婚約破棄されたぽちゃOL、 元スケーターの年下ジムトレーナーに翻弄されています
第5話:「無理かどうか、試してみる?」
財布がないことに気がついたのは、ジムを出て電車に乗り、自宅の最寄り一つ手前の駅だった。
会社では持っていたし、ジムで貴重品をスパバッグに入れたところまでは覚えている。
多分、ジムで落としてきた。
普段なら一日くらい財布がなくても良いし、明日の朝に取りに行けばいい。
でも運悪く会社の部署のカードキーを入れたままだったので、所在を確認しないわけにはいかない。会社のセキュリティに関わるものを失くしたとなれば大ごとだ。
盛大にため息をつきながら、みなとみらいの駅を出てジムへと速足で戻る。
今日は嫌なことばっかりだ。
だから早く家に帰って、アイスでも食べてのんびりしようと思ってたのに。
一応電話は入れてあるけど、ジムも閉館ギリギリ時間だ。遅くなって迷惑をかけたら申し訳ない。
なるべく急いで歩いて、横断歩道に差し掛かる。
この信号を渡ればジムまでもう少しだ。
青になるのを待っていると、すぐ近くにあるコンビニの自動ドアが開き、ひとりの男性が出てきた。
「……瑠衣?」
その声に、すべての思考が止まった。
姿を見て、思わずヒュッと息をのむ。
元彼だった。
「おお、やっぱ瑠衣だ」
実家への挨拶をドタキャンして振ってきたとは思えない、ついさっきまで一緒にいたみたいな気さくさで近づいてくる。
「お前なんか雰囲気違くない?」
「なに、知らない」
「おいなんだよその態度」
「話しかけないで」
本当は言ってやりたいこともたくさんあるし、殴ってやりたいところだけど、あいにく今の私は酔っていない。
本当に、今日は最悪の日だ。
早く信号が変わって欲しい。
目を合わせないように下を向いているのに、彼はなぜか隣に来て話しかけ続けようとする。
結婚する気はない、女として見れない、そう言ってフッたくせに、何のつもりなのかまったくわからない。
次第にイライラが募り始めたところで、またウィン、と開いたコンビニからひとりの女性が出てきた。
「和真さん?」
若くスタイルの良い女性はヒールを鳴らしながらこちらにやって来て、あろうことか彼の腕にギュッとしがみついた。
その瞬間、心臓に水をかけられたみたいに体が一気に冷えていった。
「だーれ? その人」
明るい茶色の巻き髪を揺らして、その女性は小さく首を傾げた。
長くカールしたまつ毛に、流行りのメイク。黒いツイードのミニスカートのセットアップは、所々キラキラとしたビジューがちりばめられている。
彼が次に選んだのは、若くて可愛くてスタイルの良い女性。
私とは、大違いだ。
彼……和真は私に向かって薄ら笑いを浮かべたまま、彼女に答えた。
「ああ、なんでもないよ。昔の」
「えー気になっちゃう」
昔の、って。
5年付き合った女を何だと思っているのか。
私も私で、こんな人でも結婚してもらいたくてずっと必死だった。
身の回りのことは全部やったし、何でも言うことを聞いた。
情けなさと怒りが湧き上がってくる。
信号が青になって、早く渡ろうとしたその時だった。
「わかった! 前言ってたオバさん彼女?」
それなりに大きい声で、周りにいた人がこちらを振り返った。
「お前言うなって」
「だってそうでしょ、佇まいがもうオバさんだもん」
ふたりが笑う様子が、どこか他人事みたいに見えた。
視界もぼんやりしてきたし、周りの音も遠くなる。
ショックすぎて、脳が感覚を鈍らせているんだ。
体だけじゃなく、心の奥まで冷たくなってくるのを感じ始めた。
人の前でバカにされて笑われて、なんて惨めなんだろう。
若くないことは、そんなにいけないことだろうか。
ダイエットしようが、新しい顔を作ってトレーニングをする自分に胸を張ろうが、今よりも若い年齢に戻れるわけじゃない。
目に涙の膜が張ったのを感じて、急いでその場から離れる。
今度こそ信号を渡ろうとして、途中で前から渡ってきた人にぶつかった。
「す、すみませ――」
「待って」
謝るのもそこそこに走り出そうとして、腕を掴まれた。
顔をのぞき込まれて、ハッとする。
甘くて爽やかな、ボディーソープの香り。
もうこの匂いも、嗅ぎ慣れていた。
トレーニング中は見せなかった柔らかい顔で――悠貴は微笑んだ。
「お姉さん可愛いね。俺と遊んでよ」
「……え?」
悠貴の温かい手が、頬に添えられる。
いつの間に流れていたのか、親指で涙を拭われた。
横断歩道の真ん中で、行き交う人たちの視線が突き刺さる。
あのふたりの笑い声も、聞こえなくなっていた。
「ね、いいでしょ?」
「なに言って――」
言い終える前に、悠貴が私の横に並びギュッと肩を抱いてくる。
「行こう」
点滅し始めた信号に急かされて、ふたりで横断歩道を渡る。
後ろから、元彼の声が聞こえたような気がした。
でもその瞬間にまた強く肩を抱かれて、そんなことどうでもよくなってしまった。