婚約破棄されたぽちゃOL、 元スケーターの年下ジムトレーナーに翻弄されています
第15話:「そんなの……行ってほしくないけど……」
ふらふらと、ひとりでジムの非常階段を上がっていく。
頭の中では、さっきアンナさんに言われたことがぐるぐると繰り返されていた。
詳しい話では、アンナさんは悠貴をアイスショーの選手として再び育てたいらしい。
メダルや順位を争う競技は、今から必死に練習したとしても難しいものがある。
それでもショーや催しなど、お客さんに見せて楽しませるものなら、悠貴の実力があればブランクがあっても取り戻せるかもしれないということだった。
しかしそのためには、彼女の本拠地であるカナダに渡る必要がある。
悠貴には二カ月程前から話していたけど、なにか吹っ切れないのかなかなか首を縦に振らないのだという。
そっと、屋上の扉を開ける。
ここに来たのは、悠貴の顔を見たいような、でも見たくないようなそんな気持ちだったからだ。
ふたりだけの秘密のこの場所なら、悠貴がいなくても彼のことを感じられる。
ベンチに座って、遠くの方の景色をぼんやりと眺める。
都会の真ん中ではやっぱり星空は見えず、それでもビルの灯りが人がいることを思わせて、なんとなく安心する。
空気がやけに冷たくて、自分の両腕をさすった。
クリスマスマーケットの帰り、スケートリンクを見ていた悠貴の顔が忘れられない。
あの切なげな表情は、今思うともう戻れないスケート界への未練と憧れだったのかもしれない。
「私、悠貴の気持ちなんにも知らないな」
小さく呟いた言葉は、冷たい風に乗って消えた。
少し悩んだのち、バッグからスマホを取り出す。
動画投稿サイトを開き、悠貴の名前を検索する。
関連動画がスマホの画面に並び、一番上に出ていたギリギリ8000に届かない再生数の動画をタップする。
スケーター時代の悠貴を見るのは、これが初めてだった。
ネットに動画があることは知っていたけど、なんだか見る気がしなかったのだ。
結構な頻度で会っているのに、こそこそ動画を見るのはいけない気がしていた。
動画が再生されると、スケートリンクの真ん中に黒い衣装を着た悠貴が滑ってきた。
遠目でもわかる、若い。
投稿時期を見ると8年前なので、16、7歳ぐらいだろう。
なにかの大会のようだけど観客はそれほど多くなく、予選なのかもしれない。
悠貴は黒地に流れるようにシルバーの刺繍が施されたシンプルな衣装に身を包んでいて、この頃から今のようなしっかりした体格なのが見て取れた。
真ん中に立つ悠貴がポーズをとると、会場が静寂に包まれて音楽がかかった。
よくテレビなどで聞いたことのある、聞き馴染みのあるクラシックだ。
音楽が始まった途端、悠貴の顔つきが変わり息をのむ。
……前に、ロッカールームで女の子たちが黄色い歓声をあげていたのにも納得だ。
頭のてっぺんから手足の指先まで、末端まで気を使ったしなやかな体の動き。
そしてどこか虚ろな様子でさまよわせる視線に、なにかを訴えかけるような瞳。
確かに色っぽい、艶やかな演技だ。
少年っぽさが残る風貌でそんな魅せ方をするものだから、見ているとギャップでドキドキしてしまう。
そして何より、時折危な気に滑るものだから胸がキュッと締め付けられるのだ。
ジャンプの着地が、正直なところ心臓に悪い。
「頑張れ……」
気がつくと、声に出ていた。
必死なのか、疲れてしまっているのか、後半には年相応の幼い顔つきの悠貴に戻る瞬間も多かった。
もうとっくの昔に終わった演技なはずなのに、私は夢中で食い入るように画面を見つめて、過去の悠貴を応援していた。
演技を見終わった頃には、気持ちが高揚していて寒さを忘れていた。
落ち着かない緊張感が心地よく、良い映画を見た後のような満足感も生まれていた。
演技的には、素人が見てすごく良いとか悪いとかはよくわからない。
それでも、ひとつだけわかったこともあった。
氷上の悠貴は、今までに見たことがないくらい生き生きとして輝いていた。
普段はどちらかというと淡々としている悠貴が、あんなに全身で色んな感情を表現していることに驚いて、そしてそれがすごく素敵だと思った。
アンナさんは悠貴にはスケートしかないと言ったけど、きっと悠貴は単純に滑ることが好きなんだろう。
カナダへ渡って再びスケーターとして活動することが、悠貴の幸せなのだろうと思う。
だけど――。
そろそろ会社員たちは、残業を終える時間帯なのだろうか。
周りを取り囲むビルの、灯りが少しずつ消えていく。
……悠貴にカナダへ行ってほしくない。
悠貴のおかげで、自信のない私から堂々と前を向ける私になれた。
結婚したいという思いに、自分の未来が妨げられていたことにも気づけた。
幸せがなにか、見つめ直すことができた。
そして、やっと彼のことを好きだと自分の気持ちを認められるようになったのに。
どうしたらいいんだろう。
悠貴の好きなことを尊重するのが一番だとわかっているのに、遠くへ行ってほしくないと思ってしまう自分のワガママに大きくため息をついた。