過去で君に恋をした~32歳で死ぬ君を救うために

第18章 過去の記憶

カーテンの隙間から、光が差し込んでいる。
凛は、ベッドに横たわったまま、その光を見つめていた。
何日目だろう。
わからない。
時間の感覚が、なくなっていた。
凛は、体を起こそうとした。
でも、力が入らない。
体が、鉛のように重い。
凛は、また横になった。
天井を見る。
白い天井。
何の模様もない、ただの白い天井。
凛は、目を閉じた。
でも、すぐに開けた。
目を閉じると、いろいろなことを思い出してしまう。
悠真の顔。
母の顔。
会社での出来事。
全部、思い出したくない。
凛は、もう一度体を起こした。
今度は、何とか座ることができた。
ベッドの端に座る。
足を床につける。
冷たい。
凛は、部屋を見回した。
散らかっている。
床には、脱ぎ捨てた服。
デスクには、開いたままのパソコン。
キッチンには、洗っていない食器。
全部、そのまま。
何日も、そのまま。
凛は、立ち上がろうとした。
でも、めまいがして、またベッドに座り込んだ。
いつ、最後に食事をしたっけ。
思い出せない。
お腹は、空いていない。
いや、空いているのかもしれないが、食べたくない。
何も、喉を通らない。
凛は、ベッドサイドのテーブルを見た。
スマホが置いてある。
画面は、真っ暗だ。
通知音は、オフにしてある。
もう、何日も見ていない。
見たくない。
あの誹謗中傷の嵐を、もう見たくない。
凛は、スマホから目を逸らした。
窓の外を見る。
青い空。
白い雲。
きれいな空。
でも、凛の心は、曇っていた。
母は、まだ入院している。
凛は、毎日病院に行こうと思っていた。
でも、行けなかった。
体が、動かない。
心も、動かない。
ただ、部屋に閉じこもって、時間が過ぎるのを待っている。
何もしない。
何もできない。
凛は、また横になった。
目を閉じる。
眠りたい。
でも、眠れない。
頭の中は、ざわざわしている。
いろいろな声が、聞こえる。
「裏切り者」
「会社を潰した」
「僕を利用したのか」
全部、凛を責める声。
凛は、耳を塞いだ。
でも、声は消えない。
頭の中で、ずっと響いている。
時計を見る。
午後3時。
また、一日が過ぎていく。
何もしないまま。
何も変わらないまま。
凛は、天井を見つめた。
このまま、ずっとここにいるのか。
このまま、何もせずに。
答えは、出ない。
ただ、時間だけが、過ぎていく。
夜になった。
凛は、まだベッドに横たわっていた。
電気をつけていない。
部屋は、暗い。
窓の外から、街灯の光が差し込んでいる。
薄暗い光。
凛は、その光の中で、じっとしていた。
動く気力がない。
何をする気力もない。
ただ、横たわっているだけ。
その時、スマホが光った。
凛は、ベッドサイドのテーブルを見た。
スマホの画面が、明るくなっている。
着信。
誰からだろう。
凛は、スマホを無視しようとした。
でも、画面の光が、気になる。
凛は、スマホを手に取った。
画面を見る。
着信は、もう切れていた。
でも、すぐにメッセージの通知が来た。
差出人を見る。
宮下悠真。
凛の心臓が、ドキッとした。
悠真。
悠真から。
凛は、メッセージを開いた。
手が、震えている。
「出られるか」
たった、それだけ。
凛は、画面を見つめた。
返信すべきか。
でも、何て返せばいい。
凛は、迷った。
でも、指が動いた。
「はい」
それだけ。
送信。
凛は、スマホを握りしめた。
心臓が、激しく鳴っている。
数秒後、スマホが震えた。
着信。
悠真からだ。
凛は、深呼吸をした。
そして、通話ボタンを押した。
「もしもし」
凛の声は、かすれていた。
何日も、誰とも話していなかったから。
「水瀬さん」
悠真の声。
いつもの、穏やかな声。
でも、どこか疲れているようにも聞こえた。
「はい」
凛は、小さく答えた。
「大丈夫ですか」
悠真の最初の言葉は、それだった。
凛は、何も答えられなかった。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
でも、それは言えない。
「……大丈夫です」
凛は、嘘をついた。
悠真は、少し沈黙した。
それから、ゆっくりと話し始めた。
「嘘、ですよね」
凛の目から、涙が溢れてきた。
声で、わかってしまったんだ。
凛が、全然大丈夫じゃないこと。
「……すみません」
凛は、涙声で答えた。
「謝らないでください」
悠真の声は、優しかった。
「僕の方こそ、ごめんなさい」
凛は、驚いた。
悠真が、謝っている。
なぜ。
「この前、ひどいことを言いました」
悠真は、続けた。
「君を責めて、傷つけて……僕は、最低です」
凛は、涙が止まらなかった。
でも、声を出さないようにこらえた。
「水瀬さん」
悠真が、また話しかけた。
「会いたいんです。話したいことがあります」
凛は、息を呑んだ。
会いたい。
悠真が、会いたいと言っている。
「今からでも、いいですか」
悠真の声には、切実さがあった。
凛は、部屋を見回した。
散らかった部屋。
自分の姿も、ひどいだろう。
髪はぼさぼさ。
顔も、洗っていない。
こんな姿で、会えない。
でも……。
「……どこで」
凛は、小さく聞いた。
「公園で。あの、夜の公園」
悠真の声。
夜の公園。
「わかりました」
凛は、答えた。
「30分後、そこにいます」
「ありがとうございます」
悠真は、ほっとしたように言った。
「待っています」
電話が、切れた。
凛は、スマホを握りしめた。
そして、ベッドから起き上がった。
立ち上がる。
めまいがする。
でも、倒れなかった。
凛は、洗面所へ向かった。
鏡を見る。
ひどい顔。
目は腫れぼったい。
頬は、こけている。
髪は、乱れている。
凛は、顔を洗った。
冷たい水が、顔に当たる。
少しだけ、目が覚めた気がした。
凛は、髪をブラシで梳かした。
化粧は、しなかった。
する気力がない。
でも、少しでも、ましな姿に。
凛は、服を着替えた。
何日も着ていた服を脱ぎ、新しい服を着る。
それだけで、少し気分が変わった。
凛は、カバンを持った。
その中に、貝殻を入れた。
悠真がくれた、貝殻。
これは、いつも持っていたい。
凛は、部屋を出た。
階段を降りる。
足が、まだ少しふらつく。
でも、歩ける。
外に出ると、冷たい夜風が吹いていた。
凛は、その風を感じながら、公園へ向かった。
久しぶりの外出。
街灯の光が、道を照らしている。
人通りは、少ない。
凛は、歩き続けた。
公園が、見えてきた。
暗い公園。
街灯が、ぽつんと灯っている。
そのベンチに、誰かが座っている。
悠真だ。
凛は、心臓が激しく鳴るのを感じた。
足を進める。
ベンチに近づく。
悠真が、気づいて顔を上げた。
「水瀬さん」
悠真は、立ち上がった。
凛を見つめる。
その目には、心配そうな色が浮かんでいた。
「来てくれて、ありがとうございます」
凛は、何も言えなかった。
ただ、悠真を見つめていた。
悠真は、ベンチを指差した。
「座りませんか」
凛は、頷いた。
二人は、ベンチに座った。
少し距離を置いて。
沈黙が、流れた。
でも、この前のような、重苦しい沈黙ではなかった。
凛は、悠真を横目で見た。
悠真は、空を見上げていた。
星が、いくつか見えた。
「水瀬さん」
悠真が、やっと口を開いた。
「はい」
凛も、小さく答えた。
悠真は、凛の方を向いた。
真剣な顔。
でも、優しい目。
「話したいことがあるんです」
凛は、頷いた。
聞く覚悟は、できている。
何を言われても、受け止める。
悠真は、少し躊躇した。
それから、ゆっくりと話し始めた。
「君の過去を、調べたんです」
悠真の最初の言葉は、それだった。
凛は、息を呑んだ。
過去?
「調べた、というのは……」
凛の声が、震えた。
悠真は、凛を真っ直ぐに見つめた。
「小学校の記録を見ました」
凛の心臓が、激しく鳴り始めた。
「記録……」
「はい」
悠真は、ゆっくりと話し始めた。
「君が、一時期転校していた記録があるんです」
凛は、固まった。
転校?
そんな記録が残っているのか。
「小学2年生の5月から」
悠真は、続けた。
「約1週間だけ、別の学校に転校していたことになっている」
凛は、何も言えなかった。
ただ、悠真を見つめていた。
「でも、すぐに戻ってきた」
悠真の声は、穏やかだった。
「おかしいと思ったんです」
凛は、唇を噛んだ。
記録が、残っていた。
あの時、過去に行った痕跡が。
「たった1週間の転校なんて、普通はありえない」
悠真は、空を見上げた。
「引っ越しでもないのに。家族の事情でもないのに」
凛は、深呼吸をした。
落ち着かなきゃ。
でも、心臓は激しく鳴り続けている。
「それで、いろいろ調べました」
悠真は、また凛を見た。
「君の家族に聞いても、誰も覚えていない。転校したことを」
凛は、驚いた。
母も、覚えていないのか。
「記録だけが、残っている」
悠真の声が、少し震えた。
「不思議でした。でも、それ以上に……」
悠真は、言葉を切った。
それから、深く息を吐いた。
「それ以上に、僕の中に残っている記憶と、重なったんです」
凛の目が、大きく開いた。
記憶?
悠真は、遠くを見るような目をした。
「小学2年生の頃」
悠真の声が、柔らかくなった。
「凛ちゃんという女の子と、遊んだ記憶があるんです」
凛の胸が、熱くなった。
覚えている。
悠真は、覚えている。
「校庭で、鬼ごっこをした」
悠真は、一つ一つ思い出すように話した。
「秘密基地で、二人だけで話した」
凛の目から、涙が溢れてきた。
止められない。
「貝殻を、あげた」
悠真は、凛を見た。
その目にも、涙が浮かんでいた。
「小さな、白い貝殻」
凛は、カバンに手を伸ばした。
震える手で、貝殻を取り出す。
その貝殻を、悠真に見せた。
「これ……ですか」
凛の声は、涙でかすれていた。
悠真は、その貝殻を見つめた。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
凛の手のひらに触れる。
貝殻に、触れる。
「これ……」
悠真の声も、震えていた。
「僕が、君にあげた貝殻」
凛は、頷いた。
涙が、頬を伝う。
「ずっと、夢だと思ってたんです」
悠真は、貝殻から手を離した。
「凛ちゃんという女の子と遊んだこと。秘密基地で、いろいろ話したこと。でも、不思議なことに、その記憶は鮮明で」
悠真は、自分の胸に手を当てた。
「ずっと、心に残っていたんです」
凛は、もう我慢できなかった。
声を出して、泣いた。
悠真は、凛の肩に手を置いた。
優しく。
「夢じゃなかったんですね」
悠真の声は、穏やかだった。
「あれは、本当にあったことだったんですね」
凛は、顔を上げた。
涙で、視界がぼやけている。
でも、悠真の顔は、はっきりと見えた。
「夢じゃ……ない」
凛は、やっと答えた。
「私、過去に戻って……あなたに会ったんです」
悠真は、静かに頷いた。
驚いた様子はなかった。
まるで、もうわかっていたかのように。
「どうやって?」
悠真は、静かに尋ねた。
凛は、涙を拭いた。
そして、話し始めた。
「謎のメールが来たんです」
凛の声は、まだ震えていた。
「代わりに仕事をする、過去に戻れると。そして、机の引き出しが、入口になって」
凛は、一つ一つ話した。
光の中を通り抜けたこと。
小学2年生の自分に戻ったこと。
悠真と遊んだこと。
秘密基地での会話。
全部、話した。
悠真は、黙って聞いていた。
途中で口を挟むこともなく。
ただ、静かに聞いていた。
「そして……」
凛は、言葉を選んだ。
「あなたから、聞いたんです。32歳で死ぬって。製薬会社の薬のせいで」
悠真は、息を呑んだ。
「あの日記……」
悠真は、小さく呟いた。
「未来の僕が書いた、あの日記」
凛は、頷いた。
「あなたが、子供の頃に見つけた日記。それを、私に教えてくれた」
悠真は、目を閉じた。
「そうか……」
しばらく、二人は黙っていた。
風が、木の葉を揺らす音だけが聞こえた。
「だから、君は……」
悠真が、やっと口を開いた。
「僕を、救おうとしてくれたんですね」
凛は、涙が止まらなかった。
「でも、失敗しました」
凛の声は、悲しみに満ちていた。
「あなたを、傷つけてしまった。会社との戦いで、あなたまで巻き込んで。お母さんも、倒れてしまって」
凛は、声を詰まらせた。
「全部、私のせいです」
悠真は、首を振った。
「違います」
悠真の声は、強かった。
「君のせいじゃない」
悠真は、凛の両肩を掴んだ。
「君は、正しいことをしたんです」
凛は、悠真を見つめた。
「でも……」
「僕を救うために、真実を明らかにしてくれた」
悠真の目は、真剣だった。
「それだけじゃない。他の患者たちのためにも」
凛は、何も言えなかった。
「君が、僕を救おうとしてくれたことを知っています」
悠真は、凛の手を取った。
「今度は、一緒に戦いましょう」
凛の目が、大きく開いた。
「一緒に……」
「はい」
悠真は、凛に手を差し伸べた。
「もう、君一人じゃない。僕も、一緒に戦います」
凛は、その手を見つめた。
差し伸べられた手。
温かそうな手。
凛は、震える手を伸ばした。
悠真の手を、握った。
温かい。
本当に、温かい。
「ありがとう……ございます」
凛は、涙を流しながら答えた。
悠真は、凛の手を強く握り返した。
「一緒に、最後まで戦いましょう」
凛は、頷いた。
涙が、止まらない。
でも、今度は悲しい涙じゃない。
嬉しい涙。
希望の涙。
もう、一人じゃない。
悠真が、一緒にいてくれる。
二人で、戦える。
凛は、悠真の手を握りしめた。
強く。
もう、離さない。
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