無駄を嫌う御曹司とかわいげのない秘書の契約結婚
 そう言われて、徐々に頭がクリアになっていく。

 彼の命が失われていく恐怖で全身がぶるぶると震えていたが、思考だけは働いていた。

「わ、私……誰かに押されて……」

 しかしそれでどうして大和がこんなことになっているのだろう。

 言葉を震わせながらなんとか言うと、女性はわかっているというように頷いて、大和が倒れているのとはべつの方に目を向けた。千尋も釣られてそちらを見る。

「あそこで男性に抑えられてる女の人が、あなたを押したんだって。もう警察と救急車は呼んであるから安心して。男性も、意識はないけど、呼吸はあるみたい」

「あ、ありがとう、ございます」

 千尋は脱力したように息を吐く。

 そして女性が指を差す先を見れば、そこで取り押さえられているのは奏恵だった。

「ふたりとも殺してやろうと思ってたのに! どうしてあの女が生きてるのよ! 離しなさい! 私を誰だと思ってるの!」

「離すわけないだろうが!」

 奏恵は体格のいい男性に押さえつけられているが、抜け出そうともがいていた。

千尋と目が合うと「死ねばよかったのに!」と憎々しげに叫ぶ。

 狂気じみた奏恵の行動にぞっとする。

千尋をここまで恨んだ理由は大和との結婚しかないだろうが、それにしても常軌を逸している。

「大和さんが……好きなんじゃなかったの……」

 小さく漏れた千尋の言葉は彼女には届かない。

けれど、大和をも殺そうとした奏恵が、彼に愛情を向けているとは到底思えなかった。

 千尋は頭から奏恵の姿を排除し、大和の手をぎゅっと握る。

 背中を押されたときのことを冷静に思い出す。

 千尋は奏恵に背中を押され、彼の手を離した。

しかしそのすぐあと大和に腕を掴まれ歩道側に引っ張られたのだ。

咄嗟のことで大和も力の加減ができなかったのだろうが、そのおかげで千尋は車に轢かれずにいられた。

 しばらくすると、救急車の音とパトカーのサイレン音が聞こえてきた。

警察官によって車が誘導され、ストレッチャーに大和が乗せられて、千尋も救急車に同乗する。

 病院に着くまで生きた心地がしなかった。

大和の胸が上下に動いていたのは真っ先に確認したが、頭を打っていたらと考えると、もしもだってあり得る。

 救急治療室に運ばれた大和を待つ間、警察から事情を聞かれたため、多少は不安が紛れたが、治療室から看護師や医師が出てくるたびに、大和になにかあったのではないかと目を向けてしまう。

 医師から検査結果CT画像にも異常はないと伝えられ、安堵でその場に蹲り、大きく息を吐いた。

 大和はすぐに一般病棟の個室に移され、千尋も目を覚まさない彼のそばに寄り添った。

警察は大和が目を覚ましたら、また来るとだけ言って、病室から出ていく。

 まぶたを閉じる大和を見ていたら、安心のせいか涙が溢れてきて止められなかった。

「よかった……よかったぁ……」

 大和の手を取ろうとして、自分の手がいまだにぶるぶると震えていると気づく。

 つい数時間前まで繋いでいた大和の手を取ると、爪の中が血で汚れていた。消毒はされたようだが、手の甲にも擦過傷がある。

「大和さんを、失うんじゃないかと、思った」

 彼の手から伝わってくる脈動に安堵し、涙を拭う。
 すると、握っていた手が震えて、軽く握り返された。

「大和さん?」
「……ち、ひろ?」

 まだ意識がぼんやりしているのか、大和は焦点の合わない目を彷徨わせた。ようやく千尋の姿を捉えると、掠れた声で「ここは」と聞く。

「病院です。大和さんは、車にぶつかって……」

 目撃者の話では、奏恵は千尋の背中を押したあと、大和の背中も押したらしい。

 ただ、千尋が車道に出てきた瞬間、運転手が咄嗟にブレーキを踏んでおり、そこまでスピードが出ていなかったことが幸いしたと聞いた。

 とはいえ、車にぶつかったのはたしかで、頭を強くぶつけていた可能性もあるのだから、よかったとは言えない。

「あぁ……君が無事で、よかった」

 人の心配をする大和に安堵と怒りが込み上げてくる。

「あなたが倒れているのを見て、私がどんな気持ちでいたと……っ! なに笑ってるんですか!」
「千尋が、俺のためにまた泣いてくれたから」

 血のついた指先で涙を拭われ、千尋はその手をぎゅっと握りしめた。泣くに決まっているではないか。

彼を失うかもしれないと思ったら、息ができないくらい苦しかった。

「怖かった……大和さんがいなくなったら、どうしようって」
「心残りばかりだから、まだ死にたくないな」
「心、残りって……」

 千尋がしゃくり上げながら聞くと、大和は怪我をしたとは思えないほど機嫌良さそうに笑みを深める。

「せっかく今日、愛していると言えたんだ。死ぬならせめて、千尋を抱いてから死にたい」
「縁起の悪いこと言わないで!」
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