無駄を嫌う御曹司とかわいげのない秘書の契約結婚
プロローグ
椎名《しいな》千尋《ちひろ》は、そわそわと落ち着きなく指を組み替えている目の前の恋人に視線を向けた。
「お前以外に好きな人ができた。ごめん」
一年近く交際していた芦谷《あしや》秀旭《ひであき》がテーブル越しに頭を下げた。
別れの言葉は、千尋の予想通りだった。
今日は珍しく、彼が十分以上早く待ち合わせ場所に来ており、千尋と顔を合わせるなり『ごめん』と言ったのだ。そのときから嫌な予感がしていた。
(でも、別れ話だって知ってたら、この店を予約しなかったのにな)
店の中央には巨大なツリーが置かれていて、オーナメントで飾り付けられている。
なにもクリスマスの時期に別れ話をしなくてもいいじゃないか、とやや恨めしい気分になった。
ここは何度目かのデートで訪れ、彼から交際を申し込まれた思い出のレストランだ。
玖代《くしろ》タワーと名付けられたこの超高層ビルは、低層階には商業施設、中層階にはオフィス、上層階にはこの店を含めたレストランと都内屈指の有名ホテルが入っている。
立地の良さ、おひとり様でも気兼ねなく入れる店内の雰囲気、料理を作るシェフの腕もいいとあって、ホテルに宿泊するビジネスマンや、デートで利用するカップルからも人気の高い店だ。
今の時期はメニューもクリスマス仕様になっており、今日のデザートはベルギー産チョコレートを使用したチョコレートケーキだと楽しみにしていたのに。
「そう」
千尋はそれだけ言うと、ため息を呑み込み、眼下に広がる夜景と窓に映る自分の顔を見つめた。
見慣れた自分の顔は、ここ最近いろいろあったせいで疲れ切っている。
胸元辺りまで伸びたストレートの黒髪は、櫛を通しただけ。ストパーいらずの直毛だから、お手入れいらずで助かっている。
目は大きめで鼻は小ぶり。
少し厚めの唇が自分では気に入っているが、学生時代は髪が短く、運動部でもあったため、男子から『女っぽくない』と言われていた。
「かわいげがないって言うか、そういう淡々としてるとこ、相変わらずだよな」
千尋に淡々としているつもりはなくても、秀旭にはそう映るのだろう。
嫌な予感がしていても、秀旭とはうまくいっていたと思っていたから、実際に彼の口から別れの言葉が出てくるまでは、気のせいだと言い聞かせていたのに。
千尋は小さく嘆息する。
(かわいげないから、振られるのかな)
髪を伸ばして化粧をしたらと思っていた時期もあったが、女らしさとは見た目だけに滲み出るものではないのか、残念ながら二十八歳になっても、いわゆる〝守ってあげたくなるかわいい女の子〟にはなれていない。
上司である取締役たちからも、『男勝りだな!』などと言われるから、性格なのだろう。
「淡々と、してるかな。そんなつもりないんだけど」
「してるだろ……別れ話したって、顔色ひとつ変わらないんだから」
秀旭は間髪入れずにそう言った。そして、疲れたようにため息をつき、まったく手をつけていない料理に視線を落とす。
(ため息をつきたいのはこっちよ。そんなことどうして今になって言うの? 男の媚びを売らないところが好きだって言ってたじゃない)
かわいらしさのある女性が好きならば、千尋に告白などしなければよかったのに。
秀旭と出会ったのは一年前。友人が主催した飲み会だ。
彼は千尋の真面目さや、男性に対して隙がないところに好感を持ってくれたようで、何度目かのデートのあと交際を申し込まれた。
秀旭を好きかどうかわからないまま交際に発展したけれど、それなりに相手を尊重していたし、彼を知るうちに好意を抱くまでになったのだ。
「別れようって言っても、泣いてもくれないんだから、俺への気持ちは最初からその程度だったんだよ。べつに俺のこと好きでもなんでもなかったんだろう? 俺と一ヶ月顔を合わせなくたって平然としていられるんだしさ……」
千尋がなにも返さなかったからだろう。彼は次から次へと不満を口にした。
今日になって不満が出てきたわけではなく、これまでの期間、千尋に対してかなりの鬱憤を溜めていたのだろう。
たしかにこの一ヶ月、千尋は秀旭にまともに連絡できなかった。事情があったにせよ、恋人になにも説明しなかったのは自分が悪い。
千尋の父は木製玩具の製造、販売を行う『クマトイファクトリー』を経営している。契約している職人は多数いるが、従業員は両親と兄のたった三人。
安価で大量に作られる海外製品も多い中、質と安全、安心にこだわった会社だ。
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