笑った。
「枯れないし。結構強いのかな?」
晃哉も、植物へ視線を向ける。
「……んー。ちゃんとお世話してるからね」
「え? そうなの?」
「って言っても、水やって、たまに日光あてて……ってくらいだけどさ」
「へぇ……」
唯は、植物を見つめた。
それから、また晃哉を見る。
「唯より手がかかるんだね、この子笑」
「唯ほどじゃないよ?笑」
「え! なにそれ~! ひどい、こうちゃん」
唯は笑いながら、晃哉の肩にもたれた。
晃哉も笑った。
けれど、その目は植物ではなく、唯を見ていた。
「でも……」
唯が、ふっと優しい顔をする。
「大切に育ててくれてありがとう」
晃哉は何も言わずに、唯を見つめた。
「きっと、幸せを枯らしてないから幸せになるよ!」
無邪気な言葉だった。
晃哉は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……うん」
短い返事。
「唯? 大丈夫か? 眠い?」
「目が開けれないだけだよぉ」
「それを眠いって言うんだよ笑」
晃哉は笑いながら、唯の手を取った。
「ほら、寝るよ?」
二人で並んで歯を磨いた。
鏡の中に映る二人。
いつもと同じ夜。
いつもと同じ二人。
歯磨きを終えると、二人でベッドへ入った。
晃哉は自然に唯へ腕を回した。
唯は、その腕の中で小さく笑った。
「気持ちく酔ったぁぁ」
「そうだな……」
しばらく、静かな時間が流れた。
唯はふと思い出したように顔を上げる。
「あ、こうちゃん」
「ん?」
「ねぇねぇ、こうちゃん」
「ん?」
「おやすみのちゅーして」
晃哉は、唯を見つめた。
その目を見た瞬間、唯はほんの少しだけ不思議に思った。
いつもと違う。
何が違うのかはわからない。
ただ――
いつもより、晃哉の目が真剣だった。
晃哉は唯に顔を近づける。
そして、深く、長いキスをした。
「ちょっ……こうちゃん」
唯が笑う。
「おやすみのちゅーにしては激しくない?笑」
晃哉は、唯を見つめた。
その表情には、いつもの余裕がなかった。
唯は少しだけ首を傾げる。
晃哉が、静かに尋ねた。
「……やだ?」
「嫌じゃないよ」
唯は笑った。
そして、晃哉の背中へ腕を回す。
「こうちゃん、だーいすき!」
その瞬間、晃哉は唯を強く抱き寄せた。
何度も。
何度も。
唯を求めるように、キスをした。
「唯……」
名前を呼ぶ。
何度も。
まるで、その名前を自分の中に刻みつけるように。
唯はただ、晃哉の腕の中で笑っていた。
その夜が、最後になるなんて知らない。
これが――
晃哉と過ごす、最後の夜になるなんて。
唯は、夢にも思っていなかった。
*
翌日。
二人は昼まで眠った。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中を少しずつ明るくしていく。
いつもの朝。
いつもの部屋。
いつもの時間。
晃哉は十四時から仕事だった。
時間が近づくと、身支度を始める。
唯も帰る準備をする。
二人で玄関へ向かった。
靴を履き、ドアの前に立つ。
その瞬間だった。
晃哉が、唯を抱きしめた。
突然のことに、唯は笑った。
「なしたの?こうちゃん?」
そして、いつものように冗談を言う。
「あ、さてはまた仕事行きたくない病だなぁ?」
晃哉の腕が、少しだけ強くなる。
「……うん」
小さな声。
「行きたくないな……」
唯は笑った。
「頑張ってね?」
そして、晃哉の胸に顔を埋める。
「私も帰りたくないよぉ」
「……うん」
短い返事だった。
玄関の静けさの中で、二人はしばらく抱き合っていた。
やがて唯が顔を上げる。
「こうちゃん、またね」
いつもの言葉。
いつもの別れ。
「仕事落ち着いたら、また会おうね」
晃哉は唯を見つめた。
「……うん」
そして、静かに言った。
「また連絡するから……」
唯は、その言葉を疑わなかった。
「うん」
笑って、手を振った。
そして――
二人は別れた。
それが最後になるなんて、知らないまま。
*
ねぇ、こうちゃん。
どうして――
何も言わずにいなくなったの?
「またね」って言ったのに…
私は、また会えると思ってた。
仕事が落ち着いたら。
また連絡が来ると思ってた。
だから、待っていた。
けれど――
こうちゃんから連絡はこなかった。
私は、こうちゃんのことがわからなかった。
どうして?
何があったの?
あんなに優しかったのに。
あんなに私を抱きしめていたのに。
あんなに何度も名前を呼んでいたのに。
それなのに、どうして何も言わずに消えたの?
私は、苦しくて。
悲しくて。
どうしていいのかわからなくて。
だから、自分に言い聞かせた。
きっと、遊びだったんだ。
私は捨てられたんだ。
こうちゃんにとって、私はその程度だったんだ。
そう思わなければ――
おかしくなってしまいそうだった。
そうでもしなければ、この現実を受け止められなかった。
でも。
どうしても、そうは思えなかった。
今までのこと全部、ただの遊びだったなんて。
どうしても、思えなかった。
だから余計に苦しかった。
何を信じればいいのかわからなかった。
夢を見ているみたいだった。
昨日まで確かに隣にいた人が、
まるで最初から存在しなかったみたいに、
私の前からいなくなった。
自分の身体の一部を、突然失ってしまったようだった。
息を吸っても、胸の奥まで空気が入ってこない。
何をしていても、どこかが空っぽだった。
笑おうとしても、笑えない。
眠っても、目が覚める。
目が覚めれば、また思い知らされる。
こうちゃんがいない。
こうちゃんは、もういない。
私は――
壊れた。
*
ねぇ、こうちゃん。
どこにいるの?
どこにも行かないで。
私を置いていかないで。
お願いだから。
また、いつものように笑ってよ。
「唯、酔った?」
って。
「もう寝るよ?」
って。
私の手を引いてよ。
また、腕枕してよ。
また、隣に座ってよ。
また、くだらない話をしようよ。
ねぇ、こうちゃん。
こうちゃんがいないと……
私、
うまく息ができないよ。
十二月に入ったよ。
もうすぐ、こうちゃんの誕生日だね。
あの頃も、そう話していたよね。
「もうすぐ誕生日だね」って。
その言葉を交わした日々の先に、最後が待っているなんて。
私は、少しも思っていなかった。
あの日も、いつもと何も変わらなかった。
変わらない部屋。
変わらない景色。
変わらない一日。
だから私は、何も疑わなかった。
こうちゃんは、最後まで私に優しかった。
最後になることなんて、少しも感じさせないまま。
まるで、また明日も会えるみたいに。
私の隣にいてくれた。
*
晃哉が、唯と少し距離を置いていた時期があった。
会うことを減らしたり、連絡を控えたり。
唯には、その理由がよくわからなかった。
それでも、時間が経つにつれて、二人が会う頻度は少しずつ戻っていった。
気づけばまた、以前と同じように会っていた。
だから唯は、信じていた。
「もう少し居られるかもしれない」
晃哉がそう言った、その言葉を。
きっと、まだ大丈夫なのだと思っていた。
晃哉の部屋を訪れるたび、そこにはいつもの景色があった。
引っ越しの準備をしている様子もない。
荷物がまとめられているわけでもない。
テレビの横には、ずっとそこにある観葉植物。
何も変わっていない。
だから唯は、安心していた。
ここはまだ、なくならない。
晃哉もまだ、いなくならない。
そんなふうに、勝手に思っていた。
その日も、二人でお酒を飲んだ。
いつものようにソファーに座り、晃哉がDJをする音を聴いていた。
部屋の中に流れる音楽。
グラスの中で揺れる氷。
隣にいる晃哉の体温。
何も特別じゃない。
それなのに、唯にとっては、その全部が幸せだった。
「この曲いいよね?」
晃哉が言う。
「うん。好き」
音楽に耳を傾けながら、唯はふと思い出したように笑った。
「こうちゃん、私も曲つないでみたい!」
出会った頃から、晃哉には何度かDJを教えてもらっていた。
けれど唯には、なかなか難しかった。
スクラッチをすると、レコードに傷がつきそうで怖い。
恐る恐る触る唯を見て、晃哉はいつも笑っていた。
「唯、大丈夫だよ。やってみな」
その声は、いつだって優しかった。
失敗してもいい。
ゆっくりでいい。
そんなふうに言われている気がした。
唯がソファーにもたれると、晃哉はいつものように隣へ座った。
少し酔いが回った唯の顔を覗き込む。
「唯、酔った? 眠たい?」
「んー……大丈夫。ちょっと酔った笑」
「そっか」
晃哉は、唯の頬に触れることもなく、ただ自然に顔を近づけた。
そして、優しくキスをした。
「え? 急になしたの? こうちゃん笑」
唯は、少し驚いたように笑う。
晃哉は何でもない顔をした。
「ん? なんもだよ」
「明日休み?」
「うん、休みだよぉ」
「そっか」
晃哉は、少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、もう少し話そ」
それから二人は、くだらない話をした。
何を話したのか、あとになってしまえば思い出せないくらいの、他愛もない話。
笑って。
飲んで。
音楽を聴いて。
いつものように、隣にいる。
それだけだった。
けれど、その夜の晃哉は、いつもより唯の側を離れなかった。
「こうちゃん、なに飲んでるの?」
唯が晃哉のグラスを覗き込む。
「これ? ウィスキーだよ」
「私も飲みたい!」
「だーめ」
晃哉は笑った。
「唯にはまだ早い。もう、ちょっと酔ってるしょ?」
「こうちゃんと一緒のが飲みたいのに……」
唯は少しだけ頬を膨らませる。
そんな唯を見て、晃哉は困ったように笑った。
「……ちょっと待ってな?」
晃哉は立ち上がり、台所へ向かった。
やがて、二つ目のグラスを持って戻ってくる。
唯の前に差し出されたグラスには、晃哉のものよりずっと薄い茶色の液体が入っていた。
「はい。唯はまず水割りからね」
「わぁい!」
唯の顔がぱっと明るくなる。
「こうちゃんと一緒だ! 嬉しい。ありがとう!」
「すごい薄くしたから笑」
「子供じゃないもん!」
「はいはい。心配だから」
晃哉は笑いながらグラスを掲げた。
「ほら、乾杯」
「乾杯!」
グラスが小さく触れ合う。
カラン、と氷が鳴った。
それだけの音が、静かな部屋の中に響いた。
唯は嬉しそうに笑っている。
晃哉と同じものを飲める。
ただ、それだけのことが嬉しい。
そんな唯を、晃哉は黙って見つめていた。
その目には、いつもの優しさがあった。
そして――
どこか、名残惜しむような色が混じっていた。
けれど唯は、それに気づかなかった。
*
深夜二時。
時計の針が、静かに進んでいた。
「こうちゃーん」
すっかり酔いの回った唯が、晃哉に身体を預ける。
「気持ちいいね? ふわふわする~」
「唯、完全に酔ってるしょ?」
「酔ってないもん……」
そう言いながら、唯は晃哉に抱きついた。
そのまま顔を上げると、テレビの横にある観葉植物が目に入った。
「こうちゃん」
「ん?」
「あれ、ずっと元気だね」
唯は植物を眺めながら笑った。
「枯れないし。結構強いのかな?」
晃哉も、植物へ視線を向ける。
「……んー。ちゃんとお世話してるからね」
「え? そうなの?」
「って言っても、水やって、たまに日光あてて……ってくらいだけどさ」
「へぇ……」
唯は、植物を見つめた。
それから、また晃哉を見る。
「唯より手がかかるんだね、この子笑」
「唯ほどじゃないよ?笑」
「え! なにそれ~! ひどい、こうちゃん」
唯は笑いながら、晃哉の肩にもたれた。
晃哉も笑った。
けれど、その目は植物ではなく、唯を見ていた。
「でも……」
唯が、ふっと優しい顔をする。
「大切に育ててくれてありがとう」
晃哉は何も言わずに、唯を見つめた。
「きっと、幸せを枯らしてないから幸せになるよ!」
無邪気な言葉だった。
晃哉は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……うん」
短い返事。
「唯? 大丈夫か? 眠い?」
「目が開けれないだけだよぉ」
「それを眠いって言うんだよ笑」
晃哉は笑いながら、唯の手を取った。
「ほら、寝るよ?」
二人で並んで歯を磨いた。
鏡の中に映る二人。
いつもと同じ夜。
いつもと同じ二人。
歯磨きを終えると、二人でベッドへ入った。
晃哉は自然に唯へ腕を回した。
唯は、その腕の中で小さく笑った。
「気持ちく酔ったぁぁ」
「そうだな……」
しばらく、静かな時間が流れた。
唯はふと思い出したように顔を上げる。
「あ、こうちゃん」
「ん?」
「ねぇねぇ、こうちゃん」
「ん?」
「おやすみのちゅーして」
晃哉は、唯を見つめた。
その目を見た瞬間、唯はほんの少しだけ不思議に思った。
いつもと違う。
何が違うのかはわからない。
ただ――
いつもより、晃哉の目が真剣だった。
晃哉は唯に顔を近づける。
そして、深く、長いキスをした。
「ちょっ……こうちゃん」
唯が笑う。
「おやすみのちゅーにしては激しくない?笑」
晃哉は、唯を見つめた。
その表情には、いつもの余裕がなかった。
唯は少しだけ首を傾げる。
晃哉が、静かに尋ねた。
「……やだ?」
「嫌じゃないよ」
唯は笑った。
そして、晃哉の背中へ腕を回す。
「こうちゃん、だーいすき!」
その瞬間、晃哉は唯を強く抱き寄せた。
何度も。
何度も。
唯を求めるように、キスをした。
「唯……」
名前を呼ぶ。
何度も。
まるで、その名前を自分の中に刻みつけるように。
唯はただ、晃哉の腕の中で笑っていた。
その夜が、最後になるなんて知らない。
これが――
晃哉と過ごす、最後の夜になるなんて。
唯は、夢にも思っていなかった。
*
翌日。
二人は昼まで眠った。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中を少しずつ明るくしていく。
いつもの朝。
いつもの部屋。
いつもの時間。
晃哉は十四時から仕事だった。
時間が近づくと、身支度を始める。
唯も帰る準備をする。
二人で玄関へ向かった。
靴を履き、ドアの前に立つ。
その瞬間だった。
晃哉が、唯を抱きしめた。
突然のことに、唯は笑った。
「なしたの?こうちゃん?」
そして、いつものように冗談を言う。
「あ、さてはまた仕事行きたくない病だなぁ?」
晃哉の腕が、少しだけ強くなる。
「……うん」
小さな声。
「行きたくないな……」
唯は笑った。
「頑張ってね?」
そして、晃哉の胸に顔を埋める。
「私も帰りたくないよぉ」
「……うん」
短い返事だった。
玄関の静けさの中で、二人はしばらく抱き合っていた。
やがて唯が顔を上げる。
「こうちゃん、またね」
いつもの言葉。
いつもの別れ。
「仕事落ち着いたら、また会おうね」
晃哉は唯を見つめた。
「……うん」
そして、静かに言った。
「また連絡するから……」
唯は、その言葉を疑わなかった。
「うん」
笑って、手を振った。
そして――
二人は別れた。
それが最後になるなんて、知らないまま。
*
ねぇ、こうちゃん。
どうして――
何も言わずにいなくなったの?
「またね」って言ったのに…
私は、また会えると思ってた。
仕事が落ち着いたら。
また連絡が来ると思ってた。
だから、待っていた。
けれど――
こうちゃんから連絡はこなかった。
私は、こうちゃんのことがわからなかった。
どうして?
何があったの?
あんなに優しかったのに。
あんなに私を抱きしめていたのに。
あんなに何度も名前を呼んでいたのに。
それなのに、どうして何も言わずに消えたの?
私は、苦しくて。
悲しくて。
どうしていいのかわからなくて。
だから、自分に言い聞かせた。
きっと、遊びだったんだ。
私は捨てられたんだ。
こうちゃんにとって、私はその程度だったんだ。
そう思わなければ――
おかしくなってしまいそうだった。
そうでもしなければ、この現実を受け止められなかった。
でも。
どうしても、そうは思えなかった。
今までのこと全部、ただの遊びだったなんて。
どうしても、思えなかった。
だから余計に苦しかった。
何を信じればいいのかわからなかった。
夢を見ているみたいだった。
昨日まで確かに隣にいた人が、
まるで最初から存在しなかったみたいに、
私の前からいなくなった。
自分の身体の一部を、突然失ってしまったようだった。
息を吸っても、胸の奥まで空気が入ってこない。
何をしていても、どこかが空っぽだった。
笑おうとしても、笑えない。
眠っても、目が覚める。
目が覚めれば、また思い知らされる。
こうちゃんがいない。
こうちゃんは、もういない。
私は――
壊れた。
*
ねぇ、こうちゃん。
どこにいるの?
どこにも行かないで。
私を置いていかないで。
お願いだから。
また、いつものように笑ってよ。
「唯、酔った?」
って。
「もう寝るよ?」
って。
私の手を引いてよ。
また、腕枕してよ。
また、隣に座ってよ。
また、くだらない話をしようよ。
ねぇ、こうちゃん。
こうちゃんがいないと……
私、
うまく息ができないよ。