無駄を嫌う御曹司とかわいげのない秘書の契約結婚
 けれど、どうして自分ではダメなのかと、みっともなく縋りたい気持ちになる。

 これほどあっさりと終わりにするなら、どうしてキスをしたのか、どうして手を繋いだのか。千尋に期待させるような言葉ばかり言うのか。

 彼を責めてしまいたい思いに駆られるのだ。

「千尋、こっちを向いてくれないか」
「いやです。今は……無理です」

 顔を見られていなくとも、泣いているのはバレバレだったのだろう。みっともなくしゃくり上げる声は隠しきれなかった。

 千尋が俯いたまま嫌だと首を振ると、膝に置いた手に彼の手が重なった。思わず振り払おうとして、上から強く掴まれる。

「俺は……君を大切にしたい。できれば、千尋からの愛情がほしい。俺の望みは叶うか?」

 なにを言われているのかなかなか理解できず、頬を濡らしたまま顔を上げる。

(私からの、愛情? それって)

 どん底から一転して心が弾んだ。

大和からの愛を求めていいのだろうか。

愛し愛される関係になれるのかと、そんな期待が止められなくなる。

 すると膝の上で重ねていた手が離れていき、濡れた頬を拭われた。

「君は、俺のためなら泣いてくれるんだな」

 秀旭と別れ、涙ひとつこぼさなかったことを言われているのだと、わからないはずがなかった。

あのときだって悲しくなかったわけじゃない。秀旭の前では弱いところを見せられなかっただけ。

 でも、大和の前だと情けないところばかり見せてしまう。一緒にいると気を抜いてしまう。

強がらずにいられるから、安心してしまうのだ。

「だって……あなたが、好きな人がいるなんて、言うから。ひどい」

 言葉にすると、またどっと涙が溢れてきて止められなくなる。

 大和は苦笑しながら、千尋の涙を丁寧に拭った。

「好きな人を泣かせておいて喜んでいる場合じゃないが、気持ちを伝えるならここでと思っていたんだ。そうしたら千尋の嫌な思い出が上書きできるだろう? 契約結婚を突きつけたひどい上司をきっぱり振ってやった店になる」

 まさか大和の口からそんな冗談が飛び出すとは思ってもおらず、千尋は噴きだした。

「ここは、大和さんがプロポーズしてくれた店で、初めて告白してくれた店です。私は……これからも、あなたの妻でいてもいいんですか?」

 彼の気持ちはわかっていても言葉が欲しくて聞くと、腰に腕を回され引き寄せられた。

「ずっと俺の妻でいてほしい。君のご両親のように仲睦まじい夫婦でありたい。契約内容は変わってしまうが、本当の俺の妻になってくれないか?」
「はい、私を本当のあなたの妻にしてください」

 千尋が頷くと、大和が心底ほっとしたような顔をした。

 食事を終えて店を出ると、帰りはタクシーを拾うことになった。

 ふたりとも一刻も早く帰りたいと顔に出ていたのだろう。互いに目を合わせて苦笑する。

「横断歩道を渡った向こう側の方が掴まりそうだな。行こう」
「はい」

 大和に手を引かれて、ちょうど信号待ちになった横断歩道で待った。

 幸せすぎて気持ちがふわふわとしていたのは否めない。

 時々、隣を見上げて、目が合うたびに微笑む。

そんな時間がこれからずっと続くのだと、おそらくふたりともが疑ってもいなかった。

「……きゃっ」

 後ろから誰かが近づいてきた気配があって、千尋が振り返ろうとした瞬間、後ろから体を思いっきり押されて、前につんのめる。

「え……」
「千尋っ!」

 押された拍子に千尋は大和の手を離してしまい、あっと思ったときには、目の前が車のヘッドライトで照らされ、大きくクラクションが鳴らされた。

 声も出せず、動くこともできない。

 するとかなり強く腕を引かれて、投げだされるように道路に倒れ込んだ。

体を強かに打ちつけた痛みにその場で呻いていると、なにかが車にあたったような鈍い音が響く。

「きゃぁぁぁっ!」

 誰かの悲鳴が聞こえて、のろのろと顔を上げる。

 手を繋いでいたはずの大和の姿が隣にない。歩道で信号が変わるのを待っていた人たちのざわめきが耳に入ってくる。

「救急車を呼んで!」
「頭を打ってるかもしれないから動かしちゃダメ!」
「この女だ! この女が女の人を押したの見たよ!」

 千尋の体が恐怖でぶるぶると震えた。

這いつくばるようにして動くと、道路に誰かが倒れているのか脚が見える。

高そうな革靴はいつも大和が履いているのと似ているが、そんなはずはない。

あのとき車道に押されたのは千尋だ。大和が倒れているはずがないのに。

「や、まとさ……」

 腕や膝の痛みなど忘れて、倒れている男性のところに這いずるように行くと、顔や頭から血を流した大和がいた。

「や、大和さんっ! 大和さん! どうしてっ!?」

 思わず彼を揺さぶろうとすると、近くにいた女性が慌てた様子で千尋を止めた。

「揺らしちゃダメ! 頭を打ってるかもしれないから!」
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