無駄を嫌う御曹司とかわいげのない秘書の契約結婚
 大和はなるべく長くこの結婚生活を続けたいと言っていたが、それは奏恵がいつ諦めるとも知れなかったからだろう。奏恵の解雇が決まれば、結婚相手など必要もなくなる。

(でも、恋愛に興味がないなら、このまま私でもいいって思ってくれないかな)

 この気持ちを言えないからこそ、できるだけ長くそばにいたい。

 恋愛感情を自分に向けてほしいなんて贅沢は言わないから、せめて契約結婚の相手として千尋を望んでほしかった。

 大和に頼まれた仕事を進めていると、途中で奏恵に内線がかかってきた。

 彼女が席を外したと思ったら、一時間もしないうちに戻ってきて、周囲にはなにも言わず帰ってしまう。

 おそらく、千尋への嫌がらせなどの証拠を揃え、奏恵から話を聞いていたのだろう。

 一日書類仕事に没頭していると、あっという間に定時。一日、外出や役員の会議などで席を外していた同僚たちも戻ってきている。

 千尋はパソコンの画面を確認して、執務室に視線を送った。

 今日は大和に一緒に帰ろうと言われているのだ。

これも周囲に大和と千尋が不仲だと誤解されないための策だろうが、それでも一緒にいられるのは嬉しい。

 千尋はそわそわと執務室のドアが開くのを待つ。しばらくして大和がドアを開けて出てきた。千尋は慌ててパソコンの電源を落とす。

「帰れるか?」
「はい……大丈夫です」

 千尋はコートを羽織り、バッグを持った。

「皆も早めに帰るように」
「お先に失礼します」

 大和に続いて周囲に挨拶をすると、軽く腰に手を添えられた。

 これも仲のいいアピールだろうが、彼に想いを寄せている千尋は、大和に触れられているだけで落ち着きをなくしてしまうのだ。

 昼食を食べに外に出たときも、距離の近さにドキドキしたものだが、エレベーターホールにつくなり腕が離されたから、これほど動揺しなかった。

 エレベーターに乗り込むと、手を掴まれ、指を絡ませるように繋がれた。

 ここには誰もいない。

どうして今手を繋ぐのだろうと疑問に思いながら、離されるのが嫌で口には出させなかった。

 実は千尋は、男性と数えるほどしか手を繋いだことがない。秀旭と交際していたときも、どうしてなのか手を繋ぐ雰囲気にはならず、秀旭からも繋いでこなかった。

 そういえば、前に見かけた秀旭の恋人は自分から腕に掴まっていたように思う。

(甘え上手が羨ましいな……)

 千尋は、この手が離されませんようにと祈ることしかできない。

 気持ち強めに彼の手をきゅっと握ると、同じくらいの強さで握り返される。

 会社のビルを出て、てっきり駅に向かうのかと思いきや、大和は反対方向に足を向けた。

「このまま食事に付き合ってくれるか?」
「は、はい……もちろんです」

 一緒に暮らしていても、大和の部下である以上馴れ馴れしい態度は取れない。

 ただ、上司と部下のお堅い関係であっても、もしかしたら少しずつ心の距離も近づいているのでは、そんなふうに思えてくる。

「前に行ったレストランでも?」

 それは千尋が秀旭と別れ話をして、大和に契約結婚を持ちかけられた店のことだろうか。

 べつに気にしていないし、以前、契約を交わした店でもある。

 今さらどうしてそんなことを聞くのだろうと疑問を覚えていると、大和がふいに足を止めてこちらの顔を覗き込んでくる。

「昔の恋人を思い出すか?」
「いえ、あの人のことはもう。大和さんに契約結婚を持ちかけられた店って印象が強すぎて」

 千尋が苦笑して言うと、大和がほっとしたような顔をする。

「それならよかった。あの店はここから歩いても行けるだろう? その時間、千尋と手を繋いでいられる」

 まるで千尋と手を繋ぎたいと言っているように聞こえるのだが。まさかそんなはずがないと思いながらも、期待のせいでちらちらと大和を見てしまう。

 千尋も、大和とこうして手を繋いで歩いていられる時間が長い方が嬉しい。

 窺うように見ていたせいで大和と目が合う。

「どうした?」
「い、いえ……」

 大和にとっては、手を繋ぐのもあのキスと同じようなもの。彼の口からこぼれ出たとは思えないほどの甘い言葉は、体だけの関係を持つための前触れか。
 愛のない契約結婚を望む彼に期待してはいけない。
 そう自分に言い聞かせていても、こんなふうに触れられれば期待してしまう。少しでも可能性があるのかと探ってしまう。

 ぽつぽつと話しながら夜道を歩く。
 今日の午後の話し合いで、奏恵は来月末付けでの解雇処分が下されたらしい。それを聞いてほっとすると同時に、いつまで彼の妻でいられるかと不安になる。
 店に着くと、大和は夜景を横に眺められるカウンター席に腰を下ろした。
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