無駄を嫌う御曹司とかわいげのない秘書の契約結婚
作り置きの玉子焼きとひじきの煮物とご飯。スーパーで買ったブロッコリーと海老のマヨネーズ和え。どれも手の込んだ料理ではないが、やはりひとりきりの食事よりふたりで食べた方がおいしいと思う。
「お口に合いますか?」
「あぁ、君のお母さんのコロッケもうまかった。これも同じ味なんだろう?」
家族の話を覚えてくれていたのか。そんななんでもないことが嬉しくて、千尋は笑った。すると、大和が不思議そうにこちらを見る。
「どうしたんですか?」
「いや、千尋の笑いどころがわからなくてな」
「わからなくていいです」
会話が弾んだとは言いがたいが、大和は片付けまで一緒にやってくれた。一緒に暮らして少しずつ距離が縮まっているような気がして、期待を押しとどめるのに苦労した。
千尋はすでに、彼の妻という居場所を失いたくないと望んでしまっている。
第五章 千尋じゃないとダメなんだ
キスをしたあとも大和との関係はなにも変わらないまま、結婚してから二ヶ月が経った。
三月に入り、衣替えを済ませて冬用コートをしまっても、朝と晩の冷え込みはまだまだ続く。
千尋は薄いトレンチコートの前をかき合わせて、ビルの入り口をとおった。
エスカレーターを上がりフロアに入ると、秘書室から和気あいあいとした話し声が聞こえてきた。
「やだぁ~もうそれは言わないでくださいよ」
「いや……少し前の矢木さんは、そんなんだって。今みたいな方がいいよ。明るいしさ」
「そうですか~?」
甘えるような声を上げたのは、お騒がせな奏恵である。
奏恵は大和から秘書室の男性社員に完全に鞍替えしたらしい。どういう心境の変化なのか、この一ヶ月近く、無断欠勤もなく真面目に仕事をしている。
とはいえ、仕事内容はまだ書類整理や文章の作成くらいだが。
だがそれが秘書室の優秀な男性社員からすると庇護欲をそそるのか、今までのマイナス評価を覆すがごとく、ちやほやされはじめている。
「男ってほんとああいう女に弱いわよね。なんなのコロッと手のひらを返しちゃって」
舌打ちをしそうな忌ま忌ましいと言わんばかりの声で言ったのは、女性秘書。
千尋も、今まであれだけ文句を言っていたのにと思わないでもないが、今の奏恵はかわいがられる女性そのものだと思う。
大和にも一歩引いた態度を取るようになったのも周囲から高評価であった。
千尋としては仕事で迷惑をかけられないならいいし、真面目に働いてくれるならなにも言うことはない。
(でも、あのときの態度を見て、諦めてるとは思えなかったけど)
真面目に仕事をしていても、心を入れ替えたとは思えないのだ。千尋のことは完全に無視だし、彼女が話しかけるのは男性社員だけ。
女性秘書も急に変わった奏恵の態度を訝しむひとりだった。
奏恵は男性秘書と話を終えると、千尋の隣の自席に着き書類整理を始めた。
この一ヶ月、奏恵が妙に晴れ晴れとした顔で出勤していた理由は、その日の昼休みに判明することになった。
「休憩中に悪いが……椎名、ちょっと来てくれるか。パソコンも持ってきてくれ」
執務室から出てきた大和が、千尋に向けて顎をしゃくった。
「はい」
ちょうど昼休憩に出ようとしていた千尋は、ランチ用のトートバッグをデスクにしまい、パソコンのコードを抜いて手に持つと、執務室に急いだ。
「なにかございましたか?」
大和のデスクの前に立つと、眉間にしわを寄せた彼が、書類の束を千尋に見えるように置いた。写真とメールが印刷されたもののようだ。
千尋は書類を手に取って一枚ずつ捲っていき、驚愕に目を見開いた。
(なに、これ……メール?)
大和はデスクに肘をつき、両手を組むとため息を漏らす。
「清水建設の清水会長から連絡があったんだ。君から何件もの怪しげなメールが届いたと。中には機密文書もあった。君の人柄は知っているから、なにかに巻き込まれていないかと連絡をくれたんだ。メールを確認してくれ」
千尋は慌てて送信履歴を確認し、驚く。印刷されたメールと同じ文章で、自分が送った覚えのないメールが何件も表示されていた。
しかもそこにはパスワードのかかった機密文書がいくつも添付されていた。
パスワードはべつで管理しているため、清水に開けられる心配はないが、だとしてもスパイ行為を疑われるような行いだ。千尋の顔から血の気が引く。
「……申し訳、ございません」
「君は送ってないんだろう? パソコンのパスワードを誰かに突破されたんだろうな」
「はい……そうだと思います」
誰がこんなことをするかと考えれば、ひとりしか思いつかない。
奏恵はそこまでしないと高を括っていた。仕事のことだってどうせわからないと思い込んでいた。隣からパスワードを覗き見されているなんて考えなかった。
「お口に合いますか?」
「あぁ、君のお母さんのコロッケもうまかった。これも同じ味なんだろう?」
家族の話を覚えてくれていたのか。そんななんでもないことが嬉しくて、千尋は笑った。すると、大和が不思議そうにこちらを見る。
「どうしたんですか?」
「いや、千尋の笑いどころがわからなくてな」
「わからなくていいです」
会話が弾んだとは言いがたいが、大和は片付けまで一緒にやってくれた。一緒に暮らして少しずつ距離が縮まっているような気がして、期待を押しとどめるのに苦労した。
千尋はすでに、彼の妻という居場所を失いたくないと望んでしまっている。
第五章 千尋じゃないとダメなんだ
キスをしたあとも大和との関係はなにも変わらないまま、結婚してから二ヶ月が経った。
三月に入り、衣替えを済ませて冬用コートをしまっても、朝と晩の冷え込みはまだまだ続く。
千尋は薄いトレンチコートの前をかき合わせて、ビルの入り口をとおった。
エスカレーターを上がりフロアに入ると、秘書室から和気あいあいとした話し声が聞こえてきた。
「やだぁ~もうそれは言わないでくださいよ」
「いや……少し前の矢木さんは、そんなんだって。今みたいな方がいいよ。明るいしさ」
「そうですか~?」
甘えるような声を上げたのは、お騒がせな奏恵である。
奏恵は大和から秘書室の男性社員に完全に鞍替えしたらしい。どういう心境の変化なのか、この一ヶ月近く、無断欠勤もなく真面目に仕事をしている。
とはいえ、仕事内容はまだ書類整理や文章の作成くらいだが。
だがそれが秘書室の優秀な男性社員からすると庇護欲をそそるのか、今までのマイナス評価を覆すがごとく、ちやほやされはじめている。
「男ってほんとああいう女に弱いわよね。なんなのコロッと手のひらを返しちゃって」
舌打ちをしそうな忌ま忌ましいと言わんばかりの声で言ったのは、女性秘書。
千尋も、今まであれだけ文句を言っていたのにと思わないでもないが、今の奏恵はかわいがられる女性そのものだと思う。
大和にも一歩引いた態度を取るようになったのも周囲から高評価であった。
千尋としては仕事で迷惑をかけられないならいいし、真面目に働いてくれるならなにも言うことはない。
(でも、あのときの態度を見て、諦めてるとは思えなかったけど)
真面目に仕事をしていても、心を入れ替えたとは思えないのだ。千尋のことは完全に無視だし、彼女が話しかけるのは男性社員だけ。
女性秘書も急に変わった奏恵の態度を訝しむひとりだった。
奏恵は男性秘書と話を終えると、千尋の隣の自席に着き書類整理を始めた。
この一ヶ月、奏恵が妙に晴れ晴れとした顔で出勤していた理由は、その日の昼休みに判明することになった。
「休憩中に悪いが……椎名、ちょっと来てくれるか。パソコンも持ってきてくれ」
執務室から出てきた大和が、千尋に向けて顎をしゃくった。
「はい」
ちょうど昼休憩に出ようとしていた千尋は、ランチ用のトートバッグをデスクにしまい、パソコンのコードを抜いて手に持つと、執務室に急いだ。
「なにかございましたか?」
大和のデスクの前に立つと、眉間にしわを寄せた彼が、書類の束を千尋に見えるように置いた。写真とメールが印刷されたもののようだ。
千尋は書類を手に取って一枚ずつ捲っていき、驚愕に目を見開いた。
(なに、これ……メール?)
大和はデスクに肘をつき、両手を組むとため息を漏らす。
「清水建設の清水会長から連絡があったんだ。君から何件もの怪しげなメールが届いたと。中には機密文書もあった。君の人柄は知っているから、なにかに巻き込まれていないかと連絡をくれたんだ。メールを確認してくれ」
千尋は慌てて送信履歴を確認し、驚く。印刷されたメールと同じ文章で、自分が送った覚えのないメールが何件も表示されていた。
しかもそこにはパスワードのかかった機密文書がいくつも添付されていた。
パスワードはべつで管理しているため、清水に開けられる心配はないが、だとしてもスパイ行為を疑われるような行いだ。千尋の顔から血の気が引く。
「……申し訳、ございません」
「君は送ってないんだろう? パソコンのパスワードを誰かに突破されたんだろうな」
「はい……そうだと思います」
誰がこんなことをするかと考えれば、ひとりしか思いつかない。
奏恵はそこまでしないと高を括っていた。仕事のことだってどうせわからないと思い込んでいた。隣からパスワードを覗き見されているなんて考えなかった。