残響
あれから、一週間近くが経っていた。

唯は澄香と一緒に、いつものように「sugar」にいた。

店内には音楽が流れ、色とりどりの照明が静かに揺れている。

グラスの中の氷が、カラン、と小さな音を立てた。

お酒を飲みながら、DJの選曲に合わせて身体を揺らす。

笑って。

話して。

いつもと変わらない夜。

少なくとも、唯はそう思っていた。

そこへ大輔が近づいてきた。

「お、飲んでる?」

そう言ってグラスを掲げる。

「飲んでるよ」

唯も笑ってグラスを合わせた。

カチン、と軽い音が響く。

他愛のない話をしながら、三人で笑い合う。

そんな時間の途中だった。

大輔が、ふと思い出したように口を開いた。

「あ、そういえば。今日、晃哉さんにDJお願いしたんだけどさ」

その名前を聞いた瞬間だった。

唯の表情が、ぱっと明るくなる。

「こうちゃん来るの?」

声まで弾んだ。

けれど、大輔は少しだけ言葉を濁した。

「いや……来れないって」

「あ、そっかぁ……」

唯は少しだけ残念そうに唇を尖らせた。

けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「仕事忙しいのかな」

何も知らない。

何も疑っていない。

ただ、今日ここに来られない理由を、仕事が忙しいのだと思っている。

その無邪気な顔を見て、大輔の表情がわずかに曇った。

そして、一瞬だけ澄香を見る。

その視線に、澄香は気づいた。

「……なに?」

大輔は黙ったままだった。

「言いなよ。どうしたの?」

澄香が促す。

大輔は小さく息を吐いた。

そして、言った。

「……晃哉さん、転勤終わるから……来週、地元に帰るって」

その瞬間。

音楽が、遠くなった。

唯の耳には、周りの声も、グラスの音も、何も入ってこなかった。

ただ、その言葉だけが頭の中に残った。

――来週、地元に帰る。

「……え?」

唯は、ゆっくりと澄香を見る。

そして、もう一度、大輔を見る。

けれど、誰も何も言わない。

唯の顔から、少しずつ血の気が引いていった。

「……うそ……」

声が震える。

「うそだよね?」

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

答えを聞くのが怖かった。

けれど、確かめずにはいられなかった。

唯は椅子から立ち上がった。

「唯……」

澄香が呼び止める。

けれど、もう聞こえていなかった。

そのまま店を飛び出した。

外の冷たい空気が頬を刺した。

唯は急いで車に乗り込む。

エンジンをかける手が震えていた。

ハンドルを握る。

そして、晃哉の家へ向かった。

車窓を流れていく見慣れた景色。

何度も通った道。

見慣れた交差点。

いつもなら何も感じない信号さえ、今夜はひどく長く感じた。

――お願い。

――まだ、いて。

――嘘であって。

胸の奥で、何度も繰り返す。

やがて、見慣れた建物が見えてきた。

晃哉の部屋には、明かりがついていた。

その光を見た瞬間、唯はほんの少しだけ息を吐いた。

ほら。

何も変わっていない。

いつも通りだ。

きっと大輔の聞き間違いだ。

そう思いたかった。

車を降りる。

唯は走った。

階段を駆け上がる。

二階まで一気に上がり、息を切らしながらインターホンを押した。

ピンポーン。

少しして。

鉄の扉が開いた。

そこに晃哉が立っていた。

「……唯?」

突然現れた唯を見て、晃哉の目がわずかに見開かれる。

唯は息を整えることもできないまま、口を開いた。

「こうちゃん、あのね……!」

言いたいことがたくさんあった。

どうして。

転勤って。

来週って。

なんで何も言ってくれなかったの。

けれど――

言葉が止まった。

玄関から、隣の部屋が見えた。

そこにあったのは。

いくつもの段ボールだった。

積み重ねられた箱。

片付けられた部屋。

いつもの晃哉の部屋とは、明らかに違っていた。

唯の顔から、すっと表情が消える。

「……なんで……」

小さな声だった。

晃哉は、その視線を追わなかった。

ただ、唯を見つめた。

「ごめん、唯」

静かな声だった。

「俺、今から仕事なんだ」

唯の胸が、ぎゅっと締めつけられる。

「……それも、うそ?」

晃哉は一瞬だけ目を伏せた。

「ごめん。本当に行かなきゃない」

その言葉を最後に、晃哉は玄関の扉を閉めた。

鍵がかかる音がした。

唯は、何も言えないまま、その後を追った。

階段を降りていく晃哉。

その背中を、唯は必死についていく。

「こうちゃん……」

返事はない。

「ねぇ、どうして?」

それでも、晃哉は歩き続けた。

外へ出る。

冷たい空気が二人の間を通り抜ける。

そして――

唯は、とうとう耐えられなくなった。

後ろから晃哉に抱きついた。

「こうちゃん……?」

背中に頬を押しつける。

「ねぇ、どうして?」

腕に力を込める。

離したくなかった。

このまま離してしまったら、本当に何もかも終わってしまう気がした。

けれど。

晃哉は振り返らなかった。

「ごめん」

ただ、それだけだった。

「仕事行くから」

唯の腕を、ゆっくりとほどく。

そして、振りほどくようにして離れた。

晃哉は、そのまま歩き出した。

「こうちゃん……!」

呼び止める声が、夜の街に響く。

けれど、晃哉は振り返らない。

その背中が、少しずつ遠ざかっていく。

外は、いつの間にか雪になっていた。

白い雪が、静かに降り始めている。

唯は、その場に立ち尽くした。

いつもなら。

いつもなら、晃哉は最後に一度、振り返ってくれる。

どんなに離れていても。

どんなに喧嘩をしていても。

帰っていく唯を、最後まで見送ってくれた。

なのに――

今日は、一度も振り返らなかった。

「……どうして……」

涙が頬を伝う。

「こうちゃん……」

視界が滲む。

晃哉の背中が、涙の向こうでぼやけていく。

それでも唯は、動けなかった。

「どうして……」

もう一度、呟く。

「……どうして何も言ってくれなかったの……」

答えは返ってこない。

ただ、雪だけが降っていた。

やがて雪は強くなり、唯の髪や肩を白く染めていく。

冷たい。

手が、どんどん冷たくなっていく。

けれど、それすらどうでもよかった。

唯は自分の手を見つめた。

さっきまで晃哉を抱きしめていた手。

その手から――

晃哉が離れていった。

唯はその場に座り込んだ。

雪の上に膝をつく。

涙が止まらない。

声を上げることさえできなかった。

ただ、遠ざかっていく晃哉の背中を見つめていた。

やがて、その姿さえ見えなくなった。

それから、どうやって家に帰ったのか。

唯には、もう覚えていなかった。

家に着いても、濡れた髪を乾かす気力すらなかった。

そのままベッドに潜り込む。

布団の中で身体を丸める。

そして、声を殺して泣いた。

泣いても。

泣いても。

胸の奥に空いた穴は、少しも埋まらなかった。

ねぇ、こうちゃん……

どうして何も言ってくれないの……。

どうして、この手を離したの……。

あんなに近くにいたのに。

あんなに当たり前に隣にいたのに。

どうして私は、最後の最後まで何も知らなかったの……。

あの日。

唯の中にあった何かが、音もなく崩れ落ちた。

大切に抱えていたものが、粉々になってしまったようだった。

もう二度と、元には戻らない。

そんな気がした。

私の心は――

この日、完全に壊れてしまったのかもしれない。
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