ブーケの行方と、あの日の片思い

第三十五章:土曜の待ち合わせ

土曜日の夜。
電車を降りた瞬間、空気の温度が一段下がったように感じた。

優花は、駅前に広がる静かな高台の街並みを見渡した。
都心から少し離れただけで、空気が澄んでいる。
どこか、物語が始まる前触れのような匂いがした。

黒のタートルネックに落ち着いた色のフレアスカート、
その上にトレンチコートを羽織った自分の姿は、鏡で何度も確認してきたものだ。
しかし、改札を抜ける瞬間だけは、どうしても胸が高鳴ってしまう。

(……いる。)

五分前。
指定された改札を出ると、すぐに宏樹の姿が目に入った。

柱のそばに立ち、
人混みの向こうを探すように視線を向けている。

黒のジャケット、グレーのチノパン。
そして胸元には、あの日と同じ、小型の一眼レフ。

彼が優花に気づいた瞬間——
ふっと、表情が緩んだ。

「相沢!」

あの、優しく名前を呼ぶ声。
二次会よりもずっと自然で、親しい響きだった。

「宏樹、お待たせしました」

「いや、俺の方が早く来ただけ。……寒くない? 今日、思ったより風が強いから」

そう言うと、宏樹は自分の横に置いていた紙袋を差し出した。

「これ、よかったら」

優花が受け取ると、中には新品の貼るカイロと、厚手のふわふわしたストール。

「……こんなに準備してくれたんですか?」

「相沢、寒がりだろ? 高台は冷えるって聞いたからさ。
風邪ひかれたら、俺、美咲に本気で怒られるから」

冗談めかして言いながらも、
その表情はまっすぐで、気遣いが滲み出ていた。

優花はストールを肩にかけ、そっと身体を包み込む温かさに微笑む。

「ありがとう。すごく……暖かいです」

「よかった。……それに」

宏樹は少しだけ視線を上下に滑らせ、穏やかに言った。

「相沢、その服……すごく似合ってる。
夜景、きっと映えると思う」

一瞬、胸が跳ねる。
準備に費やした時間がすべて報われた気がした。

「ありがとうございます。宏樹も、とても素敵です。
その……カメラ、今日も一緒なんですね」

「うん。今日は相沢と撮るために持ってきた。
あ、もしよかったら——これ」

リュックから取り出されたのは、小型の三脚。

「昔使ってたやつだけど、相沢が自分で撮りたくなった時に便利だと思って。
手ブレもしにくいし、初心者でも綺麗に撮れる」

(……どうしてこんなに。)

準備の細やかさ。
言葉の端々から感じる、“この時間を大事に思っている”気持ち。

優花の胸が、じんわりと熱くなる。

「ありがとうございます。
実は……少しだけカメラの勉強してきたんです」

宏樹の目が驚きで見開かれ、次の瞬間、ふわりと笑った。

「そうなのか。……それは嬉しいな。
じゃあ、一緒に色々試そう。ほら」

宏樹は駅から伸びる坂道を指さす。

「あの坂を抜けると、今日のメインスポット。
雨の日の路面が綺麗に光る場所——探したんだ。
相沢が好きって言ってたから」

胸の奥で、静かに何かがほどけた。

「……ありがとうございます。
行きましょう」

並んで歩き始めると、
肩が触れるか触れないかの距離が心地よかった。

都会の喧騒から離れた、静かな夜の高台。
足音と、風に揺れる木々の音だけが二人の空間を満たす。

その一歩一歩が、
新しい関係へ進むための階段のように感じられた。
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