婚約破棄されたぽちゃOL、 元スケーターの年下ジムトレーナーに翻弄されています
「はい、プランク終わり」
「ぶはっ」
悠貴の合図とともに、ぺしゃんとマットにおでことお腹を打ちつけた。
「だから息止めるなって言ってんのに」
このジムで私に優しくないのは、このパーソナルトレーナーだけだ。
ゆっくりと体を起こし、息を整えながらマットの上に座り直す。
「つ、次は……?」
「5分休憩」
良かった、もう腕とお腹に力が入らない。
ほかの人の邪魔にならないように、ベンチに座って水分補給をする。
首周りにかいた汗をタオルで拭っていると、隣に悠貴が座ってきた。
手には青いバインダーを持っている。
「知ってた? 今日俺と瑠衣さんの記念日なの」
唐突な発言に、思わず水を噴き出しそうになる。
「パーソナル契約して30日。まあ実際に会って指導したのは4回ぐらいだっけ?」
「そ、そうなるね」
「お祝いに食事管理もつけられるようになるけど、どうする?」
「……それは?」
「契約時に説明した。聞いてなかった?」
そう言えば、聞いたような気もする。
パーソナル契約継続一カ月で、食事管理プログラムを一定期間無料で試すことができる。
食事管理プログラムとは、その名の通り食事の写真をトレーナーに送ることで、アドバイスや次の食事の提案を受けられるというものだ。
それはいいんだけど……なんで変な言い回しをするんだろう、この男は。
「無料期間のうちに食事のコツがわかってくるもんだから。やるだけやって金かかる前にやめればいい、みんなそうしてる」
「……うーん」
せっかくなら、やった方が良いに決まってる。
トレーニングを続けてきてダイエットへの意欲もさらに高まりつつある今。
食べるものにもプロの意見が入れば、より効果的になるのはわかってる。
「なに、なんで悩むんだよ」
「えっと」
「食事は好きなようにしたい? いちいち写真送るのが面倒?」
「正直そう思ってるけど……」
青いバインダーを眺めていた悠貴が、チラ、とこちらを冷たい目で見遣った。
「痩せる気あんの?」
「あ、ある! でも心で思うのは自由でしょ!」
視線でも言葉でもグサッと刺されて、つい反論してしまう。
なにも今までみたいに食べたいだけ食べて、それで痩せられるなんて思ってない。
それでも、私には譲れないものがある。
「食事管理、お願いはしたいんだけど。どうしても許してほしいものがあって」
「なに?」
「……お菓子」
ダイエットとスイーツは対極にある、と思っている。
それでも、私はお菓子をやめることはできない。
会社の会議では毎週のように新作お菓子の試食が行われるし、たくさんある店舗でケーキなどの生菓子を買って食べて、抜き打ちで品質を調査する……なんてことはほぼ毎日。
それに、新しいお菓子の企画を作るためには、世の中に出ているお菓子を知っておく必要がある。
「うちは老舗洋菓子店と言えるけど、だからと言ってあぐらをかいていたらダメなの。毎週新作スイーツを出すコンビニは強すぎる競合相手だし、流行りを取り入れたオシャレで新しい企業もどんどん伸びてきてる」
「ふーん」
「だから、研究のためにお菓子を食べないわけにはいかなくて……!」
「わかった」
「……え? いいの?」
「うん」
拍子抜けする。
絶対に、我慢しろと怒られるかと思っていた。
「そもそも続けられないほどガチガチに食事制限したら意味ないだろ。ゆくゆくは、ダイエットは特別なものじゃなくて習慣に変わっていくもんなんだから」
「そ、そっか」
「瑠衣さんにとってお菓子が大事なら、取り上げたりしない。食べてもいいように俺が調整すればいいだけ」
「ほ、ほんとに……!」
すごい。今初めて悠貴に対してキュンとした。
お菓子食べていいよ、って言われただけなのに。
バインダーに挟まれた私の記録に書き込んでいく横顔が、頼もしく見える。
「ありがとう。間食はリンゴとサツマイモしか許さないとか言われると思った」
嬉しくてちょっとはしゃいだ声でお礼を言うと、悠貴がフッと鼻で笑った。
「偏見すぎだろ。別に、大会を控えてるスポーツ選手でもないんだし」
スポーツ選手。
悠貴が発したその言葉に、気になっていたことが浮上する。
スタッフさんやジムの仲間から少しだけ聞いた、彼の過去。
「……悠貴って、スケート選手だったの?」
「ん?」
サラサラと記録する手元から目を離さない悠貴に、もう少し踏み込んで聞いてみる。
「フィギュアスケートやってて、大きな大会にも出てたって」
「んー」
「スタッフさんとかほかの人に聞いて――」
「おせっかいの次は知りたがり?」
「……え?」
パン、と音を立ててバインダーが閉じられる。
「もう懲りたんじゃないの? 余計なことに首突っ込むの」
上がったテンションのノリで、軽い世間話のつもりだった。
だから、彼がまとう空気が冷えたことにわかりやすくたじろいでしまう。
急にとげとげしくなった口調に、さっきまでの嬉しい気持ちが消えていく。
「休憩終わり」
さっさと行ってしまった彼の後ろ姿を、しばらく呆然と見ていることしかできなかった。