過去で君に恋をした~32歳で死ぬ君を救うために

第19章 勝ち目のない戦い

弁護士事務所は、駅から徒歩5分のビルの3階にあった。
凛と悠真は、並んでエレベーターに乗った。
上昇する。
凛の心臓が、緊張で早鐘を打っている。
今日は、裁判の準備について、弁護士と打ち合わせをする日だ。
木村記者が紹介してくれた弁護士。
労働問題や企業の不正を専門にしている、経験豊富な人だと聞いている。
エレベーターが、3階で止まった。
ドアが開く。
二人は、廊下を歩いた。
突き当たりのドアに、「川島法律事務所」とプレートが掲げられている。
凛は、ドアの前で立ち止まった。
深呼吸をする。
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ」
悠真の声は、優しかった。
凛は、頷いた。
ドアを開ける。
受付の女性が、笑顔で迎えてくれた。
「水瀬様ですね。お待ちしておりました」
二人は、案内されて応接室に入った。
そこには、すでに一人の男性が座っていた。
50代くらい。
グレーのスーツ。
鋭い目。
「はじめまして。川島です」
弁護士は、立ち上がって握手を求めた。
凛は、その手を握った。
力強い握手。
「水瀬凛です。よろしくお願いします。こちらは、宮下悠真です」
悠真も、川島と握手を交わした。
三人は、テーブルを囲んで座った。
川島は、手元の資料を開いた。
「それでは、早速ですが、現状を整理しましょう」
川島の声は、低く、落ち着いていた。
「まず、水瀬さんが行ったこと。社内データベースへの不正アクセス、機密情報の外部への提供。これらは、就業規則違反であり、不正アクセス禁止法にも抵触する可能性があります」
凛は、唇を噛んだ。
わかっている。
自分がやったことは、法律に触れる。
「会社側は、懲戒解雇だけでなく、損害賠償請求も検討しています」
川島は、資料をめくった。
「すでに、会社の株価は大きく下落しました。その損失を、水瀬さんに請求してくる可能性があります」
凛の手が、震えた。
損害賠償。
どれくらいの金額になるのか。
想像もできない。
「ただし」
川島は、凛を見た。
「公益通報者保護法という法律があります。企業の不正を通報した労働者を保護する法律です」
凛は、顔を上げた。
「しかし、この法律にも条件があります」
川島は、厳しい表情で続けた。
「通報の方法が、適切でなければならない。不正アクセスという手段は、この適切性に疑問符がつきます」
凛は、胸が苦しくなった。
「つまり、水瀬さんの行為は、公益通報として認められない可能性が高い」
川島の言葉が、凛の心に突き刺さった。
「では……」
凛の声は、かすれていた。
「私は、負けるんですか」
川島は、少し沈黙した。
それから、ゆっくりと答えた。
「法廷で勝つのは、難しいでしょう」
凛は、椅子の背にもたれかかった。
力が、抜けていく。
「ただし」
川島は、続けた。
「完全に負けるとは限りません。世論を味方につければ、会社側も強硬な姿勢を取り続けることはできないかもしれません」
「世論……」
凛は、小さく呟いた。
「はい。メディアを使って、真実を広く知らしめる。患者さんたちの声を、もっと大きくする。そうすれば、会社も無視できなくなります」
川島は、資料を閉じた。
「しかし、それには時間がかかります。そして、水瀬さんへの攻撃も、さらに激しくなるでしょう」
凛は、窓の外を見た。
青い空。
白い雲。
きれいな空。
でも、凛の心は、曇っていた。
「もう一つ、厳しい現実をお伝えしなければなりません」
川島の声が、さらに低くなった。
「会社側は、一流の弁護士団を雇っています」
凛は、川島を見た。
「大手法律事務所の、敏腕弁護士たちです。彼らは、企業訴訟のプロです」
川島は、真剣な顔で続けた。
「正直に言います。私一人では、彼らに対抗するのは難しい」
凛は、息を呑んだ。
「もちろん、全力を尽くします。しかし、勝ち目は……」
川島は、言葉を濁した。
でも、その意味は、凛にもわかった。
勝ち目は、薄い。
凛は、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
痛い。
でも、その痛みで、現実を感じる。
「水瀬さん」
悠真が、凛に声をかけた。
凛は、悠真を見た。
悠真の目には、心配の色が浮かんでいた。
「大丈夫ですか」
凛は、何も答えられなかった。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
でも、それは言えない。
「川島先生」
悠真が、弁護士に向き直った。
「私にも、できることはありますか」
川島は、悠真を見た。
「宮下先生は、医師として、副作用の医学的見解を証言していただけると助かります」
「わかりました。喜んで」
悠真は、即座に答えた。
「ただし」
川島は、悠真に言った。
「それにより、宮下先生も会社から攻撃される可能性があります」
悠真は、頷いた。
「覚悟しています」
凛は、悠真を見た。
悠真は、凛のために、自分も危険を冒そうとしている。
凛の目から、涙が溢れそうになった。
でも、こらえた。
ここで泣くわけにはいかない。
打ち合わせは、1時間ほど続いた。
裁判の戦略。
証拠の準備。
証人のリスト。
一つ一つ、確認していった。
でも、凛の心は、重かった。
勝ち目が薄い。
川島の言葉が、頭から離れない。
打ち合わせが終わり、二人は事務所を出た。
エレベーターに乗る。
下降していく。
凛は、黙っていた。
悠真も、何も言わなかった。
ただ、静かに立っていた。
1階に着いた。
ドアが開く。
二人は、ビルの外に出た。
凛は、深呼吸をした。
でも、胸の苦しさは、消えなかった。
その時、凛のスマホが鳴った。
着信。
病院からだ。
凛は、心臓が止まりそうになった。
母。
何かあったのか。
凛は、急いで電話に出た。
「もしもし」
「水瀬さんですか」
看護師の声。
「はい」
凛の声が、震えた。
「お母様の血圧が、再び上昇しています」
凛は、息を呑んだ。
「今すぐ、来ていただけますか」
「はい。すぐに行きます」
凛は、電話を切った。
顔から、血の気が引いていた。
「水瀬さん?」
悠真が、心配そうに凛を見た。
「お母さんが……」
凛の声は、かすれていた。
「血圧が、また上がって……」
「すぐに行きましょう」
悠真は、凛の手を取った。
「僕も一緒に行きます」
二人は、タクシーを拾って病院へ向かった。
車内で、凛は黙っていた。
ただ、窓の外を見つめていた。
流れる景色。
でも、何も見えていない。
頭の中は、母のことでいっぱいだった。
また、悪化した。
私のせいだ。
全部、私のせいだ。
病院に着くと、凛は受付で母の病室を確認した。
悠真と一緒に、エレベーターで3階へ。
病室の前に着いた。
凛は、ドアを開ける前に、深呼吸をした。
そして、ドアを開けた。
ベッドに、母が横たわっていた。
点滴を受けている。
顔色は、前より悪い。
目は、閉じている。
眠っているのか。
凛は、ベッドに近づいた。
「お母さん……」
小さく呼びかける。
母は、目を開けた。
凛を見て、弱々しく笑った。
「凛……来てくれたの」
「お母さん、大丈夫?」
凛は、母の手を握った。
冷たい手。
「大丈夫よ。ちょっと、血圧が上がっただけ」
母は、そう言ったが、その声には力がなかった。
その時、医師が病室に入ってきた。
「ご家族の方ですね」
医師は、凛を見た。
「はい。娘です」
凛は、答えた。
医師は、カルテを見ながら説明し始めた。
「お母様の血圧が、再び上昇しました。前回よりも、数値が高い」
凛は、唇を噛んだ。
「原因は、やはりストレスです」
医師は、真剣な顔で凛を見た。
「このままでは、脳出血や心筋梗塞のリスクが高まります」
凛の心臓が、激しく鳴った。
脳出血。
心筋梗塞。
命に関わる。
「強いストレスは、絶対に避けてください」
医師の言葉が、凛に突き刺さった。
「わかりました……」
凛は、やっと答えた。
医師は、病室を出て行った。
凛は、母のベッドの横に座り込んだ。
母の手を、両手で握る。
「ごめんなさい……」
凛の声は、震えていた。
「私のせいで……」
「違うわ」
母は、首を振った。
「あなたのせいじゃない」
「でも……」
「凛」
母は、凛の手を握り返した。
「あなたは、正しいことをしたのよ」
凛は、涙が溢れてきた。
止められない。
「お母さんは、あなたを誇りに思ってる」
母の声は、優しかった。
「だから、泣かないで」
凛は、首を振った。
泣かないではいられない。
母を、こんなに苦しめている。
自分のせいで。
「休んで、お母さん」
凛は、涙を拭いた。
「私は、大丈夫だから」
母は、凛を見つめた。
その目には、心配の色が浮かんでいた。
「本当に、大丈夫?」
凛は、頷いた。
嘘だ。
大丈夫じゃない。
でも、母には心配かけられない。
母は、ゆっくりと目を閉じた。
疲れているのだろう。
凛は、母の寝顔を見つめた。
苦しそうな顔。
眉間に、皺が寄っている。
凛は、また涙が溢れてきた。
こんなに苦しめて。
こんなに心配させて。
私は、何をしているんだろう。
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「水瀬さん」
凛は、顔を上げた。
涙で、視界がぼやけている。
「少し、外に出ましょう」
悠真は、優しく言った。
凛は、頷いた。
母の手を、そっと離す。
二人は、病室を出た。

病院の廊下。
凛と悠真は、ベンチに座っていた。
窓の外は、曇り空だった。
重く垂れ込めた雲。
今にも雨が降り出しそうだ。
凛は、膝に手を置いて、床を見つめていた。
悠真は、凛の横に座り、何も言わずにいた。
しばらく、沈黙が続いた。
「水瀬さん」
悠真が、やっと口を開いた。
凛は、顔を上げなかった。
「大丈夫です。一緒に戦いましょう」
悠真の声は、優しかった。
励ましの声。
でも、凛の心には、届かなかった。
「お母さんも、きっと良くなります」
悠真は、続けた。
「僕も、医師として、できる限りのことをします」
凛は、首を振った。
ゆっくりと。
「もう……無理です」
凛の声は、小さかった。
かすれていた。
「え?」
悠真は、凛を見た。
「もう、無理なんです」
凛は、顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「裁判も、勝てない。お母さんも、私のせいで苦しんでる。もう……何もかも、無理なんです」
悠真は、何も言えなかった。
ただ、凛を見つめていた。
「私、間違ってたのかもしれません」
凛の声が、震えた。
「真実を明らかにしようとしたこと。会社と戦おうとしたこと。全部、間違ってたのかもしれない」
「そんなことは……」
悠真は、言いかけた。
でも、言葉が続かなかった。
何と言えばいい。
どう励ませばいい。
悠真も、わからなかった。
凛は、両手で顔を覆った。
「もう、やめたい。全部、やめたい」
悠真は、凛の肩に手を置こうとした。
でも、その手は、途中で止まった。
何を言っても、凛を慰められない気がした。
悠真は、ただ凛の手を握った。
両手で、しっかりと。
凛は、悠真の手を感じた。
温かい手。
でも、その温かさも、今の凛の心には届かなかった。
二人の間に、重い沈黙が流れた。
廊下を、看護師が通り過ぎる音。
遠くで、誰かが話している声。
でも、二人の周りには、ただ沈黙だけがあった。
悠真は、何も言えず、ただ凛の手を握り続けた。
凛は、顔を覆ったまま、動かなかった。
時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。
どれくらい経っただろう。
凛は、やっと顔を上げた。
涙を拭く。
「すみません……」
凛は、小さく言った。
「弱音を吐いて」
「いえ」
悠真は、首を振った。
「弱音を吐いてもいいんです。僕は、ここにいますから」
凛は、悠真を見た。
悠真の目は、優しかった。
凛は、また涙が出そうになった。
でも、こらえた。
もう、泣きたくない。
「お母さんのところに、戻りましょう」
凛は、立ち上がった。
悠真も、立ち上がった。
二人は、病室に戻った。
母は、まだ眠っていた。
凛は、ベッドの横の椅子に座った。
悠真は、少し離れたところに立っていた。
凛は、母の寝顔を見つめた。
穏やかな顔。
でも、時々、苦しそうに眉をひそめる。
凛の心は、痛んだ。
数日後、凛は再び川島弁護士の事務所を訪れた。
今度は、一人だった。
悠真は、病院の仕事があった。
応接室に通され、川島と向かい合って座った。
「水瀬さん、お母様の容態はいかがですか」
川島が、気遣わしげに尋ねた。
「少し、落ち着きました」
凛は、答えた。
「それは良かった」
川島は、頷いた。
それから、手元の資料を開いた。
「それでは、本題に入りましょう。会社側の動きについて、新しい情報が入りました」
凛は、背筋を伸ばした。
「会社側は、水瀬さんが提出したデータについて、信憑性を疑う姿勢を見せています」
凛は、息を呑んだ。
「信憑性……」
「はい。不正にアクセスして取得したデータは、証拠能力が弱いと主張しています」
川島は、厳しい表情で続けた。
「法廷では、証拠がどのように入手されたかが重要になります。不正な手段で得た証拠は、採用されない可能性があります」
凛は、唇を噛んだ。
「でも、あのデータは本物です。改ざんなんてしていません」
「それはわかっています」
川島は、頷いた。
「しかし、会社側は『改ざんの可能性がある』と主張する準備をしています」
凛の心臓が、激しく鳴った。
「改ざん? そんな……」
「会社側は、水瀬さんがデータを取得した後、内容を書き換えた可能性があると主張するでしょう」
川島の言葉が、凛の胸に突き刺さった。
「そして、元のデータベースにアクセスして確認しようとしても、会社側は『すでにデータは削除された』あるいは『セキュリティ上、開示できない』と言い逃れることができます」
凛は、拳を握りしめた。
そんな。
そんな卑怯なことが。
「つまり、水瀬さんの持つデータが本物だと証明することは、非常に難しいのです」
川島は、ため息をついた。
「専門家の鑑定を依頼することもできますが、それにも時間と費用がかかります。そして、会社側も対抗する鑑定を出してくるでしょう」
凛は、椅子の背にもたれかかった。
力が、抜けていく。
「さらに、もう一つ問題があります」
川島は、別の資料を取り出した。
「会社側は、水瀬さんの不正アクセスについて、刑事告訴も検討しているようです」
凛の顔から、血の気が引いた。
「刑事告訴……」
「不正アクセス禁止法違反です。もし起訴されれば、裁判とは別に、刑事事件として扱われます」
凛は、何も言えなかった。
刑事事件。
犯罪者として。
「もちろん、公益性を主張して争うことはできます。しかし、それもまた、簡単ではありません」
川島の声は、低かった。
「正直に申し上げます。法廷で勝つのは、非常に難しい状況です」
凛は、窓の外を見た。
曇り空。
灰色の雲。
凛の心も、灰色だった。
「和解という選択肢もあります」
川島が、提案した。
「会社側と交渉して、ある程度の条件で和解する。それも、一つの道です」
凛は、川島を見た。
「和解……」
「はい。全面的に負けるよりは、ましかもしれません」
凛は、何も答えなかった。
和解。
それは、戦いをやめるということ。
真実を、途中で諦めるということ。
「少し、考えさせてください」
凛は、やっと答えた。
「わかりました。時間をかけて、よく考えてください」
川島は、優しく言った。
凛は、事務所を出た。
重い足取りで、駅へ向かった。
電車に乗る。
窓の外の景色を、ぼんやりと眺める。
何も考えられない。
頭の中が、真っ白だ。
自宅に着くと、凛は部屋に入った。
カバンを床に置く。
ソファに座り込む。
凛は、天井を見上げた。
白い天井。
何もない天井。
「全部、やめたい」
凛は、小さく呟いた。
裁判。
戦い。
全部、やめたい。
こんなに苦しいなら。
こんなに辛いなら。
やめてしまえば、楽になれる。
母も、これ以上苦しまなくて済む。
自分も、この重圧から解放される。
凛は、目を閉じた。
和解。
川島の言葉が、頭に浮かぶ。
それも、一つの道。
全てを失うよりは、まし。
凛は、深く息を吐いた。
諦めよう。
そう思った。
でも、その時。
デスクの上の小さな袋が凛の目に留まった。
貝殻。
悠真がくれた、貝殻。
凛は、立ち上がった。
デスクに近づく。
袋を手に取る。
中から、貝殻を取り出した。
小さな、白い貝殻。
手のひらに乗せる。
光にかざすと、虹色に光る。
凛は、その貝殻を見つめた。
子供の頃の悠真の顔が、浮かんできた。
「凛ちゃんなら、何かできると思うから」
悠真の言葉。
あの時、秘密基地で言ってくれた言葉。
凛は、貝殻を握りしめた。
諦めていいのか。
ここで、やめていいのか。
悠真との約束。
患者たちの苦しみ。
真実を明らかにすること。
それを、諦めていいのか。
凛は、葛藤した。
諦めたい。
でも、諦められない。
楽になりたい。
でも、逃げたくない。
凛は、ソファに座り込んだ。
貝殻を、胸に抱く。
答えは、出ない。
ただ、葛藤だけが、心を満たしていた。
窓の外は、暗くなり始めていた。
夕暮れ。
オレンジ色の光が、部屋に差し込んでいる。
凛は、その光の中で、じっとしていた。
貝殻を握りしめたまま。
動けなかった。
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